私は相変わらずカトルくんから逃げる日々を送っている。
 グランサイファー内ですれ違いそうになれば遠回りをしてやりすごして、雑務に追われるふりをする。彼がグランくんたちと共に依頼から帰ってくれば、私はグランくんにだけしっかり目を合わせて「おかえりなさい」と不自然なくらいに強張った声で告げる。カトルくんの、指輪の嵌った薬指やその薄い唇を視界の端に止めておくだけでも、最近の私は平生ではいられなくなってしまう。
 グランくんが私の挙動に違和感を覚えるのは当たり前で、例のノートには「何かあった?」と添えられていたけれど、私はあの出来事を文章化して人に伝えることにちょっとした逡巡を覚えてしまって、仔細を伏せたままに「ちょっとだけ」と記した。
 何がちょっとだ。私はこの気取った文章をぐちゃぐちゃに塗りつぶして今すぐにでも訴えたい。本当は書き殴りたい。カトルくんを意識しすぎて死にそうだ、って。
 出会ったときから特別だった彼とこうして同じ騎空艇に乗って共に生活をするということを、今まで必死になって意識しないようにしてきた。
 だけど私は、本当はもっと声をかけたかった。カトルくんにから揚げを一個多く配膳したかったし、無駄に彼の部屋の前を歩いたりしてみたかった。良かったら一緒に出掛けないかと声をかけることだって。でも全部我慢したのだ。何もかもを全部飲み下して普段通りに振舞わなければ、私の思いなんてきっと彼に一瞬で伝わってしまう。迷惑だ、なんて言われたら、私は今度こそこの騎空艇には乗っていられない。
 だって私のこれは恋なのだ。
 嘗ての私は彼にとって多少の利用価値があって、だから優しくされていただけに過ぎない。そんなことにも気付かずに浮かれていた私は今、丁寧に丸めて作り上げた、恋という名前の美しい球体を後生大事に抱えてお腹の中に隠している。
 上手く隠せていると思ったのに、最近ではそれが膨張して形を変えてしまっているのだ。私のこれは、ただの好意のはずだった。グランくんたちに向けるそれと少し色が違っていただけの。なのに、気がつけば私は彼に侵食されてしまっている。ふとした瞬間に唇の端から「好き」と漏らしてしまいそうで、もう耐えられそうもない。
 カトルくんを困らせることだけはしたくなかったのだ。








 依頼を受けて製作していた衣装が完成間近ということで、最近のコルワさんは部屋に籠りきりになっていた。
 部屋のものを勝手に弄らないことを約束している私は、ほとんどベッドの周辺だけを自分のスペースにしていたけれど、彼女のように個室でなければできない仕事を請け負っているわけではないので特別問題はない。ベッドと、ノートを書くためのテーブル。それがあれば、今の私はどこでだって生活できる気がする。
 陽はとうに落ちて、もう眠るだけだった。髪の毛を梳かしていると、御留守になった左手が目に入る。指輪を抜こうと躍起になっていた夜、カトルくんに指を絡められたことが不意に蘇って、叫び出したい気持ちになった。ぐっと唇を噛んで耐えれば、今度はあの依頼の最中、事故で閉じ込められた箱の中で、彼の息が耳に直にかかったことを思い出す。もしも一人部屋だったら、声にならない声で叫んでしまっていただろう。
 コルワさん、と名前を呼びかけたけど、コ、のあたりでやめたのに、最後の仕上げをしていたコルワさんは「呼んだ? ちゃん」と返事をしてくれたので、ちょっとびっくりした。集中している彼女は自分の世界にのめり込むことが多々あって、そういうときは声をかけても気付いてもらえないのだ。



「ちょっと待ってね、もうすぐ…………。よし、できたわ!」

「わ、お疲れ様です。どんなのですか?」

「ふふ、見てもらえる?」

「あっすごい、可愛い……きれいなドレス……!」



 少し大人っぽいロング丈のドレスは背中のあたりが大きく開いていて、一目見ただけでエルーン向けのものだと分かる。エルーン族は体温が人より高いとカトルくんは言っていたか。実際ドレスをクローゼットにかけているコルワさんの白い背中も剥き出しで、見慣れているはずなのに、その肩甲骨の形にどきりとしてしまった。



