もしかしたら他に何か理由があるのかもしれないと思ってグランくんへのノートにそれとなく書いてみたら、カトルくんは私以外の人には普段通り接しているらしいということが判明して、余計やきもきしてしまった。
結局理由は分からないままで、だけど避けられているのは確実だった。最近のカトルくんはほとんど食堂にも顔を出さず、夜に在室しているはずの彼の部屋に行っても灯りが消えている。実際に彼が忙しいことは食堂にかけられたホワイトボードが証明していたけれど、それでも私は寂しかった。
ほとんど顔も合わせることがないまま一週間以上が経っただろうか。日々の雑務に没頭していても、同じ騎空艇に乗りながらまるで他人のような距離感になってしまった彼のことはいつもどこかで引っかかっていて、ともすれば不意に泣き出してしまいそうになる。情緒不安定なことこの上ない。
武器の整理を度々手伝ってくれるセルエルさんはそういう感情の機微に敏い人で、「具合が悪いなら休んでいた方が良いのでは?」とさり気なく気遣ってくれた。セルエルさんはいつも適切な距離感を保ってくれるから、安心する。それでも任せてしまっては申し訳ないからと首を振って整理を続けていたら、危うく鞘の欠けたナイフの切っ先で指を切るところだった。注意力も散漫になってしまっているらしい。だって、コルワさんにも相談できないのだ、こんなこと。
カトルくんに避けられているのかもしれないと口にしてしまえば、私はそれを認めざるを得なくなる。彼に噛みつかれた歯型はもうとうの昔に消えていて、あんなに痛かったはずなのに、あの出来事さえも今は遠い昔か、夢だったようにすら思えた。でも彼が怒る原因といえばあれくらいしか思いつかない。
シスさんのマントの匂いを嗅いだ私を、彼はまだ怒っている。
食堂の片づけを終えた夜、いつもの癖でホワイトボードに目をやった。今日だけで何十回も見上げているから、誰かが書き換えでもしない限りそこに変化はないはずなのに。
カトルくんの欄には、昼までの予定しか書かれていない。ならば今日はもう部屋にいるはずだ。相変わらず夕飯には姿を見せてくれなかったけれど、今は島に寄港しているから、もしかしたら外で食べてきたのかもしれない。そんな想像だけで、ぐ、とお腹が痛くなるのを感じる。だって以前だったらそういう時、彼は私を誘ってくれていたから。
ローアインさんたちに挨拶を済ませると、勇気を出してカトルくんの部屋に向かった。まだ恋人の部屋を訪れる時間帯としては、そこまで常識外れとは言い難いだろう。多分。
でも、カトルくんの部屋を前にすると私は心臓の鼓動の煩さに飲み込まれてしまいそうになる。胸の上あたりがぎゅうと締め付けられたようで苦しかった。だけどこんな苦しさは、今まで十日近く滅入っていたことに比べれば大したものではない。扉の隙間から灯りが漏れていたことに背中を押されて、勇気を出してノックする。
「はい」
内側から開かれた扉の先で、カトルくんは私を見ても、ほとんど表情を変えなかった。
「あ、の」
ごくりと喉が鳴る。胸の前で重ねた手が震えているのが、自分でもわかった。
もしかしたら、と思っていたのだ。
この騎空団には、きれいな女の人がいっぱいいる。大人っぽいお姉さんや、スタイルの良い人、私よりも圧倒的に可愛い女の子たち、そういった人の中から彼が私を選んでくれたことを私は奇跡のようだと思っていて、でもだからこそどこかでいつか彼が私を捨ててしまうのではないかと思っていた。
私は彼と同じエルーンではないどころか、そもそもこの世界の人間ですらない。いつまでも彼の隣にいられるという保証はないのに、その事実から目を背け続けてきた。だけど彼のためを思うならば、いつか消えてしまうかもしれない身ならば、このまま、もう隣にいることを諦めるべきではないか? これまで見ないふりをし続けてきた問いかけが、今私の目の前で太文字になって横たわっている。
怒らせてしまっていて、避けられていて、もしかしたら彼はもう他に好きな子がいるかもしれなくて、だから、今カトルくんはこんな冷たい目で私を見ている。
そう思ったら、今まで堪えていた涙がぼろりと落ちてしまった。
