20190213
 グランサイファーのキッチンはいつも戦場だ。団員が増えれば使う野菜の量も増え、調理の手間も増え、運ぶお皿も増え、洗い物も増える。
 最近、一人ひとりがトレイを持って、私やエルセムさんが料理を配膳していくというスタイルを導入したことにより何とか回っている状態ではあったけれど、最後の一人が食堂を後にしてからも気は抜けない。お皿洗いにゴミ捨て、食堂全体の清掃など、一つも欠かすことのできない作業が残っている。
 昼食後、床を掃除するために箒を取って戻って来たときだった。椅子の背もたれ部分に無造作に引っかけられた状況で放置されていた、白いマントを見つけたのは。



「あれ?」

「お、DOしたっち」

「なんか忘れ物っぽいです。カトルくんのかな?」



 手に持って広げてみなくてもそれは一見してカトルくんのものであるように思う。白地に、裾の部分は金と紺の太いラインが入っているマント。その裏地は深い赤で、この騎空艇内で他に似たようなものを着ている人は見たことがない。
 掃除が終わったら届けようと、畳み直すために手を伸ばす。けれど実際に触れてみた瞬間、何か細やかな違和感を覚えたのだ。――これ、本当にカトルくんのものなのかな?
 恋人なら普段相手が身につけているものくらい瞬時に判断すべきだとは思うし、それでいうならやっぱりこのマントはカトルくんのものであるように思えるんだけど、でもなにかが違う気がする。裾のラインも裏地も、同じつくりだとは思うのに。
 ――とは言え、今はそれを追及しているときではない。先に掃除を終わらせなければ。
 しかし再び箒を持とうとした私の手を掴んだのはエルセムさんだった。生温かい目で見つめられ、小さく首を振られる。



「それ、カレピのなんだろ? ここは俺らに任せて、行って来た方が良い的な?」

「え、でも掃除……」

「そんなん気にしなくても代わりにトモイが秒で終わらせるっしょ!」

「ちょちょちょ、いきなし俺とかまじいみぷーなんすけど」

「でもでも? やらないわけは~?」

「ないわな! 俺に任せてここは行け的な?」

ちょのカレピ、俺らと違って忙しいしな。午後からも依頼ってそこに書いてあっし! 今からならヨユーで間に合うっしょ」



 厨房の方からローアインさんにまで顔を出されてそう言われる。彼が指差したホワイトボードを私は日課のように毎朝見上げているから、今更視界に入れなくともそこに何が書いてあるのか分かっているけれど、勢いにつられて私も視線をやった。二時以降、依頼のため不在。――時間までまだ三十分はある。



「そうと決まったら今すぐ行くっきゃないっしょ! カレピ、困ってるかもしれね~べ!」



 エルセムさんがそう言いながら押し付けてくるマントを思わず受け取ると、代わりに私の手から当然のように箒が奪われてしまった。申し訳なかったけれど、彼らの気遣いは素直に嬉しかった。



「ありがとうございます! じゃあ、行ってきます!」



 快く送り出してくれた三人に改めて頭を下げて、私は小走りで食堂を後にした。もしも早く渡せたら、戻ってこようと思ったのだ。
 扉を閉めたら、通路を駆ける。多分、部屋にいるか、そうじゃなかったら談話室、それか、グランくんと一緒にいるんじゃないかな。一つずつあたっていけば、時間までにはカトルくんに会えるはずだ。胸の中に抱えた白いマントは、けれどやっぱり何となく違和感があった。手触りは勿論一緒だ。廊下を歩きながらまじまじと手の中のマントを見つめる。何だろう。いけないことと思いながらもそっと鼻を近づける。



「においがなんか……違うかも……?」



 独り言のように呟いた瞬間だった。背中の方から、「おい」と声をかけられたのは。
 悲鳴を飲み込んで咄嗟に振り向けば、そこには私の知らない人がいた。
 顔のほとんどを仮面で覆ったその人は、多分カトルくんと背丈はそんなに変わらない。薄藍の髪に、エルーン固有の獣の耳、少し高圧的に感じるのは、仮面のせいで表情が読み取れないからだろうか。
 何か用件があるのかと思えば、しかしその人は次の言葉をなかなか吐き出さなかった。



