グランくんに頼まれて、カトルくんを呼びに彼の部屋まで行ったのが朝のことだった。



「午後からの依頼の件で少し詰めたいことがあるんだ。悪いんだけど、カトルに声をかけてきてくれないかな?」



 グランくんは通りすがり際に私に言伝を頼むと、返事も待たずに甲板へと駆け出して行った。その背中に「わかったー!」と声をかけると、彼は「ありがとう!」と叫んでそのまま私の視界から消えていく。
 忙しいグランくんの役に少しでも立てるなら。そう思ってすぐにカトルくんの部屋へと向かったけれど、歩きながら、自分の顔が強張っていることに気が付いていた。頬にそっと手を触れて、労わるように揉む。
 他の団員たちの使う部屋のそれと何ら変わらない木製の扉を前に、私は張りつめた緊張を誤魔化すように細く長い息を吐いた。カトルくんの部屋。彼に無理矢理手を引っ張られてここに連れて来られたことは、記憶に新しい。
 ノックするために手を胸のあたりまで持って行って、しかし、躊躇う。たった一度とは言え、彼と「そういうこと」をしてしまった記憶が鮮明に残っているせいだ。
 それは、時間が経つにつれて強くなっていく類の羞恥だった。あれ以来私はカトルくんの顔を見ると叫びだしそうになる。あの時の彼の熱っぽい目を思い出して、身体中が訴えるのだ。一線を越えてしまったことが、時間差で私を追いつめていることは間違いなかった。
 でも誓って避けていたわけじゃない。あの日から彼と二人きりになることがなかったのは、半分が意識的なものでは確かにあったけれど、もう半分は不可抗力によるものだ。
 デートのために一日仕事をお休みしてしまったことに加えて、普段から後回しにして溜め込んでいた雑務の処理、これが厄介だった。元々食堂のお手伝いに追われてそんなに余裕があるわけではないのに、よりによって苦手な武器庫の在庫確認を怠っていた私は、グランくんに指摘されるまで倉庫がいっぱいになりかけていることに気が付かなかったのだ。
 ここ数日は倉庫に入り浸って、未だにほとんど区別のつかない武器のチェックで一日の大半を終えていた。見かねて手伝ってくれたセルエルさんには頭が上がらない。
 カトルくんとゆっくり過ごす時間を取れなかったのは、仕方がない。そういう大義名分があったはずなのに、いざ改めてカトルくんの部屋の扉を叩こうとすると緊張感が芽生える。
 だけどいつまでもここで立ち尽くしているわけにもいかないだろう。こっそり深呼吸をしてから、思い切って扉をノックする。
 木製の扉はそれなりに大きな音を立てて訪問者の存在を知らせたけれど、しかし返事はなかった。



「……カ、トル、くーん」



 室内からは何の音もしない。試しにドアノブを回してみて、ぎくりとする。開いている。前にもこんなことがなかっただろうか。閃くように脳裏に過ったのは、まだ私がグランサイファーに戻ってから日が浅かったときのことだ。
 皆の洗濯物を返していたら、アンスリアさんに渡したものの中から見慣れないシャツが出てきて、それをカトルくんのものだと勘違いしたとき。あのときもカトルくんはノックに反応を示さなかったし、部屋の鍵も開いていた。ベッドで眠ったふりをしていた、というのがあの時の彼の言だけど、それが事実かどうか確認する術はない。
 心臓の鼓動が強くなっていることを自覚しながら、私は思い切ってドアノブを握る手に力を込める。だって、グランくんが彼を呼んでいるのだ。忙しそうに騎空艇内を駆けずりまわっていた彼の助けを、できるならば私もしたい。
 恐る恐る開いた扉の先は薄暗い。不在だろうか、とほんの少し、どこかでほっとしたのも束の間、息が止まった。
 ベッドの中、毛布にくるまって丸くなるカトルくんの姿を発見してしまったのだ。



