20190313
 シャオさんの薬がよほど効いたのか、或いはカトルくんにもともと体力があったためだろう。昨日よりは少しだけ固めに作られたローアインさん特製おじやを持って部屋を訪れた私を、彼はほとんど平生と変わらない顔付きで出迎えたのだから、素直に驚いた。昨夜の様子から察するに、まだ熱があって当然だと思っていたから。



「もうほとんど平熱なんですよ。まあ、まだちょっと怠いんですけど」

「じゃあやっぱりもう少しお休みしてないとダメですね」

「そのつもりです。……折角まとまった休暇も貰えたことですしね」



 ベッドの横に置いた丸椅子に座ると、そのまま彼におじやの乗ったトレイを差し出す。カトルくんは昨日のまま、私のカーディガンを羽織っていたから、本当はまだ少し調子が悪かったのかもしれない。体温調節ができていない、という点で。
 確かめるようにじっとその瞳を見れば、僅かに潤んでいるような気配があった。ほとんど意識せずにその額に手を伸ばすと、やっぱりいつもよりは温かい気がする。



「ほんとに平熱?」

「…………よりは少し高いですけど」

「ほらあ。騙そうとしたってそうはいかないんですよ」

「そうみたいですね」



 ふ、と小さく笑みを零したカトルくんに、何故だかどきりとしてしまう。本調子でないせいか、いつもより弱々しく見えたのだ。
 勝手にドキドキしている私に気が付かず、彼はおじやを口に入れる。昨日は額に手を当てたままでいてほしいと頼まれたせいで動揺してしまったけれど、今日は私が手を離しても文句の一つも言われなかったから拍子抜けした。
 咀嚼する口元を間近で見る機会なんてそうそうない。じっと見つめていたらさすがに視線に気が付いたらしい。煩わしそうに眉を寄せて見つめられたので、笑って誤魔化した。だけど最終的に彼の視線にいたたまれなくなってしまって、立ちあがる。



「そういえば昨日のマント、きれいになったから持ってきます」

「ああ、ありがとうございます」



 ちょっと待っててね、と告げて、彼の部屋を後にする。早足で歩きながら、カトルくんのマントが畳んである私の部屋へ向かう前に、薬を貰いに行こうと思いついた。そうしたら多分、カトルくんが食べ終わる頃に戻れるんじゃないかって考えたのだ。
 薬売りのシャオさんは職業柄か神出鬼没で、自室にいることは珍しい。今グランサイファーは飛行中だから、外出の線を潰すことはできるものの、騎空艇の中に居てすら彼を見つけることは困難だった。
 一応彼の部屋をノックして反応がないことを確かめてから談話室に顔を出し、食堂を覗き、シャオさんを見かけなかったか、とすれ違う団員さんたちに声をかけてまわった。ようやく本人を捕まえられたのは、私がカトルくんの部屋を出てから三十分は経った頃だった。……想定以上に時間がかかったおかげで、正直疲労困憊だった。
 甲板の隅、敢えてそうしているのか、死角になるような位置に座り込んでいたシャオさんは、「シャオさん」と私が声をかけると、俯いていた顔をあげる。開いているのか開いていないのか曖昧なその瞳は、大きなエルーンの耳も相まって猫のようにすら見える。



「おやぁ、さんじゃないですか。どうしました? そんなに息を切らして」

「やっと見つけました……」

「……ああ、ひょっとして昨日の件です? どうですか? カトルさんの様子は」

「大分良いみたいです。お薬効いたみたいで」

「ははぁ、それは良かった。じゃあ今日は一度診させてもらいましょうかね」



 よいしょ、と立ちあがったシャオさんは、自分の背を預けていた薬箱を背負うと「じゃあ行きますか」と口にした。その隣を歩きながら彼の話を聞くと、カトルくんに限らずエルーンの間で風邪が流行りはじめているらしい。そう言えば今朝になってトモイさんが熱を出したと言っていたことを思い出す。私が見ただけでもローアインさんが昨日の分の三倍はお粥を作っていたから、他にも体調を崩している人が居たのだろう。



「なので昨夜は大分忙しくてですね。エルーンに限っていましたし、僕の知る流行病に症状が似ていたので、とりあえず看もしないで皆さんに同じ薬をお出ししてしまったんですけど、本来絶対やっちゃいけないですからね。内緒にしといてくださいよ?」



 笑っているんだかそうでないんだか分からないような瞳を向けられて、頷く。そうは言うけれど、シャオさんも確信があって薬を処方していたのだろう。実際カトルくんの容体は目に見えて安定しているのだから。私はシャオさんのことを信頼していた。この騎空艇に乗る、他の人たち同様に。
 船室の並ぶ下層へ続く階段を降りると、シャオさんに断りを入れて自室に立ち寄る。マントを回収してからシャオさんと二人でカトルくんの自室のある通路の突き当りに向かう道中、カトルくんのものではない誰かの声は、彼の部屋から漏れ聞こえていた。



