2019
 幸せな日々でした。
 その言葉は、安寧の最中にいる私を不意に殴りつける。
 食堂でローアインさんたちと並んで芋の皮剥きをしているときだったり、コルワさんに仮縫いのウェディングドレスをあてられているときだったり、グランくんに他愛もないことを書き綴ったノートを渡しているときだったり。
 そう言った時、私は自分の脳の中で、自分に良く似た声の誰かがそう呟くのを確かに聞く。それははっきりと、私の鼓膜や耳小骨を揺らし、電気信号になって脳に届く。
 幸せな日々でした。
 不自然に過去形で締めくくられたその言葉は、まるで今の私を形容しているようには思えず、私は不意に脳裏に浮かぶその言葉を異物とみなして排除しようとするのに、どうしても、頑固なそれは簡単には剥がれ落ちてくれなかった。
 幸せな日々でした。洗濯物を取り込んで、甲板でアンスリアさんが踊っている姿を遠目に見る。幸せな日々でした。お使いを頼まれ、山を越えた先にある小さな村にナルメアさんと一緒に行く。「疲れてない? 帰りはおんぶしてあげよっか?」と私を見上げる彼女に首を振りながら、軽快に山を下っているように装う。私の足音に紛れ、踏み潰されるように、それは時折平然と顔を覗かせる。幸せな日々でした。誰かが繰り返す。
 幸せな日々であることに間違いはない。
 私の足は動く。失った家族の穴を埋めるように、グランサイファーの皆は優しい。好きな人がいて、その人も私を大切に思ってくれていて、こんなに嬉しいことがあるだろうか。私はこの世界では、平凡な、普通の女の子として生きていられた。
 だけど、時折夢を見る。
 兄の体液の生温かさをまざまざと思い出す。胸を押し潰した兄の腕はぞっとするほど重かった。耳鳴りの中、誰かの喚くような声を聴く。意味を成さない音の羅列。夢の中の私は、ここにいる誰も助からないのだと知りながら、潰れた喉で助けを呼ぶ。聞くに堪えない無残な呼吸音は、あの男のそれに上書きされる。ああ、やっちまった、やっちまった。私はどうして泣きながら、「カトルくん」だなんて、あの瞬間あそこにいるはずのない人の名前を呼ぶのだろう。
 夢から覚めた私は、いつも倦怠感と頭痛に襲われて、暫くの間動けない。








 ナルメアさんと遠くの村までお使いに行った翌日、カトルくんとシスさんにお客さんが来ていることをグランくんから聞いた。恐らく十天衆の誰かなのだろう。シスさんが来てからは初めてのことだったけれど、以前も十天衆の頭目と呼ばれる立場の人が顔を見せにやってきた、という話は人伝に聞いていた。



にも会ってみたいって言ってたよ」



 そうグランくんに言われても、自分からその人のところに行こうとは考えなかった。社交辞令だと思ったのだ。もし体調が万全だったら、もしかしたらのこのこと挨拶に行ったのかもしれないけれど。
 重たい身体を引き摺るように今日も芋の皮を剥く。大所帯のグランサイファーでは、調理の下準備は大仕事だ。



「や、トモイもちょも倒れたときは、全滅パティーン来るんじゃね? と思ったけど、やっとグラサイの皆も調子戻ってきた的な?」

「あんときはマジ焦ったわ~。何人かヘルプに入ってくれなきゃまずかったっしょ」

「ご迷惑おかけしました……」

「俺も夢枕にじーちゃんが立ったときはもうダメかと思ったわ、お陀仏エンド見えたっつーか」

「ッべーわそれべーわ……あれ? お前のじーちゃん亡くなったっけ」

「ぴんぴんしてるっつーの!」

「ですよねー! ちょはDOなん? もう全快?」

「私は……」



 話を振られて、ふと芋の皮を剥いていた手を止める。
 私が風邪をひいて寝込んでいたのは数日前までのことだったけれど、そういえばあの幻聴をはっきりと自覚し始めたのは、その頃からだったかもしれない。カトルくんが、私の隣で眠っていた日。あの日から。
 けれどその点について今言及する気はなかった。人に話したところで、この焦燥感に似た不安が消滅するわけでもない。よくわからないことで心配をかけたくなかったし、ローアインさんたちには笑っていてほしかった。彼らがきれいに笑うから、私も一緒に笑顔を作った。難しいことじゃなかった。