「えーと……」



 周囲に視線を彷徨わせるも、今ここには私とこの人しかいない。じゃあ、私に声をかけたことは間違いないはずだ。でも、知らない人だ。知らない人ってことは――。



「あっ! 新しい団員の方ですよね。道に迷いましたか?」



 グランサイファーは常日頃から団員の出入りが激しい。互いに顔と名前は知っていても話をしたこともない団員もいれば、存在すらも認知しきれていない団員もいる。
 私はローアインさんたちのお手伝いとして食堂にいることが多いから、ほとんどの団員さんの顔は知っていたけれど、それでも彼のことはわからなかった。ということは、最近グランサイファーに乗った人なんだろう。
 この世界では中型の騎空艇だと言うグランサイファーは、けれど私にとっては空飛ぶホテルと大差ない。初めて乗せてもらったときは、良く迷子になったものだ。
 トイレに行った帰り道で自分の部屋の場所が分からなくなって、半分泣いていた私に声をかけてくれたのがコルワさんだ。それがきっかけで、彼女とは今でも仲良くさせてもらっている。そう考えると、偶然の出会いには感謝してもしきれない。
 だけど目の前の仮面の男性は、私の問いかけにゆるゆると首を振った。迷子ではないなら一体何なのか。首を傾げる私に、彼は私の身体を指差した。



「返せ」



 ――返せ、とは。
 言葉が足りないどころではない。そう考えてしまったけれど、「お前が持っているそれだ」と続けた彼が、胸にあるマントのことを指しているのに気が付いて、私ははっと顔をあげた。



「あっ! これ、もしかしてあなたのですか?」

「……そうだ。さっき、食堂に忘れた」

「ああ、そっか、だからか!」



 道理で、と頷く。カトルくんのものでないような気がしたのは正しかったらしい。



「すみません。別の人のって勘違いしちゃって」



 そう言いながら素直に返すと、仮面の団員さんは無言でマントを受けとる。派手な音を立ててそれを身にまとった瞬間、エルーン特有の背中を出す衣類のおかげでちらりと素肌が見えた。カトルくんのそれを思い出してしまって、なぜだか無性に照れた。
 彼はそのまま踵を返すと思われたけれど、私の想像に反して、そのまま仮面越しに私のことを見つめているようだった。表情が見えない分、少しだけ戸惑いを覚えてしまう。それでもどこか親しみを覚えるのは、全体的に黒っぽい衣装に、目に痛いくらい白いマントがカトルくんのそれに良く似ているせいだろう。――似ているっていうか、やっぱりほとんど一緒なのだ。間違えたっておかしくないくらい。
 じゃあ、ひょっとして。そう考えた瞬間、仮面の男性は口火を切った。



「……お前の言う、勘違いとは何だ?」

「へっ」



 そのつっけんどんな言い方に、面食らう。
 抑揚のない、静かな声だった。注意していないと何か聞き漏らしてしまいそうな。彼は私を少し警戒しているようだったし、きっちりと線を引いているのは間違いなかった。マントのことがなかったら、多分お互い、話をすることもなかったと思う。だって表情が読めないってだけで、ちょっとだけ、こわい。
 どうしてこういう時に限ってこの廊下を誰も通りかからないのだろう。昼食後に島に着いたばかりだから、依頼のない団員も街の方に出かけてしまっているのかもしれない。遠くから聞こえるローアインさんたちの笑い声だけが救いだった。それに勇気づけられて、微かに生まれた怯えをどうにか飲み込んでしまう。グランサイファーに搭乗しているってことは、グランくんがちゃんと認めたってことなんだから、大丈夫にきまってる、って。



「……えっと、その、似ているマントを着ている人がいるので、その人のって勘違いしちゃって。それで、その人に届けようかなあと思ってたんです。あなたのだったんですね。えーと」

「シスだ」

「シスさん。私はって言います。よろしくおねがいします」



 名乗ってもらったことに少しだけ安堵しながら、自分も名前を伝えた瞬間だった。シスさんが私の肩越しに何かを見つけたような様子で目線を外したのだ。だけど私がその視線に振り向くよりも、背後からぐい、と肩を掴まれるのが先だった。その衝撃にややもすると口から悲鳴が漏れそうだったけれど「わあ」という言葉を私が発することができなかったのは、思い切り舌を噛んだからだ。あわや蛙のような音を出すところだった。
 視界の端に入った藤色の髪に、私は目を見開く。



