足場の悪い水際での戦闘なんて慣れていたのに、魔物の攻撃の軌道を読み違えた。ぼくは崩された足場に上手く対応出来ずにそのまま湖に落下してしまったのだ。
「カトル!」
叫んだ団長さんの声は遠く、ぼくは派手な飛沫をあげて水中に落ちる。舌打ちを堪えながら水の中で身体を捩じり、湖の底を蹴った。ぬかるんだ泥混じりのそれに一瞬足を取られたような心地になったが、地上に戻るのには問題ない。濁った視界に煩わしさを覚えながら、水面から露出した岩に手をつく。
最悪だ。濡れるのは好きじゃないのだ。服を着たままなんて、特に。
地上に戻れば団長さんたちの手によって魔物は既に殲滅されていた。急いで戻ってくることはなかったか、と短く息を吐けば、ぼくに気が付いた団長さんが「カトル、大丈夫?」と気遣うように声をかける。
「これが大丈夫に見えますか」
ところどころ汚泥に塗れ、水浸しになった姿を晒すぼくに彼は眉を寄せる。
「……意外と汚れた湖だったんだね……」
同情の目を向けながらもぼくから距離を取る彼に反するように「大変! お姉さん、拭いてあげよっか?」とすっ飛んできたのは、最近良く共に依頼を任されるナルメアさんというドラフ女性だった。「結構です」と首を振る。この人はコルワさんとは違ったベクトルでどうにもお節介だ。団長さん周辺の世話を焼くことを特に好んでいるようだったが、人を選びながらも距離感を考えずに近づくところが、ぼくは未だに慣れない。善意を押し付ける前に必要か否かを問うところは評価するけれど。
最初の頃はむしろぼくが十天衆であることを意識していたのか――或いはそれに関わることで何か他の事情があったのか――彼女はぼくにほとんど近づきもしなかったのに、最近何か吹っ切れるようなことでもあったらしい。彼女はそれまで善意の押しつけの対象外だったぼくに過剰なお節介を焼くようになっていた。それについて本音を言うならば、少々辟易しているから控えてほしいといったところか。
ぐっしょりと水を含んだマントの裾を絞りながら、額に張り付く前髪を払う。
「もう今日の依頼は終わりですよね? 先に戻っていても良いですか。着替えたいので」
「ああ、うん、そうしな。報告は僕達でやってくるから」
「ありがとうございます」
「カトルちゃん。ちゃんとシャワー浴びるのよ? お洋服も泥を落としてから……ううん、やっぱりお姉さんがやってあげようか?」
「いいえ、遠慮します。では」
「風邪をひかないようにね~!」
ぼくの背中に叫ぶその声を聞かなかったことにしながらマントを脱ぐ。その瞬間、ぞわりと悪寒が駆け巡ったような気がしたが恐らく気のせいだ。ぼくは風邪なんか滅多にひかない。姉が体調を崩しても、子どもたちが流行病で臥せっても、ぼくはいつも看病に回る側だった。だからこの寒気は違う。
そう思っていたのに、港に停泊していたグランサイファーに戻ったときには既に歯の根が合わなかった。乗船口で偶然さんと出会ったのは幸運だったのか。彼女はずぶ濡れのぼくに目を見開いた。
「わあ、カトルくんどうしたの?」
「……落ちました。濡れてしまったので、先に戻ったんです」
「びしょびしょだね……私、マントだけでも洗っておこうか」
「ああ、助かります……絞ってきたつもりなんですけど、結構重いので」
「重いものは慣れてるので大丈夫です。それより早くシャワー浴びたほうが良いよ、風邪ひいたら大変だし……」
抱えていたマントを彼女に手渡すと、さんは思ったより重かったのか「うわ」とぐらついた。その様子が面白くて小さく笑うと、彼女がじっとぼくを見つめていることに気が付く。小さく首を傾げれば、さんはふい、と照れたように目を逸らした。濡れた姿がそんなに珍しいのだろうか。泥もこびり付いているし、そんなにきれいなものでもないだろうに。
「じゃ、じゃあ、マント、洗ってきますので」
伝えるというよりは口早に呟いたさんはそのままぼくに背を向けて駆け出してしまった。ぼくはその背中を見送りながら、無視していたはずの寒気が全身を覆っていることを自覚する。
さんに格好悪い姿を見せてしまったけれど、マントを代わりに洗ってくれるのならば助かった。そうでなければ、きっと汚れたまま長らく部屋に放置されてしまう形になっていたことだろう。それくらい、どうも体調がおかしい。
足早に部屋に戻ると、すぐにシャワールームに向かう。水分を含んで肌に張り付いた衣類のせいだと思っていたけれど、脱いだところで体の重さは変わらなかった。これはどうやら倦怠感というものらしい。