「私も、もうすっかり良くなりましたよー」



 嘘は吐いていない。だって本当に体調は良かったのだ。
 私に視線を送る三人の顔は一様に穏やかで、私はここでお手伝いさせてもらえることを幸福に思う。幸せな日々でした。違うのだ。だから、その時、不意にふくらはぎの痛みに気付いたりしなければ良かった。
 その違和感を無視できるほど、最近の私は楽観的にはできていない。








 足の痛みは、それから徐々に増していた。
 厳密に言えば、私がその痛みを意識し始めてしまったせいなのだろう。起き抜けの倦怠感が、その部分に集約されているようだ。気にしないように努めていても、頭の端で不意に漏れるあの言葉とそれが重なる度、私は何故だか追いつめられているような気になる。
 ローアインさんが調理場の上の戸棚に入っていた鍋を取り出そうとしたとき、私の顔に、彼の腕の影が落ちた。それだけで私は呼吸ができなくなった。肉の感触を思い出した。お兄ちゃん。呟いてしまったその言葉は、エルセムさんの声に潰されて消えた。
 寝込んでしまって以来、精神的に不安定なのかもしれない。もしかしたらまだ本調子ではないのかも。シャオさんに相談して、そう言うものを和らげる薬がないか聞いてみた方が良い。
 お昼の準備を終えた私は、ランチタイムまでの空き時間にシャオさんを捜すことにした。エプロンをつけたまま食堂を出て、甲板へ向かう。
 以前彼が居た場所を覗いてみたけれど、今日はそこにはいなかった。船室の並ぶ階層まで降りて、彼の個室をノックするけれど返事はない。では、談話室はどうだろう。重たい足を半ば引きずるようにしてそこへ向かったときには、私はグランくんの言葉をすっかり忘れてしまっていた。



にも会ってみたいって言ってたよ」



 どうして忘れていたんだろう。せめて予め、その人を遠目からでも見ておけば良かった。そしたら私は、少なくとも今日この、頼りないような、心がぐらぐらした状態で彼に会うことは避けたはずだった。 
 扉を開けたその瞬間目が合ったその人に、私はほとんど泣き出しそうになっていた。
 幸せな日々でした。この時も、私はそう思ったのだ。強く、強く、唇の端から零れ落ちそうなほどに。
 「彼」は私の兄に似た目をしていた。
 談話室には、三人の人影があった。一番奥のテーブルに座った彼らが、部屋の扉を開けた私に向けられる。最後に私に目をやったのはカトルくんだった。その隣には、仮面で顔を覆ったシスさん、そして二人の向かいに座っていたのが、その人だ。



「どうしたんですか」



 そう声をかけてくれたカトルくんに縋りつきたい衝動に駆られるけれど、そんなことができるはずがない。私はカトルくんに視線を送りながら、その人を意識の外に置こうとした。そんな器用な真似は、私にはできなかったけれど。



「あ、その、ちょっと人を捜していまして」

「生憎ここにはぼくたちしかいませんが……誰を捜しているんです?」

「えっと、シャオさんなんですけど」

「シャオさん?」



 相手が相手だからだろう。カトルくんは怪訝そうに眉を寄せてみせた。そんな中でも、彼とテーブルを挟んで向かい合ったその人に視線を送ってしまう。
 私の心臓は強く拍動を刻んでいた。走り込んだ直後ほどの強い鼓動の音が、私の身体の中心から聴こえる。私だけが生き残ってしまったと、あれほど恨んだ臓器が作る音を、私は今痛いほどに知覚している。

