どうしてあんなことを言ってしまったのだろう。
 カトルくんがグランサイファーを降りて星屑の街へと戻ってから、私はそのことばかり考えて、雑務もほとんど手につかなかった。コルワさんが不在なのを改めて確認してから、一人でベッドに突っ伏す。
 困らせてしまった。
 好きだと口走ってしまったとき、カトルくんは一瞬だけ目を見開いて、それから笑顔を作った。目を細め、口角を決まった角度であげただけの、型抜きしたような笑みだった。出会ったときのカトルくんを彷彿とさせた。
 触れていた指先はさりげなくほどかれた。彼は私を拒絶した。
 彼が元々、私のことを疎ましく思っていたことは察している。それは恐らく、私が彼の足の裏に立つ存在だったからだ。
 親に捨てられた、逃げ出してきた、奪われて搾取されて、そんな子供たちと生きてきたと、彼は嘗て話してくれた。そんな彼にとって、幸福な人生を送り続けてきた私はきっと理解できる人種ではない。嫌悪の対象にされたっておかしくはなかったのだ。
 だけどあの日私を迎えに来てくれたカトルくんは、もう蔑むような目で私を見たりはしなかった。
 部屋に招き入れてくれた。指輪を抜こうとしたときも、見守ってくれていた。二人で依頼をこなした。箱に吸い込まれた私を助けようとしてくれた。食事の誘いを受けてくれた。そういったことの積み重ねが、私を勘違いさせた。すべて自惚れだったのだ。
 皆の前では気丈に振舞った。コルワさんが食事はどうだったか尋ねてくれたけれど、唇を引き結んだ私に、彼女はややあってから温かい手の平で私の頬を挟んでくれた。「今度は私と一緒に、ご飯行きましょうか!」と、笑って。コルワさんの手はこんなにぬくいのに、私は、何度も触れたはずのカトルくんの温度を忘れてしまっている。それが今は途轍もなく、悲しい。
 彼がグランサイファーを降りる背中に、せめて声をかければよかった。「いってらっしゃい」と、例えどんなに不細工になっても笑っていれば、何か変わっただろうか。少なくとも、今私はこんな後悔をせずにいられたんじゃないだろうか。私が選択しなかった札の先をどれだけ空想しても、何の意味もないのに。
 グランくんは私を気遣った。ローアインさんが、私の食欲がないことに目敏く気が付いた。ルリアちゃんには顔色が悪いことを心配された。
 私はこんなに自分の中に生まれる感情を押し殺して生きているつもりなのに、どうしたって継いで剥いだ皮膚の隙間から漏れ出てしまう。カトルくんならば、もっと上手く何もかもを隠すんだろうな。薄らとそう思う。それがどれだけ苦しくても。



「明日はカトルが帰ってくるね」



 グランくんから受け取ったノートの、彼が記してくれた文章の最後に、それはひっそりと書いてあった。
 カトルくんが星屑の街に向かってから、一週間。未だにどんな顔で彼を出迎えたらいいのかを、私は分からないままでいる。








 快く送り出してくれた姉さんや子供たちに、街と外の境界線となる門を背にして振り返った。



「……無茶はしないでね」



 薄く微笑む姉さんに、「姉さんも」と短く返す。
 子供たちの表情は、様々だ。ぼくに心配をかけまいと胸を張っている子、泣くのを我慢している子、姉さんの影に隠れている子、その一人ひとりの頭を撫でて、ぼくは「じゃあ、いってくるよ」と告げる。ぼくが再び戻ってくることを知っているから、彼らは大きく頷いた。
 街を出てから、自然と歩幅が大きくなっていることを自覚する。約束の時間に間に合いそうにないわけではないのに、逸る気持ちが抑えきれない。
 彼女への思いを自覚したからと言って、どんな言葉でそれを伝えるべきかはまだ定まっていない。そもそも、その前に彼女がまだぼくのことを待っていてくれているかも分からないのだ。ぼくは柄にもなく、緊張しているらしい。
 星屑の街近くの停泊場でグランサイファーを見つけたとき、心臓が脈打ったのが分かった。
 騎空艇のタラップの下で、恐らくぼくを待っているのであろう人影が一つだけ見える。それが団長さんだと分かったとき、ぼくはどうしようもなく、落胆に似た何かに殴られたような気がした。



