食事中は、案外良く食べるんだなとか、美味しそうに食べる人だなとか、そう言ったことを考えていた。
 彼女はいつもより緊張していたようだったし、元より華奢な体躯をしていたから、ボリュームのあるランチを全部食べられるか怪しいと思っていたけれど、ぼくの分のデザートまで平気な顔で食べてしまったのだから人は見かけによらない。
 ティラミスを一口含んだ瞬間、子どものようにぱあっと目を見開いて、それからぎゅっと閉じた。こんなもの、食べ慣れているでしょう、あなたは。――なんて意地の悪いことを思ったはずなのに、そんな表情を見ただけで、羨望に似た憎悪の欠片があっという間に溶けてなくなる。それどころか顔が緩みそうになって、手で隠した。
 混迷を極めている。ぼくの脳は彼女に関する様々な物事を処理しきれない。
 彼女がぼくを避けるということの要因として、指輪に引き続き、あの依頼の一件が彼女の中で尾を引いていたことは想像に難くない。二人で閉じ込められたときのあれだ。



「あの、その、良かったらなんですけれど、お昼ご飯など、いかがかなと思いまして」



 だから彼女にそう声をかけられたとき、ぼくは少し面食らった。嬉しかったのだ。あれだけ避けておきながらどの口が。と思わないでもなかったのは当然として。
 都合の良いことに、今日引き受けていた依頼は先方の意向により取り下げられていて、丁度昼前からまるまる予定が空いたところだった。



「構いませんよ」



 二つ返事で頷いたぼくに、さんは驚きと安堵の混ざったような顔をしてみせた。
 そのときの彼女はいつもの普段着を着ていたくせに、いざ待ち合わせの時間になって現れたさんはぼくの見たことないワンピースに着替えていた。有体に言ってしまえば、丈の短い、目のやり場に困るものだ。さん本人は酷く所在なさげにしていて、しきりに裾の辺りを引っ張っていたから、彼女の本意ではなく誰かの入れ知恵であるように思えなくもなかったけれど。
 白く、全く鍛え抜かれていない太腿は、少女と女性のあわいにあるそれだ。
 なるべく視界に入れないようにしながら、このことには触れない方が賢明か、と判断し、ワンピースについて言及することを避けた。もしも本音が漏れようものならば、多分今日の食事は中止になる。それくらいえげつないことを、ぼくは考えてしまっている。
 団長さんだったら、どうなのだろう、素直に褒めるのだろうか。不意に心に浮かんだそんな疑問は、瞬時に脳内で殺す。
 代わりに当たり障りのない話をした。天気や温度の話に始まり、彼女の同室のコルワというエルーン女性の話を聞き、青空に浮かんだ雲がリスの形をしていることを口にした。そう言ったものを重ねていくうちに、彼女の表情は分かりやすく解れていった。
 だから食事を終える頃、さんの満たされたような顔を見て、ちょうど良いな、と思ったのだ。
 ちょうど良い。この日までほとんど無視されていたわけだし、大した話でもないから、別に言わなくても良いかと思っていたくらいだったのに、ぼくはどこかで機会を窺っていたようなのだ。浅ましい、そんな気持ちが腹の底をちらつく。彼女がぼくの言葉で表情を変える瞬間を、今か今かと待ち望んでいる。



「ぼくは明日、この騎空艇を降りる予定です」



 わざと意地の悪い言い方をした。
 期待通りと言っても良いくらい、彼女はわかりやすくぽかんと目と口を丸く開けて見せた。だけど、それに対峙したぼくの心に生じたそれは一体どういう感情だったのだろう。自分でも分からないのだ。優越感と侮蔑とが一緒くたになって、でも、その中に引き千切れそうなほどに引っ張られた一本の糸が混ざっている。その糸は、ぼくの身体の中にあったとは思えないほどに淡い色をしている。
 ぼくはどうにか微笑んだ。安心させるためだった。ほんの少しでも、動揺してくれた。その事実だけがかさかさになった心臓の表面をぬるく撫でていく。さんは混乱を隠さない。いや、隠せないのだ。そういうところが、ぼくには酷く縁遠い。