「……またどこか体調が悪いんですか?」

「ちょっとカトル~、俺のことも紹介してよ」



 殴られたような気になった。その声が、兄と似ても似つかなかったことに安堵すべきだったのに、私はあの日のことを確かに思い出していた。兄の体液の生温かさを感じながら、遠のく意識の先で聞いた声を。どうしてあの声を思い出すのだろう。
 だから、酷いと思ったのだ。
 言葉を遮られたカトルくんは、不愉快そうに視線を彼へと向けた。



「……嫌ですよ。どうしてぼくが彼女にあなたのことなんか紹介しなきゃいけないんですか」

「えっ? 彼女ってやっぱり彼女? この子、カトルの恋人なの?」

「そう言う意味でその言葉を使ったわけじゃないんですけど」

「なに、違うの?」

「…………違いませんが」

「えっやっぱり? ねーねーその辺どうなのシス、どういう経緯でそう言う感じになったのよ」

「……俺は何も知らん」

「そもそもあなたに話す筋合いはありませんよね」



 人の良さそうな垂れた目じりに、精悍な眉。笑顔なんか、泣きたくなるくらいに似ている。もしも声まで似ていたら、私は彼に縋りついて泣いていたかもしれない。癖のある髪、人好きのする笑顔。彼の風貌は、まるで兄そのものだったから。
 カトルくんから素っ気なく扱われた彼は、諦めたようにソファから立ち上がった。身長は兄よりも少し高いなと、無意識に比べてしまう自分を情けなく思う。



「やー初めまして」



 扉の前から動けずにいる私の方へ歩きながら、彼はその手を差し出した。



「俺はシエテ。カトルだけじゃなくて、最近はシスまでこの騎空団にお世話になってるみたいだからさ、十天衆の頭目として、挨拶に来たんだ」

「ただの挨拶にしては雑談が長すぎますけど」

「え、ひどくない? 俺だって君達と久しぶりに話したかったんだけど。ねえシス?」

「……」

「えっ……ひどくない?」



 私の目の前に差し出された手の平を、まじまじと見る。厚い手だ。武器を扱うせいか硬くなったマメがあって、全体的に骨ばっている。兄のものと比べるまでもない。なのに、私は躊躇ってしまった。
 あの日私の胸に落ちたのはこの腕ではない。分かっているのに、目線をあげれば、兄と瓜二つの顔がそこにある。



「よろしくね?」



 その双眸の奥が、私を見定めるような目をしていたことが恐ろしかったのではない。
 だって、見透かされて困るものなんて私にはなかった。だから、分からないのだ、この時自分が何に怯えていたのか。
 壁にかけられた時計の秒針を視界の端で捉えた。私は病院のベッドの上で、あれが動く音だけを聴いていた。天井の星型の染みの輪郭は、今でもありありと目に浮かぶ。動かない足、潰れた喉、力の入らない腕。いっそ何もかも忘れられたらよかったと思った。この世界が半壊した私の見ている夢ならば、いつか私は目を覚ます。
 この世界での日々に溶けて、目を背け続けていたのは私だ。
 幸せな日々だったか? 初めて、脳内の誰かがそう尋ねた。その声は目の前の、この人のもののように思えた。私はこの声と、良く似たものを聴いていた。潰れた車体の端っこで聞いていた。ああ、そうか、あの声か。
 シエテさんの手の平を両手で包み込んだのは、震えを悟られないためだ。彼の手を挟んだ両手に力を入れる。



「よろしくおねがいします」



 兄に良く似たその顔で、私が呪ったあの男の声で、彼は微笑みながら「よろしくねー」と私の手を握り返す。その奥でカトルくんが私を見つめているのを、知らないふりをした。ただ足が痛かった。気のせいだったら良かった。気が付かないままでいたかった。
 そう言えば、私は彼に自分の名前を名乗るのを忘れていた。
 それに気が付いたのは、その日の夜だった。