「ふふふ、ちゃんにもまた作ってあげるわね。丁度これで一区切りついたし。ワンピースで良いかしら?」

「え、嬉しい! うん、ワンピースがいいです!」

「了解。とびっきり可愛いの作っちゃうわ。で? なあに? さっき呼んだわよね?」

「えっ? え~と、な、んでもない」

「ええ~?」



 何でもなくはないでしょ、と、ドレスを片付けたコルワさんは私のベッドの端に腰を下ろす。しなやかな身体、色素の薄いさらさらの髪、瞳はぱっちりとしていて、睫毛がびっくりするくらい長い。コルワさんは本当に、きれいだ。
 私がグランサイファーにやって来たときからこの騎空団の団員として活動しているコルワさんは、私にとってお姉さん同然で、今までもいろんなことを相談してきた。
 どうしても苦手な食べ物があるとか、この文章の意味がわからないとか、冷え性で足だけが冷えるとか、本当に些細なことだ。だけどその度にコルワさんは親身になってくれたし、あまり嵩張らない毛糸のパンツや靴下まで作ってくれた。
 鞄も、ワンピースも、寝間着にしているショートパンツも、全部コルワさんが厚意でプレゼントしてくれたものだ。私はコルワさんに頭が上がらないし、人生経験豊富な彼女のことを尊敬している。



「なになに~? 言っちゃいなさいよ」



 そう言って微笑むコルワさんの耳を、私はじっと見た。柔らかな毛で覆われた、薄い耳、大きく開いたむき出しの背中。特徴と言えばそれくらいで、私は実を言うと、角の生えたドラフや身体の小さなハーヴィンほど、エルーンと自分に差異があるようには思っていなかった。だけど、やっぱりそれは表面的なものなのだろう。
 きっと、二つの種族には明確な差があるはずなのだ。私が知らないだけで。



「そ、その……エルーンと人間って結婚できるんですか?」



 気が付いたら口走っていたその言葉に、多分一番びっくりしたのは私だ。
 結婚?
 それは飛ばしすぎじゃない?
 コルワさんの瞳が丸くなって、私は自分の口にした言葉があまりにも突拍子のないものだったことを思い知る。



「えっ結婚したいの? 誰? 相手は誰?」

「あ、ちがう、まって、私じゃなくって、普通に疑問だっただけ」



 コルワさんにとって、私は未だ記憶を失ったヒューマン族の女の子だ。だから、この質問それ自体は何もおかしなものではない、だけど、結婚って。私は何を考えているんだろう。
 カトルくんが好きで、これは間違いなく恋で、だからこそどう接したら良いのか分からない。そんな悩みを抱えていたはずなのに、結婚って五歩くらい飛んでしまってはいないだろうか。



「なぁんだ」



 と残念そうに引き下がるコルワさんとは対照的に、顔が熱くなっていくのが分かる。私は分かりやすく狼狽している。だけどコルワさんは「うーん」と首を傾げた。笑い飛ばすことを、彼女はしなかった。言葉を選ぶように目線を逸らしてから、口を開く。



「まあ異種族間の結婚それ自体は、多くはないけど、あるにはあるわよ」

「えっ」

「ええ、でも」



 意外な返答につい光明を感じてしまったけれど、コルワさんは続けた。



「結構大変ではあると思うわね。色々、ほら、違うじゃない?」



 含みのある言い方だ。だけど、色々、と言われて思いつくことが私にはあまりない。それが少しだけ、申し訳なく思えた。



「違う……耳とか、体温とか?」

「ええ、そう」



 頷いたコルワさんが、私の手を取る。心臓が止まりかけたのは、先日のカトルくんを思い出してしまったからだ。あの時のカトルくんの手の平の熱は、びっくりしすぎてもうほとんど感じている余裕なんてなかったけれど、コルワさんの体温は良く分かる。
 しっとりとしたコルワさんの手は、私のそれよりも明らかに熱い。「だいぶ違うでしょう?」と首を傾げられ、小さく頷く。