結った髪を解きながらシャワーを浴びる。じんわりとほぐれるような温かさに息を吐いたけれど、いつもと同じ温度であるはずのそれが少し温いような気になってしまった時点で、熱があるらしいことを認めた。湯を止めてしまえば、悪寒に震える。舌打ちをする気力もない。何とか身体を拭いて、服を着替えて、髪を乾かすこともできないままベッドに倒れ込んだ。
寝具の柔らかさに目を閉じるが、毛布に包まっても寒い。情けない。瞼が落ちるまで一瞬だったのか、ある程度時間が過ぎたのか、それすらもぼくには分からなかった。
濡れたカトルくんを直視できなくてマントを受け取ってすぐに逃げる様に立ち去ってしまったけれど、もしかしたら彼はあの時既に体調が悪かったのかもしれない。
夕飯時を過ぎても食堂に現れなかった彼を心配していた私に声をかけてくれたのは、ローアインさんたちだ。ローアインさんはお皿を洗おうとした私の手からスポンジを取り上げると、私の顔を覗き込んだ。
「ちょのカレピ、湖に落ちたってグランに聞いたべ?」
「マ? 十天衆も木から落ちる系?」
「や、オメじゃねえんだから。最初っから体調悪かったんでね?」
「それな。ちょ、見てきた方がいーべ。病人でも食べれるシーメー作っとくんで」
カトルくんのことは気にかかっていたけれど自分から彼の様子を見に行きたいとは言いだせなかったから、彼らの言葉は私にとって有り難かった。向き直って目を合わせる。気遣いと心配の滲んだ彼らの瞳は、温かい。
「……じゃあ、ちょっと部屋に行ってきても良いですか?」
「もち、俺はいつでもシーメー出せるように準備だけはしてっから」
ありがとうございます、と頭を下げると、ローアインさんたちは「いーって、その代わり俺たちにロマンスが生まれたときはよろ!」「いや、そうそうねーべ」と言い合いながら明るく送り出してくれた。本当に、彼らにはいつも助けられている。今度何かお礼をしなくては、と思いながらも居住区となっているグランサイファーの下層へと続く階段を下りた。物置の隣、通路の突き当たりにあるのが、カトルくんの部屋だ。
すれ違う他の団員さんたちに会釈をしながら足早に駆け抜け、彼の部屋の扉をノックする。想定の範囲内だったけれど、返事はなかった。やっぱり眠っているのだろうか。
「カトルくん、大丈夫?」
声をかけても反応はなく、駄目元で捻ったドアノブも、今日は鍵がかかっているらしく回る様子がない。
中で倒れていたらどうしよう、熱が出て動けないのかもしれない。連日立て続けに依頼をこなしていたから、文字通り休む暇もなかったはずだ。疲労が溜まっていたのでなければ、彼が足を滑らせて水に落ちるなんてことありえないだろうし。もう一度ノックをしかけたときだった。中からかちゃりと鍵が開く音がしたのは。
「あ、カトルく」
安堵したのも束の間、私は扉の向こうにいたカトルくんの姿を見てぎょっとする。
顔面蒼白と言って良いのか、元々色白の肌は最早色を失っていて、立っているのもやっとらしい。私をそうと認めると、彼はそのまま力が抜けたように頽れた。慌てて部屋に入って身体を支えると、いつも以上に熱い。咄嗟におでこに触れたら、異常なくらいの熱を放っていたため、あわや悲鳴をあげるところだった。
「え、あ、熱、すご」
「……寒くて」
「さ、寒いならもっとお洋服着よう!」
思わず叫んでしまった。だって、いつもの背中丸出しの服なのだ。ちょっと動けば胸元まで見えてしまう彼の部屋着姿を、私は未だに直視できない。
とりあえずベッドに寝かせた方が良い。そう判断して肩を抱いたまま、彼を引き摺るようにベッドまで連れて行く。そうしていると、頬に彼の髪が触れた。僅かに湿っている。シャワーを浴びた後、髪の毛もまともに拭かずにいたのだろう。叱責したいのを堪えながらベッドに座らせた。扉からベッドまでの道のりがこんなに辛かったことなんて今まで一度だってあっただろうか。
着ていたカーディガンを脱いで彼に着せた。心持ち袖が足りないくらいで、細身の彼は私の服を難なく着てしまう。ぼんやりと焦点の定まらない目で彼は「すみません」と口にした。その熱っぽさに、そんな場合ではないと分かっていながらもドキドキしてしまう自分の浅ましい性根が嫌になる。
「やっぱり熱があるんだね。寒い以外には?」
「熱いです……」
