胸がざわつくような予感に目を覚ます。何か嫌な夢を見ていたような気がするが、思い出せない。ただ、背中に異常なほどの汗をかいていた。体温調節が上手くできず、毛布を蹴る。
身体か、精神か、或いはその両方か。不快感はぼくを再び寝付かせることを阻むから、何度か寝返りを打ってから、とうとう諦めた。まだ明け方だ。酷く喉が渇いていた。厨房に行けばもしかしたら朝食の仕込みでエルーンの男性たちのいずれかが起きているかもしれない。コップ一杯分だけ水を貰おうと、気怠い身体を起こす。
騎空艇は次の目的地へ向かって空を飛んでいたけれど、その駆動音以外は静かなものだ。しんと静まり返った廊下を気配を殺しながら歩く。見張りのため、何人かはどこかで今も起きているのだろう。だけど、そうとは俄かに信じられないほどの静寂が、ぼくの半径いくらか分を包み込んでいるようにすら思う。
通路側の小窓から空を見上げれば、それは何だか、懐かしい青色をしていた。空域の問題ではなく、時間帯のせいだろう。黎明の空は日の出前の一瞬だけ濃い青に染まる。それがなぜだか今は、得体の知れない色のように思えて空恐ろしかった。突発的に、ぼくは走る。足音をなるべく立てないようにしながら。迫りくる何かから逃れる様に。
「あれっ? どうしたの?」
だから、厨房の扉を開けた瞬間、聞き慣れた彼女の声が耳に入ったとき、ぼくは何故だか、救われたような気になったのだ。
さんはちょうど、エプロンの背中側にあるリボンを結ぶために手を後ろにやっているところだった。ローアインさんたちの姿はない。目線でぼくの疑問を察したのか、彼女は僅かに首を傾げて、「今日は私が下拵えのお当番なの」と微笑んだ。下拵えが当番制だったことを、ぼくはこのとき初めて知った。
「カトルくんは、えっと、何かあった?」
さんが窺うようにぼくを見るから、ぼくはそこでようやく、自分の中にこびり付いていた得体の知れない何かがやわくなっていることを知る。強張っていた顔に一度手をやって、それから目線を落とした。「目が覚めてしまって」それ以上に、なんと答えたらいいのか分からない。
なんだか胸がざわついた。酷く嫌な予感がした。どうしても落ち着かなくて、あの空の暗い青色が、酷く不吉なもののように思えて。だけど口にしてしまったら、さんをも不安にさせてしまうかもしれない。
エプロンのリボンを結び終えたさんは、ぼくの目の前までやってくると、口元に置いたままだったぼくの手をそっと取った。温度の低い、けれどすべすべとした、女の子の手だった。
手を握ってくれたのかと思ったけれど、しかし、彼女はぼくの手の平の、人差し指と中指の付け根の間あたりを不意にぐりぐりと押し始めたから、少し考え込んでしまう。
「…………それは何をしているんですか?」
「これは不眠のツボだって」
「不眠のツボ」
「この前シャオさんがここを押すといいって教えてくれて」
ぼくのものよりも一回り小さな手でツボを押してくれるさんを見下ろす。力がないから全く痛くないのだけど、どう反応したらいいものか。一頻り揉んで満足したのか、さんはやがてぼくの顔を満面の笑みで見つめるから、思わずつられて笑ってしまう。ぼくの浮かべたそれは彼女ほど美しくはない笑みだったけれど。
ツボを押してもらっておいてなんだけど、ぼくはもう眠気の一切を失ってしまったし、このまま厨房で彼女の仕事を手伝うのもいいかもしれない。窓の向こう側から朝陽が差し込んで、既に陽が昇り始めていることを知る。眩しさに一瞬目を細めると、さんが「朝だー」と機嫌よさそうにぼくに背を向けた。その腰のあたりにあったエプロンのリボンが縦結びになっていることに気が付いて、思わず小さく吹き出してしまう。
不思議そうにぼくを振り返るさんの顔が年の割にあどけなく見える。ぼくは自分の感じた恐怖を彼女に曝け出すことはきっとこれから先もないだろう。例え愛した人であったとしても、他人に縋りつくのはごめんだから。
どんなに苦しくても、君を神様にはしたくないな。思わず撫でた頭蓋の先で、彼女は何も知らずに目を閉じる。

プリンシピオ / 「走る」「明け方」「神様」