「カトル。おかえり。街はどうだった?」



 それでも、彼にぼくの感情を悟られるわけにはいかない。努めて穏やかに見える笑顔を作り、ぼくは小さく会釈を返す。



「はい。すみません、ぼくの我儘で。街も特に目立った問題はなかったです」

「良かった。また言ってもらえたらいつでも街に寄るから、声をかけて」

「ありがとうございます」



 微笑みながら団長さんにそう言ったとき、彼が「ほら」と、ぼくではない誰かに声をかけていることに気が付いた。そこでようやく、ぼくは彼の背後に寄り添うように隠れていたさんの存在に気がついたのだ。
 さんは団長さんの背中に手を添えて、顔を半分だけぼくに見せた。普段のぼくだったら、他人との距離感を測り損ねている彼女にちょっとした苛立ちを覚えるところだっただろう。けれど、今はそんなことよりも、彼女がこうしてぼくの前に立っていることに、驚くくらいに感情を揺り動かされている。



「あ、あの」



 詰まりながら、さんは目線を彷徨わせる。目を合わせたかと思えばすぐに逸らして、今にもまた団長さんの背中に引っ込んでしまいそうだったけれど、それでもぎゅうと目を閉じて、やがて「おかえりなさい、カトルくん」と、彼女ははっきりと口にした。その瞬間、ぼくは脳内で何かが切れたような感覚に襲われる。
 大きく一歩を踏み出して、団長さんの背に触れていた彼女の手首を掴む。声にならない悲鳴はその口から漏れることはなかったけれど、代わりにぼくの方が「少し彼女をお借りしますね」と、団長さんに告げた。余裕のない声音だったと、自分でも思う。
 団長さんの返事を待たずに、さんの手を引いていく。騎空艇内へと続くタラップを駆け上り、すれ違う団員の好奇の目を振り切り、ほとんど早足で自室へと向かう。その間もさんは状況を理解できていないらしく、「え、え?」と短い疑問符を只管に繰り返していたけれど、ぼくの部屋にほとんど強引に連れ込まれたときには、もう言葉もなかった。
 部屋に入って早々、さんの背後の扉に手をついて、鍵をかける。邪魔をされたらたまったものではない。万が一彼女が逃げようとしたときに、ちょっとした障害にもなるだろうし。
 扉とぼくに挟まれて身動きの取れなくなったさんは、鍵を閉められたことにすら気が付いていないようだった。



「お久しぶりです」

「お、ひさしぶり、です」



 ぼくの言葉にようやく状況を呑み込み始めたらしいさんは、至近距離で視線が合うことが耐えられないというように目線を逸らそうとする。そんな細やかな抵抗すらも面白くなくて、彼女の顎を掴んで正面を向かせた。



「ひ」



 怯えたような声を出させてしまったことは、反省する。
 連れ込んだは良いが、どう切り出すべきか、思案しているところに、ぼくよりも先にさんが言葉を発した。「この前は、ごめんなさい」というこの場にそぐわない類の謝罪に、ぼくは眉根を寄せる。



「は?」

「あ、あの、だって、迷惑だったでしょ、す、すき、だなんて言われて」

「……」

「い、一方的で、独り善がりで、そんなんだったら、私、黙ってればよかった、自分の気持ちなんか内緒にしてればって、ずっと反省してて」



 我慢していたのか、それとも話をしているうちにこみあげてくるものがあったのか。彼女はそう言いながら、ぼろりと涙をこぼした。体温はぼくのそれよりもずっと低いのに、体液は驚くほどに熱い。顎を掴んだままのぼくの指に垂れるその涙の熱に、言いようのない高揚を覚える。
 だから、それはほとんど突発的だった。



「ひあ」



 さんの頬を伝う涙を、舌で舐める。ぬるりとした感触は、自分のものなのか、彼女のものなのか。びくりと体を震わせた彼女の反応が面白くて、目の縁に浮かんでいたものまで舐めとった。
 驚いたらしい彼女が後頭部を扉にぶつける。がん、と音がしたけれど、これで逃げ場はなくなった。身体を密着させて瞼に唇を落とす。



「あ、え、あの」



 このまま噛みついてやりたい。そんな欲望が腹の奥から覗いたけれど、薄目を開ければ顔を赤くして混乱している様子のさんが視界に入る。だから、とりあえずはやめておいた。



「え、な、なに、なんで」



 訳が分からないと、その目が言っている。彼女の混乱は手に取るように伝わってきて、ぼくはなんだか、少しだけ苛ついた。それは彼女に対してではなくて、「黙っていればよかった」だなんて言葉を言わせてしまった自分自身に対してだったのかもしれない。



「ま、って、か、カトルくん、変だよ」

「変?」



 さんは両手でぼくの身体を押し返そうとするけれど、彼女の力ではほとんど意味を成さない。
 か弱いだけの少女の細腕、彼女を守り続けた家族は、もうどこにもいない。
 だからこそぼくは、だったら、と思うのだ。