「え、えっと、え? 降りる?」

「はい」

「明日?」

「ええ、予定では」

「え、ええ、ちょっと待って」



 さんは目線を彷徨わせる。その「ちょっと待って」はぼくへの言葉か、それとも自分の思考へのものなのか。氷ばかり残ったアイスカフェラテのグラスの中身を無意味にストローでかき混ぜ続ける彼女は目に見えて狼狽している。
 さて、この後さんはどうするのだろう。
 敢えて騙すような言い方をしたが、そもそも降りると言っても、期限付きだ。姉がいるとはいえ長く不在にしてしまった星屑の街の様子を見に戻る。そのための一時的なもので、永久ではない。「ほんの一週間程度ですよ」と早々にネタ晴らしをしてもいいところだけれど、さんの動揺っぷりは見ていて面白いな。と、勝手にあがる口角を隠すために俯いた。その時だった。



「……やだ……」

「はい?」



 彼女の唇から漏れたか細い声は、けれど、きちんとぼくに届いた。
 思わず目線をあげる。先ほどまでの、驚きで全て真っ新になってしまった表情も、その後の狼狽えるような仕草も殺して、彼女はただ、身を乗り出した。テーブルにあったぼくの手を、躊躇うことなく掴む。その冷たい感触にどきりとする。



「いやだ」



 もう一度、彼女ははっきりと口にした。ぼくの瞳をじっと見て。彼女の黒い眼球の中に、驚きのあまりに表情を硬くしたぼくがいる。



「いや、嫌です。わ、私、カトルくんが降りちゃうの、やだ、それも明日なんて、だって、だって、私」



 落ち着いてください、言いたくても、声が出ない。短く切りそろえられた彼女の爪が、それでも皮膚に刺さる。大きな瞳はぼくのことを真剣に見つめている。段々と早口になる言葉の最後に、紛らわすように吐き出された、その言葉が。



「私、カトルくんのことが、好きなのに」



 ぼくが息を飲むのと、口走ってしまった言葉の内容を自覚した彼女が目を見開くのとではどっちが先だったのだろう。
 ぼくの手を掴む力が、ゆるゆると解けていくのが分かる。さんの顔は、耳まで赤く染まっていた。
 ぼくたちエルーンのものとは明らかに違う、顔の横にある丸い形をした耳朶は、きっと歯を立てれば呆気なく血が滲む。腕力があるわけでも、目を見張るほどの特技を持っているわけでもない、あまりにも平凡な女の子だ、改めてそう思う。だけどぼくの持ち得なかったものを、この子は確かにその両腕に抱えていた。
 なのに、ぼくを好きだと、彼女は確かにそう言ったのだ。
 察していたところがないわけではなかった。好意を持たれていること自体は自覚していなかったといえば嘘になる。恋慕でなかったとしても、それに近いものではあるだろうと。
 だけど、ではぼくは彼女に一体何を与えることができるだろう。家族や仲間から愛された彼女を、愛すること。彼女の気持ちに応えること。それはぼくには荷が重いことのように思えてならない。だってぼくはそもそも愛のなんたるかを知らないのだ。
 この痛ましいほどの純真無垢をぼくは、ぼくの傍に置いていいのか?
 何も返事をしようとしないぼくに、さんは、窺うような目線を寄越した。答えようがなかった。聞かなかったふりをするしかなかった。
 ぼくは彼女の思いには応えない。その結論は、とうに出ていたはずだった。
 ぼくの手の甲に触れる彼女の指先をさりげなく解いて「大丈夫ですよ」と、淡い笑みを張り付ける。半年前のぼくが、かつての彼女にしていたもののように。



「星屑の街の様子を見てくるだけで、一週間程度で戻ってきますから」



 何が大丈夫だ。
 さんは一瞬だけ目を見開いた後、まるで物わかりの良い子どものように、ぼくの意図を汲んだ。彼女は吐き気がするほどぎこちない、下手くそな作り笑いを浮かべて、小さく頷いたのだった。








 翌日、彼女はいつもの着丈のワンピースを身に着けて、星屑の街近くに停泊したグランサイファーの外までぼくを見送った。団長さんの隣に立って、顔を強張らせたまま。別れの言葉を一つも口にはしなかった。



「じゃあ一週間後の同じ時間に迎えに来るから。子供たちやお姉さんにもよろしく」

「ええ。お手数かけますが、よろしくお願いします」



 何も知らない団長さんにそう言いながら、ちらりとさんを見る。目が合った瞬間、慌てた様子で逸らされた。そうさせたのは自分のはずなのに、何故だか胸がじくりと音を立てる。
 ぼくの不在の一週間、彼女は一体どんな日々を過ごすのだろう。団長さんが見ていてくれるだろうから、安心か。
 僅かに腫れた目元が、昨夜の彼女の何もかもを物語る。分かっているのにぼくは彼女に何も言えない。「カトルくんのことが、好きなのに」あの声が耳にこびりついて離れない、今も。