「――これはこれは。シスさんじゃないですか」



 カトルくんが依頼のために出かける時間を考えれば、彼がここを通りかかったのは不自然ではなかったかもしれない。
 カトルくんは私とは目も合わせずに、ほとんど手の力だけで私を自身の後ろへと追いやった。まるでシスさんから私を庇うような仕草であったこと、彼の言葉尻がどこか敵意を孕んでいたように感じられたことが、私に緊張を覚えさせる。
 知り合い、なんだ。じゃあ、やっぱりこの人は――。



「……カトルか」




 私より背の高いカトルくんが壁になって、彼と対峙するシスさんの姿はほとんど私の視界に入らない。壁とカトルくんの隙間から覗き見ようと顔を出したら、偶然なのか故意なのか、カトルくんがそちら側の足に体重をかけてしまったことで視界が遮られた。
 だけど、二人はやっぱり同じマントを身につけていた。



「あなたもこの騎空艇に? 偶然ですね。ぼくも少し前からお世話になっているんです」

「……ああ。耳にはしていた」

「へえ? で、あなたは一体ここで何を?」

「……」



 にこやかな微笑を浮かべながらも、それは傍から見れば彼がシスさんに詰問しているようにも見えた。対するシスさんは、一体どんな感情を抱いているのか、私の位置からでは分からない。そもそも姿をきちんと視認できたところで、表情を覆う仮面のせいで何も得られるものはないだろう。
 だけど何だか一方的に詰られているようで気の毒に思えてしまった。シスさんの弁護をするためにも、カトルくんのマントを後ろから引く。彼はそれでも、びくともしない。



「あ、あの、カトルくん。その、私がシスさんのマントを持って行っちゃってね。シスさんはそれを探してただけなんだ」



 二人の間に流れる不穏な空気の理由を推測することは今の私には出来なくて、だからこそ、せめて弁明だけはしてあげたい。カトルくんが何をそんなに怒っているのかは、全然わからないけど。そう思ったけれど、視線だけを私に向けたカトルくんの眼光は、酷く冷たかった。彼はやっぱり、イライラしていた。



「だったら猶更、もう用事はありませんよね? マントは返してもらったみたいですし」

「……そうだな」

「あ」



 カトルくんの身体の向こうで、シスさんが踵を返したのが分かる。纏ったマントを靡かせて、そのまま視界から消えていくシスさんの姿を何とか目で追った私は、ため息を吐いて振り向いたカトルくんに、言いようのない感情を抱いてしまった。
 だって、幾らなんでも冷たすぎやしないだろうか。いや、冷たいというよりは、当たりが強いと言った方がいいのかもしれない。思わず眉を寄せてじっとカトルくんを見つめると、彼の方はそんな私に気が付いて「なんですか?」とさらに不愉快そうに目を細めた。いつもだったらここで委縮してしまうところだけど、今日は引く気にはなれない。だって、シスさんは何も悪くないのだ。私が勘違いして、迷惑をかけてしまっただけで。



「……今のは、シスさんが可哀想だと思う……」



 少しの間があった後、頭上から小さな舌打ちが降ってきて、本当は少し怯えた。何も言葉を発する気がないらしい彼に、私は呆気なく飲み込まれててしまいそうになる。知らないうちに握りしめていた拳が、身体の前でゆるゆると力を失っていくのが分かった。



「わ、私が間違えたんだよ。なのに、なんでシスさんにあんな風な態度を取るの? シスさんもカトルくんと同じ、十天衆の人なんでしょう?」



 カトルくんと同じようなマントを身に着けて、もとより互いに顔見知りであったと勘繰ることのできるあの会話から推測するに、シスさんもまたカトルくんと同じ十天衆と呼ばれる人なのだろう。カトルくんは私の言葉を否定しない。
 だけどそれから彼がようやく吐きだした言葉が「そもそも、間違えたってなんですか?」だったものだから、私はすっかり狼狽してしまった。