「本当に、本当に良いの?」



 それはどう聞いても、おっとりした、可愛らしい女性の声だった。



「……ふむ、先客ですかねえ」



 耳をピクリと動かして、それからシャオさんがちらりと私を窺う。
 私がカトルくんの部屋を出てから随分と時間が経っているのは間違いない。けれどカトルくんの部屋に来客? それも女性?
 カトルくんは今まで、私以外の女の子と滅多に話をしなかった。それは彼が十天衆であるということに起因するのか、或いは彼自身が壁を作っているせいなのかは分からない。私はそれについて深く考えてはいなかったけれど、でも、無自覚ながらも安心していたのだろう。だって今、心臓が早鐘を打つのが手に取ってわかるくらい、動揺してるんだもん。



「せ、先客……!? おきゃくさん……!? へ、部屋に……!?」



 これは、断じてシャオさんに言ったわけじゃない。どうしようもない独り言だ。それがシャオさんも分かっているから、彼はそれには何も答えないのだ。
 本当に自分勝手なのは重々承知しているけれど、私はこの時になってやっと、シスさんに嫉妬したと言うカトルくんの気持ちが分かった。確かに、嫌だ。胸の内側がぐうって締め付けられたような感覚になる。開けて中を確認したいような、逃げ出したいような、そもそも今の声って誰の声だろうとか、頭の中でそういうのが全部合わさってぐちゃぐちゃになってしまう。
 ――どうしよう。
 部屋の前、言葉もないままにマントをぎゅうと抱きしめて立ち尽くす私を余所に、あっさりと扉を開けたのはシャオさんだった。



「どうも、失礼します」



 だけど、彼がそう言って中の二人の注意を引いてくれなかったら、私はいつまでもそこから動けずにいただろう。シャオさんの勢いにつられるようにしてそっと中を窺う。怖かったけれど、そうしないわけにもいかなかったから。
 カトルくんのものよりも少し赤みがかった色をした長い髪、その頭からは大きな角が二つ、空に向くように生えている。分けられた前髪の隙間から、たれめがちの優しい瞳が覗いた。エルーンと違って肉感的、私よりも背丈の低いその女性は、ぱっと目を見開いて「ちゃん!」と私の名を呼んだ。
 ――ナルメアさんだ。



「ナルメアさん」



 ナルメアさんは、座っていた丸椅子から立ち上がると私とシャオさんの元に駆け寄る。その顔に浮かんでいるのは、純粋な「お姉さん」としての使命感だ。



「聞いてちゃん! カトルちゃんたらね、自分で食器を下げるって言って聞かないの」

「食器?」

「もうだいぶ良くなったので、自分で下げられます。そもそもあなたに頼む筋合いもないですし」



 抑揚のない声音で告げるカトルくんに視線を移すと、彼は明らかに不愉快そうな目をしていた。私だったらこんな目で見られただけで二日は落ち込みそうなのに、ナルメアさんはへこたれない。



「どうして? お姉さん、カトルちゃんの役に立ちたいんだよ? 汗も拭いてあげるし、着替えだって手伝うよ?」

「だから、余計なお世話だって言ってるでしょう。迷惑です。さんからも何とか言ってやってください」

「あっ……あせっ? 着替え……!? 拭いてもらったの!? カトルくん!!」

「ないです」

「だって病気なんだもの。全部お姉さんに任せて、寝てなくちゃだめじゃない?」

「はい。ちょっと失礼しますね、お口開けられますか?」



 こんな混沌とした状況でもきちんと診察をするシャオさんに尊敬の念を抱きながら、私は改めてカトルくんに視線を向けた。シャオさんに向かって素直に口を開けながらも、どうやら相当イライラしているらしい。耳がピンと立って、眉根が寄っている。
 私が持ってきた丸椅子に置かれたトレイにはきちんと平らげられた深皿があって、私は問診の邪魔になるのではないかと思ってそれを取った。シャオさんにお礼を言われて、慌てて会釈する。その間もナルメアさんは心配そうにカトルくんを見つめているのだ。まるで、本当のお姉さんみたいに。
 ――しかし、ナルメアさんとカトルくんは一体いつの間にこんな仲になったのだろう。確かにナルメアさんは元来お世話好きな人だけど、世話を焼く相手はきちんと選んでいた気がする。その中にカトルくんは入っていなかったはずなのに、と思っていると、ナルメアさんは私の手から自然な所作でトレイを取った。



「食器、お姉さんが持っていくね! あとは何かあるかな?」

「えっ」

「ああ、そういえばトモイさんが体調を崩してしまったので、食堂に行くならついでに他の二人の体調を聞いてきてもらえますか? うつってしまっていたら大変です」

「えっ? そうなの? 風邪が流行ってるんだね……わかった、お姉さんに任せて!」



 世話好きの魂に火がついてしまったのだろうか。ナルメアさんは深く頷くと、「カトルちゃんもちゃんと寝てるのよ」と念を押してから部屋を出て行った。触診を受けながらほっとしたような表情を見せたカトルくんの横顔に、私は自分が安堵していることに気が付く。