「それでは」



 ぼくが彼らに背を向けても、さんは何も言わないままだった。








 星屑の街のことについては多少の心配はしていたけれど、そこまで気がかりに思っていたわけではない。
 ぼくは姉さんや街の子どもたちのことを信頼している。頼るのは不本意だけれど、いざとなれば頭目も力を貸してくれるから。とは言え街を束ねる双子の片割れの不在が長く続くのはマフィアたちの支配欲を助長させることになりかねないから、牽制のためにも、これからも定期的に戻らなければならないだろう。勿論、それ以上に皆の顔が見たいというのもあるのだけど。
 戻って早々、露天を商っていた子どもたちからの歓迎を受ける。何人かはぼくの足にしがみついてなかなか離れなかった。カトル、とぼくの名を嬉しそうに呼ぶ皆の頭を撫でて、変わりはなかったと言う言葉に安堵する。年長の子どもは特に気を張ってくれていたのだろう。屈んで目線を合わせ礼を言うと、その目に光を宿らせて強く頷いた。
 この子たちは強い。
 親からの愛を知らずとも、ここでは皆が兄妹で、家族だ。誰かが病気になれば全員で看病し、幼い子どもたちだけで対処できないような不測の事態でも力を合わせて乗り越える。
 ぼくが団長さんたちについていくことを決意できたのも、姉さんや子どもたちがその背を押してくれたからだ。団長さんの力の源が知りたいだなんていう、曖昧な理由だったけれど、それでも彼らはぼくを送り出してくれた。



「特に問題はなかったよ。マフィアの連中が因縁つけてくることは何回かあったけれど……どれも、大事には至ってない」

「そう。……それなら良かった」



 その日の夕食は、普段の星屑の街の子どもたちが食べているものよりも少しだけ豪勢だった。ぼくのためだろう。大きく切られた芋は、けれど隣に座った年少の子にあげた。向けられた笑顔が眩しかった。
 夜も更けて、それぞれのねぐらに子どもたちが戻るのを見送ってから、ぼくはようやく姉さんと二人きりになった。子どもたちの言う通り、特に目立った事件は起こらなかったのだろう。数か月前と変わらないその姿に、ぼくは確かに安堵する。
 姉さんが淹れてくれた、何の香りもないお茶を飲みながら、ぼくはそれでも平生を装えているはずだと思っていた。ぼくは姉さんの話に頷きながら、目を伏せる。だけど、姉さんの前で隠し事をするなんて不可能な話だったのだ。
 だってぼくたちは、産まれる前から一緒に居たのだから。



「……カトルの方は、何があったの?」



 何かあったのか、ではなく、何が、と。姉さんはそうぼくに尋ねた。
 向かい合って座る姉さんには、ほとんど表情らしい表情はない。濃い化粧の施された瞳は、従来の姉さんの優しげな面影を全て食い尽くしていて、だからこそその背に乗せられた重圧をぼくは思い知る。
 屈託なく笑うあの少女とは真逆に位置するのが、恐らくこの姉だ。ならば、姉さんと共に育ったぼくだって、変わらない。
 ぼくとあの子は交わらないのだ。



「別に、何も」

「……本当に?」



 一度はそう言った。だけど、最後には姉さんの圧力に屈することになる。隠し事は無意味だ、そう知っていたからこそ、僕は息を吐いた。
 何と言えば良いか、言葉を選んで、上手く説明したかったのに、結局ぼくはありのままを告げてしまう。



「……好きだと、言われたんだ」



 姉さんは一瞬だけ、その瞳を見開く。



「……すき? 女の子に?」



 姉さんがそんな当たり前のことを口にしてしまうのは、こういった話をお互いしてこなかったためだろうか。頷いたぼくに、姉さんは何度か曖昧に頷いた。



「どんな子なの……?」

「どんな、って言われても……」



 改めて、さんのことを脳裏に浮かべる。
 喜怒哀楽がはっきりしていて、直情的に行動する人だ。素直なのは良いことだけれど、あれでは騙されることも多いだろう。人を疑うことを知らなくて、平気で他人を懐に入れる。思い込んだら頑固なところがあって、変な行動力もあるからこそ手に負えない。だってまさか、手紙を一つ残しただけで騎空艇を降りて姿を消してしまうなんて、想像もしていなかったのだ。
 人の役に立ちたがって、考えていることが顔に出やすい、あんなに分かりやすい女の子は、きっとそうそういない。
 知らないうちに唇が緩んでしまっていたことに気が付いたのは、姉さんがぼくのことを優しい目で見ていたからだ。口元を手で覆いながら、ぼくはさりげなく目を逸らす。