「うんそうだね、熱いね……」
寒い、とまるで真逆とも思える発言だけれど、寒くて熱いっていう感覚は分からないでもない。毛布を被せてもう一度額に触れる。エルーンの平熱が分からないけれど、これがもし自分の体温だったらもう生きていられないかもしれない。それくらいに熱い。熱いお湯を入れたマグカップに、手を添えているような感覚に近かった。
「食欲は……」
「……ない」
「だよね……。うーん、でもお薬とか飲んだ方が良いと思うんで……一回グランくんとローアインさんたちに相談してくるね……! シャオさんがいたら、シャオさんにも」
「……」
立ちあがろうとした瞬間、ぐい、とワンピースの裾を掴まれた。振り払おうと思えば簡単にそうできるくらいに弱々しい力で、彼は私を引き止める。だから、今度は違う意味でどきりとしたのだ。まるでそれが、子供の仕草のように思えたから。
毛布に包まった彼の表情は私の位置からでは読み取れない。ベッドサイドにしゃがみ込んで、口を閉ざしたままの彼の顔を窺う。
「……ひょっとして、さびしいですか?」
「いいえ」
「いいえかぁ……」
勘違いに少しだけ羞恥を覚えながら、彼が続ける言葉に耳をそばだてる。掠れた声は小さくて、私の呼吸一つで呆気なく消えてしまいそうな弱々しさを持っていたから、私はそれだけでも本当は、心配でたまらなかったのだ。
「……寝ていれば治るので、放っておいてください」
だからカトルくんがそう口にしたとき、私はいっそ殴られたような心地にすらなった。
「え、でも」
「薬とか、食事とか……とりあえず必要ないです。団長さんには、悪いですが、二、三日休養させてほしいと伝えていただけますか。それだけで、充分なので」
「そ、それはする、けど、でもやっぱり」
「一人にしてください」
素っ気ないその言葉に、おへその上のあたりを尖った石かなにかで一突きされたような気になる。何とか立ちあがったけれど、足が二本あれば支障がないはずの姿勢維持すらままならない。ぐらぐらと身体が揺れるのを自覚しながら、私は言葉もなく二歩ほどベッドから離れる。もうワンピースの裾は掴まれなかった。毛布からはみ出たカトルくんの手首はすっかり項垂れて、耳はぺたりと下がっている。
体調が悪いのは明らかなのに、彼はこんなときでも私を頼ってくれない。鼻の奥がじくりと痛んで、どうやら自分が泣きたいような気持ちになっていることを知った。
「わ、わかりました」
何とか吐き出した声は惨めに震えていて、だけどカトルくんはそれに返事もしてはくれない。ふらふらと部屋を出る。拒絶されたことに、酷くショックを受けている。
私は彼の恋人であるはずなのに、カトルくんは私を頼ってくれないらしい。甘えてもらえない。その事実が、今は何よりも痛い。
さんの薄いレモン色のカーディガンは、背中が包まれていることの煩わしさを除けば、温かかくてそう悪いものではなかった。彼女の匂いがする。身にまとっていると落ち着く匂いだ。毛布の中で丸くなりながら、カーディガンに包まれた腕を顔に寄せる。
みっともない所をこれ以上見せることも嫌だったけれど、それ以上に避けたかったのが、さんに風邪をうつしてしまうことだった。彼女のことだからぼくを心配してここぞとばかりに看病しようという気でいたのだろうけれど、それでさんが体調を崩してしまえば元も子もない。あの子はぼくと違って体力もないのだから、病人との接触は極力避けるべきだ。
しかし、彼女の衣服を掴んだ直後に言われた「さびしい?」の言葉には面食らった。
咄嗟に否定したが、実際どうだったのだろう。彼女が部屋を訪ねてきたとき、ぼくは夢現であったのにも関わらず意識を覚醒させて、重く、熱い身体を引き摺って扉を開けた。身体を支えられた瞬間、実を言うと、安心したのだ。ぼくを気にかけてくれる人が、こんなに近くにいることに。
さんの身体は柔らかくて、いつも以上にひんやりとしていて、くっついていると熱が吸われていくようで心地よかった。いつまでも額に触れていてほしかった。
寂しいか、と言われると、本当は即座に首を振ることなんてできない。だけどぼくは一人になるべきだった。だってぼくは、心細いからと言って人肌を欲するような子供ではなかったから。
さんのカーディガンは肌触りが良かった。それに包まれながら目を閉じると、酷く安心した。体調が良くなったら、拒絶してしまったことを謝ろう、そう思いながら眠りについたはずだったのに、ぼくはやがてぱたんと扉が閉まった音で目を覚ます。