「その……マントが食堂にあったから、カトルくんのかなって思って……」

「間違えたんですか? あの人のとぼくのマントを?」

「た、確かに良く見れば、違うのかもしれないけど……!」



 明らかに苛立ったような顔でそう言われると、目を逸らさざるを得ない。「で、でも匂いで違うなってわかったし」と自己弁護のために並べた言葉は、しかし彼にとっては聞き捨てならないものだったようだった。後悔したって、遅いけど。



「――は?」



 低い声で吐きだされたその短い声に、反射で身体が震える。
 本当に、どうしてこの廊下はここまで人気がないのだろう。もしも誰かの気配があったら、彼はここまで私に明確な苛立ちを向けなかったかもしれない。いや、向けたとしても、こんなところで私の手首を掴みあげることなんてきっとしなかったはずだ。
 食堂の方から聞こえていたはずのローアインさんたちの声はいつの間にかなくなっていた。今度こそ、カトルくんと二人きりになってしまったみたいに思えた。いつも痛くないように触るカトルくんの手が、今、私のそれをきつく握りしめている。痕が残りそうなくらい、きつく。



「嗅いだんですか?」



 カトルくんの左手によって掴まれた私の右手首は、身体ごと壁に押し付けられた。左肩の上あたりの壁に、彼は右手をつく。閉じ込められてしまった。という事実よりも、カトルくんの顔が近くに迫っていることの方に恐怖を感じる。いや、恐怖だけではない。苛立ち、怒り、呆れ――色んな感情の混ざったその瞳が私だけを見つめていることに、私は実を言うとどきどきしていたのだ。
 美しい眉が歪むのを、私は見ている。藤色の髪が私の頬を撫でる。腰のあたりが、触れられてもいないのにぞくりと粟立った。耳元に近づけられた唇が動く。深いため息と掠れた声に、脚から力が抜ける。



「あなたにはわからないかもしれませんが」



 どこか突き放すような言い方だったのに、何もかもが、熱い。



「ぼくは、あのクソ陰気野郎が死ぬほど嫌いなんです」

「は」

「だからあなたがあいつと二人きりでいるのは勿論、さんの名前をあいつが呼ぶだけでも、気に食わないんですよ」



 ――あ、これ、全部わざとだ。
 そう気が付いたときには、カトルくんは私の首にがぶりと噛みついていた。甘噛みなんてもんじゃない、勢いよく、鬱血するほどの力で彼は私の皮膚に歯を立てる。



「いっ」



 思わず漏れた悲鳴に、首のあたりで彼が小さく笑ったのが分かる。足の間にはいつの間にか彼の膝が差し込まれていて、だから私は、崩れそうになる自分自身を必死で叱咤して、耐えた。首筋にちゅ、ちゅ、と何度か柔らかく唇を押しつけられて、今度こそ声が漏れそうになる。わざと音を立てられているみたいだ。べろりと舐めあげられて、もう終わりかと気を抜いたところにもう一度噛みつかれたものだから、「ひう」なんていう悲鳴と嬌声の間のような声を出してしまって、泣きたくなった。
 今度こそ解放されたと分かったのは、カトルくんがその身体を私から離したからだ。両肩に手を置いたカトルくんは、私のことを見下ろす。その双眸の温度の低さに、ぞくりとする。



「お仕置きで気持ちよくならないでください」



 羞恥で顔が熱くなる。
 カトルくんによって二度も噛まれたそこは、歯型がついているんじゃないだろうか。指の腹を押し付ける様にして撫でながら、カトルくんは目を細めた。



「これに懲りたらぼく以外のものの匂いを嗅ぐような真似は二度としないでくださいね」



 最後に、優しく唇にキスをしてくれなければ、私はもしかしたら彼に対して少しだけ蟠りを持ち続けることになったのかもしれない。だけど私は単純で、啄むようなキスの後、頭を軽く撫でてくれた彼のことを、やっぱり嫌いにはなれないのだ。



「では、依頼があるので」



 そう言い残してその場を立ち去ったその残り香に、自分の心をまるごと奪われてしまったような気持ちになる。
 じんじんと痛む首筋に触れながら、私は今度こそ立っていられなくなって、その場に座り込んだ。痛いくらいに、頬が熱かった。




リクシチュ「十天衆に嫉妬する」