カトルくんの熱が下がったその翌日、私はベッドから動けずにいた。
起き上がろうとすると頭痛がして、毛布に隙間なく包まっていても寒気がやまない。コルワさんにお願いして、今日は食堂に手伝いに行けない旨をローアインさんたちに伝えてほしいと頼んだ後、ほとんど入れ違いでやって来たのがナルメアさんだった。どうやらコルワさんから話を聞いてやってきたらしい。
毛布からなんとか顔を出せば、心の底から私を心配している様子のナルメアさんの姿が目に入る。私の表情から要求を瞬時に察したらしいナルメアさんは、目にも止まらぬ速さでコルワさんのベッドから毛布を取った。
「寒いのね? コルワちゃんの毛布もかけた方が良いよ」
「あ、ありがとうございます……」
息を吸うだけでひりひりと痛む喉に涙が出そうになりながら、何とかそう伝えた。
掠れた低い声は、まるで私のものとは思えない。ふわりと毛布をかけてもらって、それでようやく寒さが緩和されたような気になる。普段の二倍の重みの毛布はちょっと苦しかったけど、圧迫されるのは安心感があって好きだ。
目を閉じかけたそのとき、額に柔らかな感触を感じて心臓が縮こまった。ナルメアさんの手の平は小さくて、私のものよりも多分ずっと柔らかい。びっくりしたけど、すべすべしたその冷たい手に、縮んだはずの心臓が撫でられていくような感覚になる。
きもちいい、と口にしたつもりはなかった。なのに漏れ出てしまっていたらしい。ナルメアさんは、小さく息を飲んだあと、感極まったような声音で「本当に?」と私に確かめた。ぼんやりする頭でゆるゆると頷けば、ナルメアさんの手の平に力が込められたのが分かる。
「お姉さんなんかの手が役に立つなら、いくらでも触ってるよ」
それはさすがに申し訳ないけれど。
喉の痛みに喋るのが億劫で、小さく首を振った。ナルメアさんの手には益々力が入って、私の意図は全く伝わっていないらしいことを知るけれど、身体に力が入らない。寒いし、喉も頭も関節も痛いし、それに何だか、途轍もなく寂しい。だから、人肌ってすごい。ナルメアさんが触っていてくれている額から、ちょっとずつ寂しさが緩和されていく気がするのだ。
申し訳ない、と思ったけれど、傍にいてもらえるのはありがたいし、安心する。
昨日は意味のないもやもやと言えば聞こえの良い、醜い嫉妬心を抱いてしまってごめんなさい、心の中だけで謝る私の胸中を知らず、ナルメアさんは首を傾げる。
「やっぱり、カトルちゃんの風邪がうつっちゃったのかな? ご飯は食べられそう? あ、お薬も出してもらわなくちゃね。でも、とりあえずは寝てた方がいいと思うから……そうだ、お姉さん、添い寝してあげるね!」
「……え?」
「大丈夫! お姉さんは風邪ひかないから! ちゃんが眠るまで隣にいてあげる!」
首肯を待たずにナルメアさんは私の布団を捲ると、「おじゃまするね」なんて微笑みながらベッドに潜り込んでくるからびっくりする。
ドラフの女性は、身体は小さいけれど肉感的だ。彼女の身体が私に触れた瞬間、わけもわからずドキドキしてしまった。柔らかな胸が私の貧相な身体に当たってくすぐったい。その体温が低い気がするのは、比較対象がカトルくんであるせいなのか、私が熱を持っているせいなのか。
緊張で強張っていた身体を、ナルメアさんはぽんぽんと軽く叩いてくれる。衣擦れの感覚がほんの少しだけ煩わしかったけれど、私はその柔らかな優しさに、鼻の奥が痛むのを感じていた。風邪で弱っているせいか、精神まで大分やられているらしい。小さい時のことを思い出していた。彼女は何だか、お母さんみたいだった。
太陽が昇っているのにベッドの中にいなければいけないことは、私にとっては苦痛以外の何物でもなかった。思い出してしまう。自分が本当はどんな状況だったかを。本当は目を開けていられないくらいにしんどいはずなのに、叶うならば起き上がって、食堂で忙しなく動いていたいのだ。熱でぼんやりするせいか、色んな境目が曖昧になっていく。この足が動くことを証明したい。あの日の自分がどこにもいないってことを、私はちゃんと確かめたい。