「な、なんで、なんでこんなこと」

「……わからないんですか?」



 抵抗が無駄だと分かったのか、さんはぼくのマントのあたりをぎゅうと掴んだ。ああ、煩わしい、全て投げ捨てたい、自分を苦しめていた彼女との差異も、必要のない自尊心も、今だけで良いからなかったことにしてしまいたい。
 額同士を擦り合わせる。腕の中の彼女がびくりと大袈裟な反応をする。ぼくがたくさん傷をつけてしまった女の子に、ぼくは、もう間違ったことをしたくはない。
 息を吸ったら、びくりと彼女が目を閉じた。



さんが好きです」



 彼女が一瞬気を緩ませた隙を見逃さない。顎に添えていた手に力を入れて、僅かに上を向かせる。その双眸がまだ何も飲み込めていないというように丸くなっていた。半開きになった唇に自分のそれを押しつける。
 本当は、もっと優しいキスをしてやりたかったのに、情欲に負けて、ほとんど噛みつくような形になってしまった。「んむ」と色気のない声が彼女の唇の端から漏れて、笑ってしまいそうになる。息継ぎの暇も与えずに深く口づけると、閉じられた瞳にぎゅうと力が込められた。
 本当は舌の一つでも捻じ込んでやりたかったけど、という意味も込めて、彼女の柔らかな唇を丹念に舐めてから解放すると、涙で滲んだ瞳がぽかんとぼくを見上げていた。これでまだ理解できていないのだろうか。頬にかかった髪を、指で払ってやる。



「考えたんですけど」



 懇切丁寧に一から説明し始めようとするぼくに、彼女はまだ固まっていた。
 考えた、なんて前置きをしたけれど、厳密に言えば、ぼくに考えるきっかけを与えてくれたのは姉さんだ。だけど、今はそれを口にはしない。



「あなたといる時間が、ぼくは、嫌いではないんです」



 さんは、表情一つ動かすことなくぼくを見上げたままだ。



「他の人にやられたら許せないようなことでも、あなただったらまあ、許せないこともないですし」



 返事がないことが気にかかったけれど、今全てを打ち明けなければ、ぼくはきっとこういったことを二度と口にしない気がする。自分のことだからそれくらいは分かるのだ。



「それに……正直腹が立つんですよ、あなたが他の誰かの傍にいると」



 だけど、不意にさんは口を開いた。



「……もう一回」

「は?」

「いまの、もう一回、言ってください」



 突然何かと思ったら、さんは随分不可解なことを言う。話の腰を折られたようで不愉快ではあったけれど、こんな時くらいは要望に応えたかった。
 けれどぼくが「腹が立つんですよ?」と言うと、首を振る。「許せないこともないですし」と言うと、やっぱり違うと言う。「嫌いではないです」これにもだ。



「す、すきって」



 うんざりして目を細めたぼくに、蚊の鳴くような声でそう言うものだから「はあ?」と声を漏らす。どう考えても「今の」じゃないだろ、そう言いたかったけれど、期待に満ちた目でぼくを見つめる彼女の期待に応えるのは吝かではない。
 そう思ってしまう時点で、やっぱりぼくは彼女を特別だと思っているようなのだ。
 彼女の手を取って、ぼくは改めてさんの真っ黒な瞳を見つめる。睫毛に縁取られたその目は、少し突いただけで今にもまた涙が溢れそうなのに、同時にきらきらと輝いていた。その目線の先に自分がいるということは、やっぱり奇跡のことのように、ぼくは思うけれど。



「……好きです」



 改めて言えと言われると恥ずかしくて、ぼくの方が顔に出てやしないか心配になる。だけど、ぱあっと目を見開いたさんは何かを訴える様にぼくを見ていた。
 何となく彼女の要求を察して、「どうぞ」と軽く両手をあげると、彼女はほとんど体当たりするようにぼくの首に両腕を回して抱きついて、声にならない声で感情を露わにする。こんな愛情表現を受けることなんてなかったからこそ、本当に、なんでこんな自分と真逆の女の子を好きになったんだろうと、自省するように思うのだ。だけど、悪くない。



「私も、私も好きです、カトルくんが、すき」

「……知ってますよ」



 ほのかな胸の感触に、ぐ、と堪えながら、ぼくはそれでも、彼女をきちんと愛してやりたいなと思う。
 親の愛を知らずとも、他人を愛せる人生を、その幸せを教えてくれた彼女に、ぼくは心の底から感謝している。
 身体に腕を回して、抱きしめ返す。家族を奪われ、たった一人でこの世界にやってきた異界の少女は、こんなにも柔らかい。
 だったらぼくがあなたの家族になりましょうか。
 あの時トチ狂っていると思った言葉を、ぼくは、いつか口にすることができるのだろうか。
 答えはまだ、どこにもない。




リクシチュ「『なんか今日おかしいよ』『今のもう一回言って』」