 第一武器庫に、人は滅多に来ない。すぐに使う予定の無い武器を収納しているせいだ。私自身、この倉庫の整理をしたのは随分前のことのように思う。
 長く換気されていないどこか重たい空気を吸い込みながら、灯りをつけた。隅に置いてあった丁度いいサイズの木箱の前に座って、便箋を広げる。
 シャオさんとは結局会えないままだった。今日は騎空艇を停泊させているから、街の方へ薬を売りに行ってしまったらしい。出発予定日である明朝まで戻って来ないだろうと私に教えてくれたグランくんは、少しだけ眉を寄せた。



「顔色が悪いけど、やっぱりまだ調子悪いの?」



 笑って首を振った私に、グランくんは困ったような目をして、無理をしないこと、何かあったらすぐに自分に言うこと、と私に言い聞かせるように言った。



「ノートに書いてもらっても良いんだし」



 私とグランくんの交換ノートは、もうすぐで一冊目が終わろうとしている。
 大きく頷いた私が飲み下せずにいる塊を、グランくんは見抜いていたのだろうか。広げた便箋に、彼の名前を記しながらそう考える。
 きちんとした手紙を書くのは、あの日、騎空艇を降りたとき以来だ。あの時はとにかく急いでいたし、まだこの世界の字を覚えていなかったから碌なことが書けなかったけれど、今は違う。勿論、今だって私に時間が残されているかどうかは分からないけれど。
 心臓はいつまでも煩かった。痛みだけが鮮やかなほどに私に刻まれていた。最早感覚のなかったあれと、この痛みが同等のものかどうかなんて私には判別することが出来ない。だけど、現実から目を背けて、愛や幸福だけを享受し続けていた私は、そろそろ目を覚まさなければいけないのかもしれない。そういうことなのかも。手が震えたせいで書き損じた便箋を、ぐちゃぐちゃに丸める。
 シエテさんは、びっくりするくらい兄に似ていた。
 たれ目がちで、表情が柔らかい。十天衆を束ねる頭目と言うくらいだから、彼は兄よりもずっとしっかりしているだろうし、風貌やふるまいほど軽薄ではないのだろう。だけど面影があった。それだけで痺れるような感覚を覚えたのだ。
 もしも、この時私の足が平生と変わりなければ。
 私はもっと明るく彼に挨拶できたはずだ。いや、いっそ、目元がお兄ちゃんに似ています、くらいは口にしたかもしれない。その声があの、事故を起こした男に似ていることにすら気が付かず。そっちの方が良かった。幸せな日々にどっぷり浸かって、都合の悪いことから目を逸らして、苦悩から離れたところで生きて。いつまでも気付かないふりをしていたかった。
 上手く言葉が出て来なくて、私は新しい便箋に、カトルくん、と書いた。
 胸が痛くて、握っていたペンが震える。ぐちゃぐちゃになった丸い字の上に落ちた染みの正体が、私の目から落ちたものだと気が付くのに時間はかからなかった。
 何も、すぐにこの世界から弾きだされるとは思っていない。だけど、予感がするのだ。まるで言い聞かせるように脳内に滲み出る「幸せな日々でした」は、私に覚悟を促す。
 この足の痛みはもう一度、私の下半身を麻痺へと導くのだろうか。そして私はいつかあの病室で目を覚ますのか。星型の染みの下、眠り続けた私を待つ人は、叔母を残してもうどこにもいないのに。
 誰もいないことに気を抜いて、私は声を殺して泣いた。足が痛くて、だけどそれ以上に、胸の中が、幾百本の針で突き刺されたようだった。何か、涙を拭くものを持ってくるべきだったな、なんて冷静に考えるその傍ら、幸せだったなと、まるで終わりのようにそう思うのだから一層泣けてくる。
 カトルくん、と、思う。カトルくんが好きだった。私のことを疎んでいた彼が、騎空艇を降りた私を迎えに来てくれたとき、私は、自分が彼になれることはないと知った。自分の手で守りたいものを守る彼に憧れた。覚悟を決めたその目が好きだった。意地悪なところも、好きだ。ずるいところも。余裕がないときの眉尻や、すましたような横顔、なにもかも好きだ。好きだったのだ。
 なんで過去形で語らなければならないんだろう。
 張り裂けそうな痛みにとうとう嗚咽を漏らした瞬間、倉庫の扉が外側から開けられた。
 顔をあげる。そこに居た人の顔を見て、私はどうしたら良いか分からなくなる。