どれくらい眠っていたのだろうか。窓の外はすっかり暗くなっていて、灯りをつけていなかった室内では時計の文字盤も見えない。
部屋の壁に埋め込まれた小さな灯りの一つが灯されて、そこで動く一つの影をみとめた。その人はテーブルの上にトレイを置くと、隣の物置から持ってきたらしい丸椅子をベッドサイドに置く。息を吸ったら、喉がひり、と痛んだ。
見慣れた指だった。
「……さん?」
「あ、ごめんなさい、起こしちゃった? 体調はどう? 良くなりましたか?」
「いや、そう簡単には……」
「ほら、やっぱりちゃんとご飯食べてお薬飲まないとだめなんですよ」
「…………どうしてあなたはここに? 一人にしてくれと、言いましたよね」
さんはすぐには答えずに、一度テーブルの上に置いたトレイを持ってきて、丸椅子に座った。膝の上に置かれたそこからは白い湯気が出ている。風邪の影響か、鼻がきかなくなっているらしい。それでようやくそこにあるのがぼくのための料理なのだということに気が付いた。
「グランくんが、二、三日と言わず、一週間くらい休んでほしいって。むしろずっと頼ってて申し訳なかった、だって」
起き上がれる? そう手を差し出されたけれど、この手を掴んで彼女がバランスを崩したら大惨事だ。ぼくは自力で身体を起こす。節々が痛い。
「これはローアインさんが作ってくれた特製おじやです。食べられる分だけで良いので、食べたらお薬飲みましょうね。シャオさんに、エルーンに良く効く風邪薬を調合してもらったんで」
「……あの」
「ん? あーん、しましょうか?」
「いや、それは良いです」
「えっ」
最低限の灯りの中、彼女はちょっとショックを受けたような表情で項垂れる。あーん、だなんて、いくら熱があるからと言ってそんな間抜け面を晒してたまるかと思っていることなんて、きっと彼女には露ほども伝わってないのだろう。
ヘッドボードに体重を預けながら、ぼくは差し出されたトレイを受け取った。あの料理長がわざわざ作ってくれたお粥は、細かく刻まれた鶏肉と野菜が混ざっていて、見るからに熱そうだ。
「もう少し灯りをつけてもらってもいいですか」
そう頼んで彼女がぼくに背を向けている間に、スプーンに掬ったそれにこっそり息を吹きかける。口に入れれば、じんわりと身体が温まるのが分かった。残念ながら、味はほとんどわからなかったけれど。
ぱちりと音をたてて、部屋の電球が灯される。光を取り込みすぎた虹彩に、一瞬眩暈が起きたような感覚にすらなった。白んだ視界の中で、さんはしかし心配そうにぼくを見つめているから、咄嗟に目を逸らす。
どうして来たんですか、放っておいてと言ったでしょう、さっき確かに口にしたそんな言葉たちが再び心の奥から浮かび上がってくるのに、そのどれもが声にならないまま萎んで消えていく。視界の隅には、白い粉の薬があった。ぼくは本格的に病人らしい。普段とは違う目線に、何だか笑いたくなる。
――ぼくの座っている場所は、本来「そっち」だったんですよ。いつだって、そうして子供たちを見守っていた。喉が痛いから、口にはしないけれど。
無言で咀嚼を続けていたら、ぴたりとぼくの額に指が添えられた。さんの指は、白くて、細くて、温度が低い。その皮膚の感触を刻み付けながら、目線だけを送った。
彼女はぼくと目が合うと途端に顔を赤くする。手を離そうとしたから、スプーンを置いてその手首を掴んだ。彼女が息を飲んだ音だけが、静かな室内に響く。
「こうしていてください」
そもそも彼女に甘えるつもりなんかなかった。弱っている姿を見られたくもなかったし、うつしてしまいそうだったから、極力触れられるのも避けたかった、なのに、ぼくはどうやら相当参っているらしいのだ。
さんは、目を瞬かせながらぼくを見つめている。
「……さんの手、ひんやりしてて、気持ちが良いので」
そう続ければ、彼女の頬はみるみるうちに赤くなった。それだけで、充分だった。
「え、あ、はい……」
戸惑うさんの指の柔らかな感触に目を閉じる。身体は怠かったし、食欲もほぼないに等しい。この風邪を治すのには骨が折れそうだけれど、さんが看病してくれるならば、それも良いのかもしれない。
一度は追い返されたのにそれでも関係なくぼくの傍にいようとしてくれる恋人の、どこか困ったような顔を見つめながら、ぼくは置いていたスプーンをもう一度手に取る。