「……変わった子だよ。大体、ぼくのことを好きだって言う時点でそうだろう?」

「……そうかな? 私は、嬉しいけど……」

「は? 嬉しい?」



 どうして。そう目で訴えるぼくに、姉さんは目を伏せる。
 大きな木を切って作ったダイニングテーブルは、グランサイファーにあるものと比べると恐ろしいほどに安っぽい。ところどころ落書きがされていて、表面はざらついているし、運が悪ければささくれの部分が皮膚に刺さってしまう。だけどそこに躊躇なく肘をついた姉は、「ん、嬉しいよ」ともう一度、低く囁いた。



「だって、その子がカトルの良いところをたくさん見つけてくれたってことでしょう?」



 姉さんの言葉に、ぼくは一瞬だけ息を飲む。
 それでもすぐに顔を出すのは、負い目に似た何かだ。この問題は根深い。



「でも、価値観もまるで違う。生まれも育ちも、種族だって。ぼくたちとは何もかも」



 そもそも彼女はこの世界の人間ですらない。その言葉だけは飲み込んだ。そもそもどうして彼女はぼくを好きだと言ったのか、ぼくはそれが理解できないのだ。
 どうしてぼくに近づくのか。ぼくの耳に触れて、指輪を抜こうと必死になって、ぼくの身体の下で真っ赤にした顔を隠して、一緒に食事に行って、お洒落なんかして、ぼくの一挙一動にいちいち惑わされて。彼女の所作一つ一つがぼくへの好意を示していることをぼくは分かっていたけれど、でも、それでも、どうしてという思いが拭えない。
 だってぼくはあの時、彼女を傷つけた。そうする必要なんかなかったにもかかわらず。



「……でも」



 姉さんは、ぼくが言葉を終えるのを待ってから、静かに口を開いた。



「……色んなものが違うのは、当たり前のことだし、そういう、私たちとは違う誰かに愛されるっていうのは、素敵なことなんじゃないかな」

「……素敵?」



 彼女は、ぼく達から見たら全てを持っていた。
 例え手放さざるを得なかったとはいえ、初めから持たない者と、失った者とでは、恐らく根の部分では噛みあわない。



「ん。カトルは、迷惑なの? 嬉しくない? その子と一緒に居て、楽しくない?」



 ぼくは彼女を傷つけて、それに対する贖罪を一つもしてはいない。それでも、別に構わなかったのだ、自分とは関係がない人間に対してなら。
 だけどぼくはこうして色んなことに引っ掛かりを覚えて、彼女を目で追って、振り回される。噛みつきたくて、この手で彼女の表情を変えたくて、支配したくて、ぼくのために感情を動かすあの子をぼくの傍に置いておきたくて、他の男の隣を歩いている姿を想像するだけで、喉が焼き切れそうになった。
 ぼくはあの狭苦しい箱の中で、ぼくの身体の下で震えていた彼女に、確かに劣情を抱いていた。あの小さな冷たい手に、いつまでも触れていたかったのだ。
 一挙一動に振り回されているのは、ぼくも同じだ。



「…………」



 姉さんの選ぶ言葉は、いつもぼくの核心をついてしまう。
 返事をしていないのに、姉さんはぼくの表情から内心を汲み取ったのだろう。薄く微笑むと、小さく首を傾げてみせた。幼い頃から変わらない、姉さんの笑顔だった。
 ぼくはそれと同じくらい、あの女の子の笑った顔が好きらしい。



「それが答えなんじゃないかなって、私は思うけど」



 その言葉に、低く唸りながら、片手で頭を掻き毟った。どれくらいそうしていただろう。ぼくの中に浮かんだ言葉は、たった一つだった。



「……ああ、もう、わかった、わかったよ」



 もう、認めるから。そう口走ったぼくに、姉は小さく微笑む。
 今からでも遅くはないのだろうか。いや、今じゃない、一週間後だ。グランサイファーに戻ったときに、さんはまたぼくの前に立ってくれるのか。それは分からない。もうあの瞳は乾いているだろうし、彼女の中では終わったこととして処理されてしまっているかもしれない。今更勝手だと責められるかもしれない。
 だけどそれでももう一度だけ、その手に触れることを許してはもらえないだろうか。
 やっぱりあなたが好きだなんて、酷い告白だとあなたは怒るかもしれないけれど。



「いつか、紹介してほしいな」



 返事の代わりに息を吐く。そう言う姉さんに、ぼくはまだ返事もできない。




リクシチュ「エッセルに紹介」(できてない)