「あ」



 思わず声が漏れてしまって、慌てて口を押さえた。
 確かに、昨日の依頼が長引いたらしいとは聞いている。厄介な魔物が多く現れたとかで、そのほとんどの処理を行ったのが彼なのだとグランくんが教えてくれた。帰ってきたのは深夜だったのではないだろうか。
 どうしようか思案したのは僅かな間で、私は音を立てないように扉を閉めると、忍び足でベッドまで近寄る。すうすうと穏やかな寝息が聞こえて、本当に彼が疲れているのだと察する。だって、鍵を閉めるのも忘れていたくらいなのだから。
 寝かせてあげたい気持ちと、グランくんの言伝を伝えなければという気持ちとがせめぎ合う。閉められたカーテンの隙間から、朝陽と呼ぶには少し高い太陽の光が差し込んで、シーツの上に線を作っていた。その先で枕に顔を埋めて眠る恋人の寝顔をまじまじと見る。きれいだと思う。解いた藤色の髪は肩より長くて、雰囲気が普段と違う。こんな彼を見ることができるのは、恋人の特権だ。
 起こさないように慎重にベッドの縁に腰掛けて、解かれた髪に手を伸ばした。花の色、やっぱり、すごくきれいな色だ。魅了されてしまったような、ふわふわとした高揚感に、自分に与えられた役目すらも忘れかけてしまったそのときだった。
 伸ばした手が、彼の髪の毛に触れるよりも早く、掴まれたのだ。



「へっ?」



 ぐい、と引っ張られて、ベッドの中に引きずり込まれた。驚く間もなく腕できつく首を絞められる。口元を手の平で覆われて、身動きがほとんど取れないのに、背中越しのカトルくんの熱が強くその存在を主張していた。
 苦しくて一瞬意識が遠のいた。耳元で「……あれ」と掠れた声で彼は呟く。直後、背中の方で、すん、と息を吸うような音がした。



さん……?」

「げほ、は、はい、です」

「ああ……」



 匂いで判断された気がするのは気のせいだろうか。カトルくんは私だと知ると、すぐに首に回した腕の力を緩めて、口元を塞いでいた指を解いた。何だか名残惜しいように思ってしまう自分に、少しだけ動揺する。



「すみません。寝ぼけました……」

「い、いえいえ、鍵が開いていたとはいえ、勝手に入った私が悪いので」

「鍵が……?そうか、すみません……」



 寝ぼけていた、と言うよりも、彼の境遇を思えばそれは染みついた癖のようなものだったのかもしれない。
 呼吸を整えていると、彼は労わるように、甘えるように、私の背中に額を摺り寄せた。一瞬確かに彼から放たれた殺気は、もう跡形もなくなっていたけれど、直後に彼は両腕を私のお腹に回して拘束するように引き寄せたから、ひ、と息が止まる。
 私の背中あたりに擦りつけた額が熱くて、思考が停止する。お腹に回された腕の感触がくすぐったい。身もだえするように動いたら、不快だったのか、さらに力が込められた。このままではまずい、と思って、慌てて「あの、グランくんが、呼んでます」と伝えたのに、カトルくんはそれには答えずに私を抱きしめる。毛布を蹴とばして、足で私の両足を固定するから、本当に一切の身動きが取れなくなってしまった。



「あ、あのカトルくん」

「うるせえな……」

「……でも、その、午後の依頼のことで、言伝があって」

「……今は無理です、まだ」



 腕に力を込められて、背中に擦り寄られて、思わず悲鳴が漏れてしまった私に彼は普段よりも小さく笑った。
 その笑い声がもう彼がきちんと目を覚ましていることの証左のように思えて、訴えようと身じろぎをするけれど、悲しいことに力の差は明白だった。私は腰と足をぎっちりと固定されたまま、息すらまともにできない。もう首を絞められているわけではないのに酸素が上手く取り込めなくて、困ってしまった。
 さっきは毛布のせいで気が付かなかったけれど、どうも彼が着ているものの布地が薄い気がする。コルワさんも寝間着のときは涼しげな出で立ちになるから、エルーンは皆そうなのかもしれない。だけどこんな知識を得るのは何も今でなくたって、と思うのだ。
 カトルくんの身体が私のものと違ってずっと硬くて、逞しいこと、そんなのは改めて考えるまでもなく分かりきったことで、本当は今すぐにでも離れたかったのに、カトルくんが私の背中に頬ずりして、「すみません、もう少しだけ、このまま」と掠れる声で言うから、彼が腕を回した腹の上、そこにある心臓を鷲掴みにされているような錯覚を覚える。いつもかっこいい人なのに、こんな風に甘えるなんて、狡い。
 かろうじて自由に動かせる両腕で、見られるわけではないと知りながらも熱くなった顔を覆う。すうすうと穏やかな寝息が聞こえ始めても、私は全く微動だにできなかった。私はカトルくんに羽交い絞めにされたまま、ごめんなさい、と思う。ごめんなさい、グランくん。私はカトルくんを起こすことも上手くできない木偶です。だってこの人本当に、寝ちゃったよ。
 背中越しの静かな寝息を感じながら、徒労感に目を閉じる。