「捜しましたよ」



 私を見下ろすカトルくんは、どこか困ったような顔をしていた。








 頭目を前にしたときのさんの様子がおかしかったことには気づいていた。
 挨拶をしてからすぐに立ち去ってしまった彼女は、左足を引き摺っているように思えた。怪我をしているようには見えなかったが、シャオさんを捜しているという言葉からも推測できるように、体調が優れなかったのかもしれない。
 夕飯時、食堂で働いていた彼女は不自然なほどに朗らかだった。団員たちと明るく会話をして、時折笑い声をあげながら食器を渡す。それはぼくに対しても変わらず、彼女は「シエテさんはもう帰られたんですか?」と何て事のないように尋ねた。だから、馬鹿だな、と思うのだ。隠し事をする彼女に、ぼくは苛立ちこそ覚えないけれど、呆れてしまう。それで隠せていると思っているのだろうか。柔和な笑みのその奥に滲む怯えを隠しきれるほど、彼女は器用ではない。
 だから、食堂の手伝いを終えた彼女が、コルワさんのいる自室に戻らないことも端から想定済みだった。



「一回戻っては来たのよ。でも、便箋かな、何か書くものを持って出て行ったみたい」

「便箋?」

「そう、以前お世話になったお店にでも手紙を書くのかしら」

「……へえ」



 コルワさんにお礼を言って彼女の部屋を出る。何か書き物をするつもりでいるらしいことを考えれば、彼女がいそうな場所は自ずと絞られた。あの子は、思い立ったときの行動力は尋常ではないが、それ以外では自分の行動範囲から外れるようなことを避ける。しらみつぶしに彼女の行きそうな、尚且つ他に人がいそうにないところを探せば、すぐに見つけられるはずだった。
 かくしてぼくは彼女を発見する。滅多に人の出入りがない第一武器庫で。



「捜しましたよ」



 ぼくの予想通りと言ってはなんだけれど、彼女はボロボロに泣いていた。
 理由は分からないけれど、恋人がこんな風に泣いているときに頼ってもらえないというのは辛い。目を見開いたままのさんが書きかけていた便箋に目をやれば、そこにはぼくの名前があった。何を書くつもりだったのか。彼女の隣に膝をついて、どうしたものかと考える。



「……何かあるなら、手紙よりも、口頭で伝えていただいた方が嬉しいんですけど」



 コルワさんの言っていた、彼女が半年ほど世話になった店への手紙と言う線は呆気なく消えた。だって宛名がぼくなのだから。
 ぼくに伝えたいことがある、というのも、彼女の表情から見るに良い話ではなさそうだ。不意に脳裏を過ぎるのは、さんが姿を消したときのことだった。
 彼女はぼくが団長さんに宣戦布告をした日の夜、誰にも行先を告げず姿を消した。連想された最悪の事態に、ぼくは動揺を悟られぬように、目線だけを彼女に向ける。
 さんはぼくに何も答えない。



「……昼から様子がおかしいなとは思っていましたが、何かありましたか? 話してください」

「……」



 彼女の目の縁に浮かんだ涙の粒が、重力に従ってその頬を伝った瞬間、半ば無意識に指でそれを拭う。反射的に目を閉じたさんに、ぼくは初めて苛立ちのようなものを覚えた。ぼくはエスパーではないのだ。黙っていられては分からない。
 深くため息を吐いて、冷静になるよう自身に言い聞かせる。それでも吐き出してしまった「またどこかへ行くつもりですか」と言う言葉に彼女が息を飲んだとき、舌打ちを抑えることができなかった。
 この人は、勝手なことをする。前から思っていた。ろくに話もせずに、死に際の猫のように姿を消す。そもそも団長さんやぼくという深い関わりを持った相手がいる以上、彼女一人の問題、なんてものはあるはずがないのに、相談ということをしない。
 あまりこちらが感情を出して、さんを委縮させてしまうことは避けたい。そう思ったけれど、どうしても言葉は口をついて出てしまう。