「うん、もう随分良さそうですね。引き続き同じ薬で良いでしょう。寝ていれば一日二日で治ります」

「ほんとに? 良かったぁ……」



 薬箱の蓋を開けて、シャオさんは中から数袋の粉薬をカトルくんに差し出す。「だけど、もう少し安静にしていてくださいね」淡々と続けたシャオさんは、「じゃあ僕も食堂に行きますかね」と薬箱を背負って部屋を出て行った。その姿を見送ってから、しんと静まり返った部屋の中で、私はそっとカトルくんに視線を送る。カトルくんは、私の腕の中にあったものを一瞥してから、そっと目を細めた。



「マント、ありがとうございます。助かりました」



 彼の言葉で、ずっとマントを抱きしめていたことを思い出す。慌てて形を整えてから部屋の壁にかけると、私はどうしたら良いか分からなくなってしまった。
 今日はカトルくんを看病するつもりでいたけれど、何だか気持ちが落ち着かない。座ることも歩くことも、カトルくんに振り向くことすらもできなくて、壁にかけたマントと向き合ったままでいたら、カトルくんが不審そうに私の名前を呼んだ。



「どうかしましたか?」

「……」



 何でもない風を装って、いつも通りに笑うことができたら良かった。私は微動だにすらできないまま、何と答えるべきかを思案する。どうもしないと嘯いたって、彼にはもうそれが強がりだと分かるだろう。黙っていられるほど、飲み込めるほど大人だったら、そもそも私はこんな風に態度に表すことなくいられたのだから。



「あ、あの」



 目の前の真っ白なマントの裾を、ぎゅうと握る。
 ナルメアさんとは仲良しなんですか。いつからあんな風にお世話を焼かれるようになったんですか。もう調子が良くなって、いろんなことが自分でできるようになったなら、むしろ私は、今日は一緒にいないほうが気が楽ですか。いろんなことを考えたけど、そのどれもが口をついては出てきてくれなくて、私は本当に困ってしまった。
 だけどいつまでも背中を向けているのも、きっと彼を嫌な気持ちにさせてしまう。だから、何とか振り向いた。目が合った瞬間、泣きたくなった。カトルくんの眉根は確かに寄っていたけれど、私を心配しているようであったのが明らかだったから。
 いつもよりも力のない瞳をした彼に、私は飛びついて甘えたくなるのを堪えて、ベッドサイドの丸椅子に座った。ナルメアさんもここに座ったのかな、と思ったら、ちょっとだけ胸が痛かった。



「あの、わたし、ちょっともやもやしてるみたいです……」



 隠し事はしたくない、とか、そういう殊勝な心がけからくる吐露ではなかった。私はただ、我慢できなかったのだ。自分が傷ついていることを、きちんと彼に知ってほしかった。私は、だから、子供だ。彼の立場を想像することもできないまま、自分の痛みだけを主張する。



「……ああ、彼女のことですか?」



 彼女、親密そうなその言い方にすら、私は軽い衝撃を受けてしまう。泣くのは狡いと思ったから、唇を噛んで耐えた。そうしていたら、俯いていた私の耳に、彼は私の髪を一房かける。その感触に目線だけをあげると、カトルくんは私を見つめながら薄く笑っていた。



「誰に対しても、あの人はああでしょう。別に、ぼくたちの間に何かあったわけじゃないですよ。あの人の方で最近何かあったみたいで、その対象がぼくにまで広がっただけです」

「そうなの?」

「はい。……多少煩わしくはありますけどね」

「……な、なんで笑ってるの……」

「いや……」



 く、と笑いを噛み殺しながら、カトルくんはその手首で自分の口元を隠した。凡そ病人とは思えない余裕のある表情に、私はぐ、と言葉に詰まる。そんな私の反応すらも、彼にとってはきっと面白いものでしかなかったのだろう。
 カトルくんは笑っていることを隠す様子もなく、その切れ長の目を細めた。窓からの光がきらきらと彼の髪を反射させて、私は、本当は、彼に見とれてしまっていたのだ。



さんに嫉妬されるのも、悪くないなと思いまして」



 不意打ちだ。
 自分の顔が一気に熱を持ったことを自覚する。あんなに落ち込んでいたはずなのに、彼のその一言で全てが吹き飛んでしまったように思えた。
 カトルくんは私の頭を慈しむように撫で、髪を梳く。その手の平の温度は昨日よりも確かに低くて、もしかしたら、私の方が熱があるんじゃないかなと、目線を合わせることもできないままに思う。




リクシチュ「主人公が嫉妬する」