一人だったら耐えられなかったかもしれなかった。天井の染みを探して、過去に囚われていたかもわからなかった。だから、こうしてナルメアさんが私のことを、子供にするように撫でてくれることが、今は嬉しくてたまらない。
張りつめるような感覚は段々と解けてきて、私はすっかりナルメアさんに身を委ねてしまっていた。夢現とはこのことか。空の上を自分自身がふわふわと漂っているような感覚に目を閉じる。一晩中眠っていたはずなのに、本当にこのまま眠ってしまいそうだった。だけど。
ノックの音と共に、扉が開かれるのが遠くの方で分かった。頼りない浮遊感はその音で一瞬のうちに消失してしまう。
「………………何してるんですか」
その声で私は部屋に入ってきたのがカトルくんだということに気が付いた。隣で寄り添ってくれていたナルメアさんが反応して動いた瞬間、触れ合っていただけの胸がぎゅうと顔に押し付けられて息が止まる。
「あ、カトルちゃん。今ね、お姉さん、ちゃんに添い寝してあげてたの。お熱出ちゃったんだって」
「知ってますよ。コルワさんに聞いてここに来たので」
身体を捩じって彼の方を見て話すナルメアさんは、しかし私の身体を摩るのをやめない。カトルくんの表情を探るように見上げたけれど、勘違いでなければ、彼は何だか少し怒っているように見えた。
「カトルちゃんは具合大丈夫? まだ寝てた方がいいんじゃない?」
「ぼくはもう完治したので、お気遣いなく。……ところで、食堂の方が人手が足りていないそうです。あなたに手伝ってほしいと言ってましたが」
「え?」
その言葉はナルメアさんに向けられたもので、彼女はそれを聞いてようやく私の身体を撫でる手を止めた。ナルメアさんは、昨日も倒れたトモイさんの代わりに食堂を手伝っていたから、即戦力として頼りにされているのだろう。私まで倒れてしまったせいでさらに人手が足りなくなってしまったことを申し訳なく思っていると、ナルメアさんは私の額を労わるように撫でた。
「ちゃん、ごめんね、お姉さん行ってくるね。カトルちゃんがいるから、大丈夫だとは思うけど……」
「ん……ごめんなさい、おねがいします」
「ううん、食堂の方はお姉さんに任せてね。ちゃんと安静にして、眠ってるんだよ」
こくりと頷けば、ようやく安心したようにナルメアさんは私のベッドから出て行った。「じゃあカトルちゃん、後はよろしくね」と声をかけられたカトルくんは返事の一つもしない。扉が閉じられた音を聞き届ければ、すぐに大きなため息が聞こえたから、私はそろりと彼を見る。
「……大丈夫ですか?」
彼の表情は、本当に私を心配しているようだった。
伸ばされた指が私の頬を撫で、それから額に触れる。くすぐったくてびくりと震えてしまったけれど、カトルくんは「さんにしては熱いですね」と呟くだけだった。
「……やっぱりうつしてしまいましたか。すみません」
「多分、ちがうよ。エルーンの人たちばかり、具合悪いでしょ。私、エルーンじゃないもん。……それに、そんなに悪くも、ないんですよ」
「どこが? 大分具合悪そうですよ。眠った方が良い」
「んん……」
カトルくんの手の平が気持ち良くて、私は目を閉じてすり寄った。この前のカトルくんの気持ちが分かる。毛布から手を出して、逃がさないように彼の手を頬のあたりで固定すると、カトルくんはふ、と小さく笑った。
「ぼくと同じことしてるじゃないですか」
その笑顔にちょっとだけ安心して、私も小さく笑う。「ちゃんと触ってますから、掴んでなくていいですよ」と言われて、ようやく手を放した。カトルくんは宣言通りに、きちんと私の肌のどこかしらに、その手を置いていてくれた。
ナルメアさんの手の平も気持ちよかったけれど、やっぱりカトルくんの手は落ち着く。骨ばっていて、私より少しだけ大きい。きれいに切りそろえられた爪も、薄く浮き出た血管も、何度も触れて、何度も眺めているはずなのに、ドキドキしてしまうのだ。熱があって朦朧としている今ですら。