 目を覚ましたとき、なぜか腕の中でさんが眠っていた。
 どうやら抱き枕にしてしまっていたらしい。彼女を起こさないようにそっと腕を引き抜く。無防備に眠る彼女の横顔を何の気なしに眺めると、本当に、気の抜けた間抜け面で眠るものだと笑ってしまいそうになった。星屑の街でもいっとう幼い子のそれに近い。
 思い返してみれば、夢現の中彼女と話をしたような気もする。確か団長さんがぼくに用事があるとかなんとか言っていたような。
 他の人が相手だったら、例え眠っていようと声をかけられた時点で、いや、恐らく自分の半径数メートル以内に入った時点で意識は覚醒するはずなのに、相手がさんだったせいか、ぼくはすっかり気を抜いていたらしい。心を許した相手であることと、彼女に一切の敵意がないという二点に於いて、ぼくは彼女に警戒心を持ってはいない。この状況を見るに、どうも一度は彼女の動きを封じてしまったようだけれど。
 それにしても、ぼくを起こしに来たのだろうに、一体どうして彼女まで眠っているのだろうか。無防備すぎやしないか。投げ出された細い腕や、細い息を吐く唇を見ていると少しくるものがあったので、ぼくは意識的に彼女から目を逸らす。
 時計を見るとまだ昼前だった。彼女が実際にぼくを呼びに来たのがいつくらいだったのかは定かではなかったけれど、今日の予定を考えれば今から団長さんの元へ向かっても別段問題はないだろうことが想像つく。
 支度をするために起き上がったとき、足元の方に蹴とばされていた毛布の存在に気が付いて、彼女にかける。その瞬間、さんが何かを呟いたので、自分の名前だったら可愛いな、と自惚れたことを考えながら口元に耳を寄せると「……焼き鳥」だったものだから、さすがに笑ってしまった。



「……今度、食べに行きましょうか」



 小さく囁いてから、頬に触れるだけのキスをすると、さんは微かに身を捩った。
 着替えをして、髪をまとめる。テーブルの上にあったメモ用紙に一言だけメッセージを残して、部屋を出た。








 私が飛び起きたときそこにカトルくんはもういなくて、私は混乱するままに部屋を見回す。カトルくんによって蹴とばされていたはずの毛布は、私の胸のあたりまでかけられていた。それ以外に変化のない部屋にぽつりと取り残されてしまったことにちょっとした孤独感を覚えるけれど、カトルくんはきっと目を覚まして、もう依頼に向かったのだろう。だってもう、お昼の時間を過ぎている。



「……あっ」



 時計をもう一度見て、私はランチタイムの食堂を手伝えなかったことに思い至った。人手が足りなくて大変だったに違いない。せめてお皿洗いくらいは、と部屋から飛び出そうとした瞬間、目に入ったのは一枚のメモだった。
 私の目につきやすいように、ベッドサイドのテーブルの上に無造作に置かれたそのメモ用紙には「いってきます」と書かれている。カトルくんの字で間違いない。
 その筆跡をまじまじと眺めながら、私はじわじわと胸の中に侵食していくような感覚を覚えながらも、それを丁寧に切り取った。顔がほころぶのを感じる。代わりに、新しいメモ用紙に「おつかれさまです」と書いた。彼に比べればたどたどしい字になってしまったけれど、読めないこともないだろう。
 今の私の十分の一くらいは喜んでくれるかな、と思いながら、彼の部屋を後にする。




リクシチュ「抱き枕にされる」