「……そうやって、勝手なことしないでもらえますか。何があったかは知りませんが、そういうことも含めて、きちんと話し合うべきでしょう?」

「だって」



 その時初めてさんは口を開いた。
 握りしめていたペンを、彼女は落とす。床に転がったそれは、机代わりにしていた木箱の淵に触れて止まった。



「……だって、どうしようもないじゃないですか」



 ほとんど悲鳴混じりの声だった。時折彼女は嗚咽を漏らし、言葉に詰まる。考えなしに喋っているのだろう。ぼくは彼女が吐き出したその言葉を脳内で並べ替える。



「足が痛いんです、理由もわかんない。怖くて、もう、戻らなくちゃいけないのかもしれなくて、それがいつかも分からなくて、でも幸せだった、って思っちゃうんです」



 早口で、聞き取れない箇所がいくつかあった。それでも彼女が、ぼくが思っていた以上に追いつめられていること、それだけを、ぼくは理解した。



「最近私、変なんです。昔の夢ばっかり見ちゃう。家族が死んじゃったときの夢。夢の中で私の足、段々動かなくなるの。だから、だから私、本当にもう帰らなくちゃいけないのかもしれない。でもそれがいつになるのかわからないから、だからこうしていつかのときのために、手紙、書いとかなくちゃって」



 それが完全に泣き声に変わるのを聴いていられるほど、ぼくは余裕のある人間ではなかったのだ。
 さんの手首を掴んで、こちら側に引き寄せる。震えた身体は彼女のものにしては酷く熱かった。抱き寄せて、宥める様に背中を軽く叩く。子供をあやすのと同じだ。は、は、と短い呼吸を繰り返していたさんは、そうされているうちに、身体から力を抜いた。それでも、泣くのだけはやめなかった。



「お、お兄ちゃんと似てて」



 誰が、とは彼女は言わなかったけれど、今日の彼女の様子を見るにそれは頭目のことだろうと当たりをつけながら頷く。
 一度だけ、彼女の家族の写真を見せてもらったことがあった。硬い表情をした彼女の兄、確かに彼の目の形は頭目に瓜二つだった。もしももっと力を抜いて笑っていたら、頭目に似ていないこともないのかもしれない。
一枚の写真から察するには無理があっただろうけれど、彼女はそれこそ自分の兄と産まれたときから一緒に居た。さんが二人を似ていると感じたのなら、それが全てだ。
 さんは、しゃくりあげながら続ける。



「な、なのに、声だけがちがってて、むしろ、お兄ちゃんよりもずっと、みんなを殺したおとこの、声に、似てて」



 分かってるんです、違うって。シエテさんにも失礼だって。そう続けるその身体に再び力が入る。背中を摩ると、その部分だけがふっと和らいだ。だけどそれも一瞬だ。「そういうのが、全部わあって、いっぺんに襲いかかってきちゃった。シエテさんにも本当はきちんとご挨拶したかったのにできなかった、申し訳ないのと、どうしようっていうので、頭がおかしくなる」彼女は追い詰められていた。
 大丈夫、大丈夫と伝えたいのに、ぼくには結局彼女の痛みが本質的には分からないから、話を聞くこと以外の何が正解なのかが分からない。



「こ、こわいんです、足が痛いのが、私、足、本当はもう事故のせいで動かなかったから、これは元の世界に帰る予兆なのかもしれないとか、そういうことを、考えてしまうんです。お、お兄ちゃんや、あの人を思い出してしまったとき、なんだかそれが決定づけられたような、きが、して、だから、じゃあせめて、手紙は書かなくちゃって、私がいきなりいなくなっても、気持ちだけは残せるようにって、ちゃんとお別れできるようにって、か、カトルくんとも」