「まあ、体温とか耳とかだけじゃなくて勿論他にも問題はあるわけだけど……」



 他にも、その言葉が引っかかって、具体的な話を聞こうとするけれど、一歩遅かった。コルワさんに火が付いてしまったらしい。



「壊してこその障害よ」



 細められた彼女の瞳の奥は、強く光っている。



「そういう障害を乗り越えてこそのハッピーエンドじゃない? 私としてはそういう恋愛も大いにありだとは思うのよ。楽な方楽な方に流されてばかりじゃなくて敢えて荊の道を突き進むっていうのはパッションがなきゃできないわけでしょ? 荒波に揉まれて、価値観や体質の相違を乗り越えて得られる真実の愛……!」

「真実の愛……?」

「そうよだって究極の愛でしょ? 種族間の壁なんて愛の前ではほっそい、ほっそいアイスの棒みたいなものよ! ちゃんの指ですら真っ二つに折れるわ。できるわよね? 例え周りになんと言われようと、どう思われようと、好きになったものは仕方ないじゃない! ちゃん、あなたの愛って体温の差くらいで消えてなくなるものじゃないでしょう!」

「……なくならないです……」

「そう! そうなのよ! そういうことなの! だからちゃんはそんな些末な問題なんて蹴とばして、胸を張って好きって言っていればいいの! 結婚だって勿論できるわよ! ドレスは私が何着でも作るし、もしも二人の恋路を邪魔するやつがいるなら私がとっちめるわ!」

「コ、コルワさん……!」



 ベッドの上で暫しの間見つめ合った後、コルワさんと熱く抱き合う。なるほど彼女の肉付きの薄い背中は確かに体温が高くて、顔を寄せても私の耳と彼女のそれは触れ合わない。抱き合いながらも種族間の差異というものを明確に感じてしまう。
 だけど、それが一体何だと言うのだろう。とくとくと脈打つコルワさんと、私の一体何が違うのか。例え体温だけでなくて、他にも問題があろうとなかろうと、それこそ好きになったものは仕方がない、だ。胸を張っていれば良い、そう、私はやっぱり彼が好きなのだ。あの目も、髪も、声も、素っ気ないところも、実は、優しいところも。
 私が彼に抱いた特別は、「恋」だった。



「で」



 私の両肩に手を添えて、そっと身体を放したコルワさんは、小さく首を傾げて「相手はあの十天衆の子ね?」と言うものだから、私は十秒ほど黙り込んだ後、とうとう頷かざるを得なかった。








「今まで散々無視しておいて、突然食事のお誘いですか」

「む、無視……はしてなくないですか?」

「は? してただろうが」

「す、すみません、無視はしたつもりないんですけど、避けてました。ごめんなさい……」



 コルワさんの仕立ててくれた新しいワンピースは、いつものものよりも丈が少し短い。ちょっと動いたら下着が見えてしまうんじゃないか、と不安になって、ショートパンツを履こうとしたらデザイナー兼スタイリストはそれを止めた。



「ダメよそれじゃあダメダメダメ絶対ダメ脚は見せて」



 だそうで、私は仕方なく、ほとんど腿が剥き出しになったワンピースを着て彼の隣を歩いている。
 食事のお誘い、というのも、人生の大先輩であるコルワさんの案だ。



「ハッピーエンドへの正規ルートを一緒に構築しましょうね!」



 そう言葉をかけてもらって、あんなに心強く思ったはずなのに、ワンピースの布地部分の面積に比例して私の勇気は萎びていく。歩く度にいちいち視界に映るふにふにの脂肪がつらい。しかもカトルくんからはワンピースについてのコメントが一切なかった。
 別に、服装の雰囲気が違うことを言葉にしてほしいと思ったわけではない。勿論褒められたら嬉しいし、普段との差に気が付いてそれを言語化してくれれば心の日記にしたためる。だけど、もう恥ずかしさの方が勝っているのだ。
 そもそも、隣を歩くことすら億劫だった。本当は顔を覆ってしまいたかったけれど、そんなことはしない。今日は逃げないと約束してきたのだから。
 顔をあげて前を見て歩く。視界の端に映る藤色の髪の彼は、私に歩幅を合わせてくれているらしい。そんな気遣いすらも、たまらなく嬉しかった。








