俯いたままの彼女の表情はぼくの位置からでは読み取れず、だからこそ余計にこの指先の感触が際立つ。細い指は時折、件の対象物ではなくぼくの皮膚そのものに触れたり引っかかったり忙しなく、その度に彼女は焦ったような呻き声をその唇の端から漏らした。不意に、指の関節に走った鋭い痛みに思わず舌打ちをする。殊更大袈裟に反応してみせた彼女は目を見開いて顔をあげた。
「あ、あ、ごめんなさい、痛かった?」
「痛いのは初めからなので、大丈夫です」
「ひ……すみません……」
ぼくの顔を指とを交互に見比べるさんは、何故だかほとんど泣きそうな顔をしている。まあ、それも当たり前か。これでふてぶてしく開き直られたものなら、彼女の退路を断つくらいはしただろう。
湯上り後だったはずのさんの肌はいつの間にかすっかり白くなっていて、冷えてしまったのじゃないかとちらりと思う。掛け時計に目線を投げると、彼女がぼくの部屋にやってきてからとうに三十分が経っていた。実感した途端に煩わしさを覚えるけれど、懸命にぼくの指からそれを引き抜こうとしている彼女を見ると、声をかけるのも憚られた。
指輪はまだ、外れそうもない。
さんがぼくの部屋をノックしたのは、今夜不在の団長さんに使いを頼まれたから、らしい。
本当は日中に訪ねるつもりだったんだけど、と前置きした彼女は、廊下から小さな紙袋をぼくに差し出した。すっかり陽の落ちた騎空艇内は薄暗かったけれど、それでも彼女の髪がしっとりと濡れていることや、石鹸の匂いが漂っていることから、彼女が今の今まで浴場に居たことが分かる。
何となくそのまま帰すのは惜しい気がして、ぼくは「これは?」と延命を図ったわけだけれど、彼女はアホ面で「さあ」と会話を終わらせやがった。その腕の中には同じ紙袋がもう一つ抱えられていて、目線だけで尋ねると、さんは「これはランスロットさんのですね」と大真面目に答えるものだから、頭が痛い。
「……これから行くつもりですか?」
「はい、ダッシュで」
「やめておいた方が賢明では。もう夜ですし」
「え、でもまだ八時過ぎ……ですよね?」
身を乗り出して室内の掛け時計を確認しようとする彼女の腕を掴んで部屋に引きずり込む。「ぎゃ」と短い、色気のない悲鳴を彼女があげた瞬間、ぼくの心配は恐らく杞憂だったのだろうなと思わないでもなかったけれど、それでもいつもより肌を上気させていた彼女の、石鹸の香りに、ほんの一瞬だけ眩暈がした。繰り返すが、一瞬だけ。
彼女が逃げ出さないように部屋の扉を閉めると、自分自身の背中でそれを押さえる。
「何するんですか」
「ぼくは中身の分からないものを受け取る人間ではないので」
「ええ~? 仲間からのものでもですか?」
「はい、勿論。なのであなたが開けてください」
「……開けるだけ?」
「ものによっては、『だけ』では済まないかもしれませんが」
「こ、こわぁ……」
ぼくの詭弁にすっかり惑わされたさんは、唇を尖らせながら他の人にあげる分の紙袋を一度テーブルに置く。そのサイズからして明らかに小物の類であることは想像ついたけれど、何にしろ彼女を使うことが気に食わない。団長さんのことだから、他に思惑があるのは間違いないが。
つい先日、面と向かって「をよろしくね」と言った彼の微笑が不意に網膜に浮かんで、ぼくはすっかり辟易する。
よろしくも何も、ぼくは彼女の身内でもなければ、特別な関係であるわけでもない。彼が何を勘違いしているのかは知らないが、彼女を庇護するのはむしろ先に彼女を拾った団長さんの方であるはずで、正直よろしくと言われても迷惑だ。
まとまりのつかない思考は、しかし彼女の「あっ」と言う声で断ち切られた。紙袋の中から取り出した小さな箱はそれなりに重厚だったけれど、その中に入っていたのは指輪だったらしい。見せびらかすようにぼくに向けて掲げてみせた彼女は、どこかほっとしたように微笑んだ。
「指輪です!」
「指輪ですね」
「これは見たことがあります。魔力が込められていて、嵌めるとその人の潜在なんとかが顕れるんですよね。コルワさんもこの前もらってました」
「……潜在なんとか……ひょっとして潜在能力のことですか?」
「それです、潜在能力。なので危ないものではないです。良かった~! では、私はこれで」
「だぁから」
ソファから立ちあがっていそいそと部屋を出ようとした彼女を、ついいつもの癖で脚を壁について制止してしまった。ダン、と派手な音を立てたぼくの靴にびくりと肩を震わせた彼女は、「ま、まだなにか」と怯えた小動物のような目を向けるので、面白くないな、と思ってしまう。
面白くない。だって、彼女がこんな表情を見せるのはぼくにだけだ。
「まだ行っていいとは言ってませんよね」
凄んだつもりはないのに、彼女は縮こまったまま「はい……」と蚊の鳴くような声で呟いた。