ぼやけた視界の奥で、カトルくんが僅かに表情を変えたのが分かる。だけど私はそれが一体どういうものだったのかを察することが出来ない。しゃくりあげて、泣きたかった。だけどそれは狡い女のすることだと分かっていたから、手の甲であとからあとから流れる涙を拭う。その手を、彼は掴んで引っ張った。
ぐい、と部屋に引きずり込まれて、扉が閉められる。カトルくんの部屋は以前来たときとほとんど変化がなくて、なのに、私はそれを懐かしく思う。洗濯物を届けたこと、指輪が抜けなくなったこと、起こしにきたときに、ベッドに引きずり込まれて後ろから羽交い絞めにされたこと。思い出がまざまざと脳裏を過ぎるから、もう泣いているのに、益々泣けてしまった。
「……き、嫌いに、ならないで」
彼のためを思うなら私は身を引くべきだ。分かっていたはずなのに、私の口からついて出るのは全く逆の言葉だったのだから、我ながら往生際が悪い。
カトルくんは私の言葉に一瞬詰まったような声を出した後、それから掴んだままの私の手首を自分側に引き寄せた。躊躇いもなく抱きしめられたことに胸が締め付けられる。言葉もないまま、彼は私の身体に力を込めた。首筋に顔を埋めて、頬を擦りつけられて、内臓がぎゅうとなるのを感じる。
何が何だか分からなくて、だけど抱きしめ返したくてたまらなくて、私はそうっと彼の背中に手を回した。嫌がられなかった。
「さん」
掠れた声でカトルくんが言う。首筋から顔を離した彼は、私のことをじっと見つめた。その瞳の奥にいる自分を見て、私はいつの間にか、涙が止まっていたことを知る。
嫌いにならないで、と言われてしまったが、一体彼女は何を勘違いしているのだろう。
腕の中で微かに震える柔らかな身体の感触を確かめながら、ぼくは彼女の可愛らしい言動に笑ってしまいそうになるのを耐えている。
嫌いになるわけがない、というか、そもそもぼくは、一度自分の線の内側に入れたものを追い出すような真似は滅多にしない。一度好きになった時点で対象物への執着は異常なほど強くなると自分自身でも自覚しているのに、当の本人にはそれが一切理解できていなかったらしい。
嫌いにはならない、けれど、彼女に対してちょっと怒っていたのは事実だ。
ぼくの注意の仕方が悪かったのかもしれない。「ぼく以外の匂いを嗅がないでください」ではなく「シスさんには近づかないように」と言うべきだったか。でも、同じ騎空艇に乗りながらそんな器用な真似は彼女にできるわけがなかった。
いや、分かっているのだ。そもそも、ぼくの感覚がおかしいのだということくらい。
最近導入された食堂の配膳方式は、団員が列を成してさんたちから皿を受け取っていくという形式のものだ。だから、必然的に彼女は他の団員と会話をする機会が多くなる。前からそれが気に食わなかったのだけど、ぼくの嫌いな人間に対して笑みを浮かべ、言葉を交わす彼女を見た瞬間、ぼくは危うく感情が抑えきれなくなるところだった。白昼の食堂だというのにも関わらず。
「シスさんは嫌いなものとかないんですか?」
さんの声は賑やかな食堂でも良く通るから、ぼくは少し離れた位置からでもそのやり取りの一部始終を目撃してしまった。彼女にそう尋ねられた陰気野郎は何か返事をしていたようだけど、勿論あの男のぼそぼそとした声なんて聞き取れるはずがない。彼が何と返事をしたのかは定かではないが、さんはその言葉に対してぱっと笑って、わざわざ皿を取り換えてやっていた。
「良いですよ、これからも何かあったら色々教えてくださいね」
ぶち、と頭の方で何かが切れた。あのときの怒りは未だに持続している。陰気野郎への怒りなのか、はたまた無防備な笑顔をあの男に見せたさんへのものなのかは定かではなくて、ぼくはああいうやり取りを見るのを避けるために、最近は食堂へは行っていなかった。さん自身と会話をすることがなかったというのは勿論、依頼に次ぐ依頼で忙しかったせいというのもあるけれど。
だけど、さんがそれをここまで気にしているとは思わなかった。理由は理解できなくとも、彼女自身ぼくに避けられていると思っていたらしい。縋りつく様に背中に回された手の平が、直にぼくの肌に触れるその感触にぞくぞくする。
媚びるような甘さを持った「嫌いにならないで」という言葉を、何度も何度も反芻させる。さて、ここからどういう対応を取るのが相応しいだろう。さんの髪に鼻を寄せながら、僕は不安そうに震えている彼女に聞こえるように、声を出して笑う。