 息が止まった。
 震える両手が、縋るようにぼくの背中に回される。まるで弱々しいその力は、抱きしめるというには随分と頼りなかった。ぼくの胸のあたりに顔を押し付ける彼女は、まるで小さな子供のようだ。その背を撫で続ける手を、ぼくは止めない。
 改めて考えてみれば、ぼくは彼女の置かれた状況というものをあまり理解していない。異世界からこちらの世界にやってくる人間が時折いることは耳にする。だけど、そう言った彼らがどうなったかまでは知らなかった。一定の期間を経て、本人の意思とは関係なく元の世界に戻るのか、それともこの世界で骨を埋めることになるのか。
 不安だったのだろう、彼女は。冷静に考えてみれば当たり前だ。根底に横たわったその不安を、彼女自身これまで敢えて見ないようにしてきたのかもしれない。それが今日、様々な要因が絡み合って表側に漏れ出た。
 彼女の境遇を思えば動揺するのは不思議なことではなかった。万が一、元の世界に戻ることがあれば、彼女はほとんど全てを失ってしまう。ぼくたちも、健康な身体も。
 そもそも、さんのこの肉体は新たに生成されたものなのだろうか。或いは元の肉体が修復されたものなのか。想像し得る範囲ではその二択であることが想定されるけれど、明確に結論付けることのできる要素がない以上、真相は闇の中だ。ただ、どちらにせよこの世界に居る以上、さんは歩けるし、話すことが出来る。一人の女の子として、不幸な人生を送らずに済むということだ。帰りたくないと思うのは、当然だ。ぼくだって、帰したいだなんて思わない。



「ゆ、夢だと思っていたときがあって」



 ぼくが考え込んでいるときに不意に呟かれたその言葉を、だから、ぼくは一瞬理解が出来なかった。



「全部私の夢だって、そうじゃなきゃ、こんな都合良いこと、起こらないって、だから、いつか終わるんだって、思ってて」

「それってぼくや団長さんもあなたの夢ってことですか?」

「……」



 沈黙は肯定だ。
 その瞬間、自分でも驚くくらいに彼女に苛ついた。凪いでいた感情があっという間に燃え盛って、どうにかして、ぼくの腕の中で小さくなる恋人に、決定的な穴を開けたいと思ってしまった。それは傷つけたいとか、そういう欲ではなくて、ただ単純に知らしめたかったのだ。



「ふざけるなよ」



 撫でていただけの手に力を込める。さんがぼくにしていた力の数倍のそれで抱きしめたら、腕の中で彼女の骨が軋む感覚があった。
 この熱は本物だ。なにが夢だ、吐き捨てたいのを堪えたことだけは、褒めてほしい。
 ぼくは、彼女と出会って恐ろしいほどに変わった。そう頭目に言われた。



「なぁんかカトル、柔らかい顔になったんじゃない?」



 昼間は腹が立って返事をしなかったし、彼女に会わせたらまた何か言われると思ったからさっさと帰るように口にしていたのに、頭目はてんで席を立たなかった。要するに、さんを一目見るまで彼は帰る気がなかったのだ。
 それは偶然ではあったけれど、果たして彼女はやってきた。彼女と握手を交わした頭目は、「良い子じゃないの」とぼくに向かって目を細めた。それすらも腹立たしくて舌打ちだけを返したのは記憶に新しい。そんなぼくに、頭目は軽い笑い声をあげた。



「守るものが増えるっていうのは、良いことだよ。それだけ引き止めてくれる人がいるってことだからさ」



 聞き流したはずの頭目の言葉が、今になって蘇る。
 ぼくを引き止めるものが彼女だというのなら、彼女を引き止めるのもぼくだ。ぼくにはその権利がある。
 お別れができるように、と、彼女が言った言葉を、ぼくは今否定する。



「誰が手放すか」



 例え、彼女がぼくを置いて元の世界に戻ることがあったとしても。
 腕の中のさんが、びくりと震える。
 ぼくは変わってしまった。あなたに出会って、あなたを知って、ぼくを愛してくれたその姿に情を持った。弱点が増えたのだと、ぼくはどこかで思っていた。大切なものが増えるというのはそういうことだから。
 だけど、それすらも、ぼくは嬉しい。少なくとも、今この瞬間は。