 コルワさんが予約しておいてくれたお店は、オシャレなカフェだった。席についているのは若い女性同士やカップルばかりで、案内された窓際の席にはテーブルの隅に一輪挿しが飾られている。大きな窓からは通りが良く見えて、通行人の、ほとんど同年代と思われる少年と目が合ってしまった。
 そわそわと周囲を見回す私の向かいで、カトルくんは伏し目がちにメニューを眺めている。その姿にすら胸が締め付けられる。
 これって、もうデートじゃない?
 目が合いそうになって、咄嗟に視線を外す。
 視線が合ったものならそれだけで「好き」と言ってしまいそうで怖い。彼への恋情を認めてしまった日から、日に日にカトルくんへの思いが増していく。この感情が全部別の欲に取って代わってしまったら、いろんなものが呆気なく壊れてしまう。それくらい、今の私は彼への恋心で構成されていると自覚している。
 ウェイトレスのお姉さんに注文をして、それからいくつかの他愛もない話をした。彼の世間話に応じることができるくらいには、私は何とか、この感情に膜を張って鈍化させることができていた。だけど、カトルくんは、私のことをどう思っているのだろうかという思いがどうしてもちらつく。嫌われていないなら、それで良いのだけど。
 頼んだランチは値段の割にしっかりしていて、大きな丸いお皿にサラダや前菜のマリネ、生ハムの乗ったフォカッチャが綺麗に並んでいた。メインのパスタ二種類のうち、カトルくんも私もベーコンのトマトクリームを選んだ。
 盛り方も重要だとローアインさんが言っていたけれど、見た目もきらきらして、きれいだった。カトルくんの食べ方はあんまりにも綺麗で私は気後れしていたけれど、緊張が空腹に形を変えたらしい。ぺろりと平らげた私にカトルくんはちょっと笑って、自分の分のデザートを分けてくれた。それすらも恐縮しながら食べてしまった。自分でもどうかと思う。



「……良く食べますね」

「すごく美味しいんですもん……! 食べちゃいますよ……」



 心臓が飛び出そうなほど緊張していたけれど、食事をしていたらようやくいつもの感覚が戻ってきた気がする。向かい合っていたのがもしもグランくんやルリアちゃんだっていうなら、最初から全力で楽しめただろうけれど。でも、カトルくんは、いつもより数倍は柔らかな目で私のことを見ていた。
 突然食事の誘いなんてして、迷惑かもしれない、断られるかもしれない、なんて怯えていたけれど、コルワさんの言うように「案ずるより産むが易し」だ。断られたら断られたときに泣けばいいし、想像だけで怯んで動けなくなってしまうのは確かに勿体ない。
 実際カトルくんは突然の誘いにも迷惑がる様子もなく頷いてくれた。デート、と思っているのは私だけかもしれないけれど、それでも初めてのお食事だと思えば及第点、いや、それ以上だ。食べ過ぎた、という点は置いておいて。
 コルワさんにはいい報告ができそうだと、食後のアイスカフェラテを飲みながら、安堵の息を漏らしたときだった。「今日は誘ってもらえてよかった」って、不意にカトルくんが口を開いたのは。



「話したいことがあったんです」



 私はきっと、間の抜けた顔で彼のことを見つめていただろう。



「あなたには言っていませんでしたが」



 ここ数週間、私はすっかり彼を避けていた。それは、どうしたって彼を意識してしまうからで、二人きりになれば上手く笑うことすらもできそうにないと思っていたから。
 カトルくんの瞳は、こんな話をしているときでも恐ろしいほどに真っ直ぐで、美しい。



「ぼくは明日、この騎空艇を降りる予定です」



 だから、もしかしたらこれは罰なのかもしれない。




リクシチュ「いっぱい食べる君が好き」