彼の温度が、皮膚の柔らかさが、今は途轍もなく愛しい。
ナルメアさんがさんの部屋にいるとは予想していなかった。
世話好きの彼女だ、ぼくのところだけでなく、ここ連日体調を崩した団員の看病を買って出ていたらしいが、いざさんのベッドに潜り込んで添い寝してやっている彼女を見た瞬間、本当に、何と言うか恐ろしいほどに――さんの言葉を借りるなら、「もやもや」したのだ。
彼女がナルメアさんにそんな感情を抱いたと告白したとき、何を言うのだと思ってしまったが、逆の立場になってみれば分からないでもない。ぼくの場合は彼女に嫉妬したというよりは、この状況に首を傾げたからこその「もやもや」であったのかもしれないけれど。
いくら女性同士であっても、同じベッドに入るのはどうかと思う。
細い首に目をやれば、ぼくがホワイトデーに贈ったネックレスがきらきらと輝いている。具合が悪いとき、肌に触れる異物があるというのは煩わしくはないのだろうか。ぼくの目線に気が付いたのか、さんは薄く微笑んで、「これはお守りなんです」と呟いた。それが溜まらなく愛しい。
「……ぼくも添い寝しましょうか?」
額を撫でてやりながら、何の気もない風を装ってそう声をかければ、さんはぱっと目を見開いた。元々赤みがかっていた頬が、さらに染まる。困ったように下げられた眉も、半開きになって唇も、こんなときなのに愛おしく思う。
「え、遠慮します」
思いきり首を振られてしまったのは、面白くなかったけれど。額に触れていた指先を、瞼に下ろし、頬を撫で、それからそっと耳朶をなぞった。ナルメアさんの押しに負けたのだろうけれど、彼女を許してぼくを拒否するというのは気に食わない。
耳に触れられて、びく、と反応を見せたさんが可愛い。この子は、耳に触られるのを嫌がる。くすぐったいらしいのだ。
わざと抓んだり、穴の入口を爪で引っ掻く。「ん」と、か細い、いつもと違った掠れた声を漏らす彼女にぞくりとしたけど、だからこそ、ぱ、と手をはなした。病人にこれ以上無理をさせるのはぼくも本意ではないし、適度なところで線を引いておかないと、こっちが止められなくなってしまうから。
熱のせいなのか、刺激を与えられたせいなのか、はあはあと荒い息を繰り返すさんに「すみません、やりすぎました」と謝れば、熱のせいか潤んだ瞳でじっと睨まれてしまった。こういう顔を見せるのはぼくだけであってほしいな、と思いながら、彼女の頬を撫でる。
「ん……」
消え入りそうな声で、彼女は恨みがましく吐き出す。
「……カトルくんは、やらしいね」
折角我慢してるのに、煽るのはやめてもらいたいけれど。
潤んだ目で見つめられながらそんなことを言われて、ぐっと来ない男などいるだろうか。ぼくは小さくため息を吐きながら、芽生えた情欲を抑え込む。
さんは耳に触るのを禁じるかのように、ぼくの手を両手で掴んで首筋のあたりで固定した。しっとりと汗のかいたそれと、荒い息に、やっぱり熱があるんだと思い知らされる。
看病は慣れているから今更どうというものでもない。お粥を作ってもらって、食べさせて、薬をもらって、と、彼女がぼくにしてくれたことを思い返しながら整理していると、突然何だか胸が疼くような感覚に襲われた。どうしてか冷静に考えてみて、分かる。
そうだ、ぼくは家族ではない、好きな女の子の看病をするのはこれが初めてなのだ。それが何だか妙にぼくを落ち着かない気持ちにさせているらしい。
先日の彼女のように、お粥の入ったスプーンを差し出せば、彼女は口を開けるだろうか。恥ずかしがって拒否するかな。そうされたところで、ぼくは彼女のように諦めはしないけれど。
不謹慎ながらも想像するだけで笑ってしまいそうになって、誤魔化すように彼女に捕まっていない方の手の平でその額を撫でた。汗ばんで前髪の張り付いたそこは、やっぱりまだ、熱い。
気付かなかった。彼女がちょっと耳を押さえて首を傾げていたこと。何かを確かめるように首を傾げたこと。口の中で呟いた「なんだろ」という、小さな声に。