「ぼくを腑抜けにしたのはあなただ」



 化物だったぼくの手を取ってくれた。



「元の世界になんて、死んでも帰したりしない」



 ぼくはあなたが好きだ。
 さんは、ぼくの腕の中で初めて顔をあげた。その充血した瞳には相変わらず涙が滲んでいて、見るに堪えない。鼻を啜りながら、一瞬だけ彼女は下を向く。鼻を啜ったさんが、小さな声で何かを呟いた。それが聞き取れなかった。ただ、背中に回された手に、今度はしっかりと力が込められた。
 もっとぼくを頼ってくださいと、そう掠れた声で呟けば、彼女はうん、うん、と何度も小さく頷く。その頭蓋に、こっそりと口づけを落とした。
 手放してやるものかと、ぼくは、本当はずっと前から思っていたのだけど、それを口にすることはしない。








「は? 筋肉痛?」



 翌日、食堂で出会った彼女は、酷く気まずそうな顔をしてぼくにそう言った。


「じ、実は、その、一昨日ナルメアさんと、その……山を登りまして」

「……」

「そ、それの、筋肉痛が昨日、出ていたみたいです、今はすっかり楽になりました……。あ、でも、さっきシャオさんとお話しして、ちょっとだけ神経? とかホルモン? のバランス? が崩れているみたいだから、って、お薬も出してもらったんですけど」

「……」

「ご、ごめんなさい」



 ぼくの目線に耐えられないとばかりに、さんは小さくなる。喋りながらもさりげなくぼくのお皿に多めにおかずを盛ってくれたけれど、これで誤魔化せると思っているのだろうか。
 後ろに誰も並んでいないことを確認して、ぼくは大仰にため息を吐く。びくりと縮こまったさんは申し訳なさそうにぼくを見上げているが、安堵を見抜かれるのは癪だ。



「ほんとにすみません、酷い勘違いを……」



 いくらなんでも情緒不安定すぎましたね……。ぼそぼそと続けるその目が、だけどまだどこか不安げに揺らいでいることは、流石に見抜けた。その頭を撫でてやりたいのを堪えて、ぼくは準備していた言葉を彼女に向けて呟く。



「……だったらいっそ、一緒に調べてみましょうか」

「え?」

「あなたと似たような境遇の人を捜したり、話を聞いたり。解決はできずとも、あなたの不安を拭うためにできることはあるでしょうし」



 ぼくの言葉に、さんはぱっと目を見開いた。その表情の変化にぼくは安堵する。
 根本的な問題は何も解決していないことは、彼女自身分かっているのだろう。だからこそ、何でもできる、と思うのだ。彼女のためなら。
 さんは目を細めた。その瞳がぼくにだけ向けられていることが、ぼくはこんなにも嬉しい。



「……うん、調べたい。一緒に。ありがとう! カトルくん!」



 お礼を言うのはぼくの方だ。
 私たちとは違う誰かに愛されるっていうのは、素敵なことなんじゃないかな。いつかぼくに向けられた姉の言葉が脳裏を過ぎる。
 あのときは上手く飲み込めなかったそれが、今になってぼくの背を支えるのだ。
 給仕をする彼女と別れれば、食堂の壁にかけてあるホワイトボードが目に入った。
 彼女の名前の部分だけ、ぼくにはなぜか輝いて見える。
 黒と白と、赤だけが存在する世界で生きていると思っていた。守る者が増えても、それは変わらなかったのに、彼女が隣にいるそのときに、そこに光があることを知ったのだ。
 黙々と食事を平らげていると、やがてぼくの座った席の向かいに、団長さんが腰を下ろす。「おつかれさま」おはようではなくおつかれと口にする彼の思わせぶりに微笑んだその顔が、全てを見透かしているように思えて、ぼくは相変わらずだなと笑ってしまう。








 かつて化物と呼ばれたぼくは、今はいない。
 だけど、許してほしい。やがてぼくは、あなたに一度剥がされたこの皮を再び被ることになるけれど。
 あなたを苦しめたかったわけではなかったのだ。