顎で「座ってもらえます?」とソファを示すと、さんは素直にもう一度腰を下ろす。剥き出しの肩に張り付いた湿った長い髪から目を逸らしながら、ぼくも隣に腰掛けた。びくりと身体を震わせた彼女に、自然と口元に浮かんだ笑みを殺す。やっと身の危険を感じたのだろうか、遅すぎる気がしないでもないけれど。あまりにも無防備すぎて、取って食う気も起きない。
それにしても、少し脅かしすぎてしまっただろうか。見ているだけで気の毒なくらいに小さくなる彼女の気を紛らわすため、話をそらした。
「それ、あなたが嵌めたらどうなるんですかね」
「ええ、私……? あっ、どうしよう作る料理が全て五つ星級になったら……ん、でもスタイルとかはちゃめちゃに良くなるかもしれない……?」
「……」
「た、ただの願望じゃないですか、そんな目で見なくても……」
自分で言っておきながら恥ずかしくなったのだろうか。彼女は指先で弄っていた指輪を「それにそもそも私のじゃないって言ってるじゃないですか!」と言いながら隣に座るぼくの手を取って、嵌めた。
ぐ、と関節の押し込まれた指輪はぼくの指をそれなりの強さで締め付けるから、思わず息を止める。そのときにはさんも異変に気が付いたらしい「あ」と短い声をあげて、ぼくの中指の、関節を過ぎたあたりで止まった指輪とぼくの顔を交互に見比べた。
「……もしかして、きつい、ですか?」
そして冒頭に至る。
「ふぐぐぐぐ、ぬ、け、な」
さんの手はぼくのそれよりも体温が低い。ひんやりとした指先が、関節で引っかかる指輪を抜こうとぼくの皮膚に触れるたびに、くすぐったいような、煩わしいような感覚に陥ってしまう。
時間だけが経つ一方で、しかし進捗としてはゼロに等しいと言っていいだろう。ここに来たばかりのときはほんのりと湿っていたはずの髪の毛は今やほとんど乾いて、代わりにキャミソールから出た肩が色を失っていた。
冷えてしまったのか、時折鼻を啜る彼女を見かねて、ぼくは一度指輪を抜こうとする彼女を制止すると、自分が羽織っていたマントを脱ぐ。
「わ」
彼女の唇から漏れたその短い悲鳴が一体何を示すものなのかは知らないが、構わずに彼女の肩にかけてやると、何故だかさんは酷く顔を赤くしていることに気が付いた。あれ、寒いんじゃなかったのか? 眉を寄せるぼくに、さんは抱き寄せる様にマントにくるまってみせる。
「その……カトルくんは寒くないんですか?」
「は?」
「背中……出てるし……」
「エルーンはあなたたちに比べれば体温が高いので」
「ああ~、道理で手があったかいわけだ……」
「そうですか?」
とぼけて彼女の手に自分のそれを重ねる。びくりと震えたその手はぼくのものより一回り小さくて、やっぱりひんやりとして冷たい。反応が面白くてつい指先を絡めてしまったが、どうやらやりすぎたらしい。さんは「あわわああ」と声にならない悲鳴を口から漏らして、そのまま卒倒してもおかしくないような表情で、耐える様に細かく目を瞬かせていた。
喉の奥で、く、と笑みが漏れる。意識されている、というのは、そう悪い気がするものではないらしい。
「満足しました」
「は?」
考えるよりも先に口走ってしまった言葉を聞き逃すほど凡愚ではないようだ。不思議そうな顔でぼくを見上げるさんに、ぼくは自分の左手の中指に嵌められた指輪を逆の手で掴む。ぐりぐりと細かく回しながら引っ張ると、それはほとんど呆気なく、ぼくの中指の関節を抜けていった。勿論、痕はくっきりと残っているけれど。
「え、ええ……!?」
「すみません。一生懸命なあなたが面白くて、つい」
「ええええ!」
いとも容易く抜けた指輪を目を見開いて凝視する彼女は、やがて気が抜けたようにソファに凭れかかった。ぼくが痛いと言うから気遣って無理に引き抜こうとはしなかったためだろうが、そもそも少し力を入れれば呆気なく外れる程度のものだったのだ。「グランくんに怒られると思って必死になったのに」と、もしもこのときさんが呟いたりしなければ、ぼくは恐らくここで彼女を解放しただろうけれど。
このタイミングで、団長さんの名前を出すというのは、少し野暮なのではないだろうか。
さんの右手に指輪を握らせたぼくに、彼女はぱっと目を見開いた。
「やり直しです」
「へ?」
「団長さんから僕に、なのでしょう? なら、つけなくてはいけませんよね。――ほら、お好きな指にどうぞ」
「は?」
片手を差し出して微笑む。指輪を手にしたさんは、並んだ五本の指にじっと視線を落として「お、お好きな指にって言われましても」とあからさまに狼狽えてみせた。それでもぼくが何も言わないことにようやく観念したのか、彼女はおずおずとぼくの手を取って、指輪を持つ指先を彷徨わせる。
親指、はあり得ない。人差し指に入れかけて、関節の辺りで引っかかることを察して途中で引き返す。中指と薬指を過ぎて小指、はさすがに緩すぎた。さっさと薬指に嵌めればいいのに、彼女は何を躊躇しているのか、あろうことかもう一度中指に挑戦しようとするものだからさすがに制止した。
「こっちだろうが」
最終的に苛立ちが勝って、彼女の手を引いて薬指に誘導する。だけど、その瞬間ぼくはようやく自分がしている、いや、させていることに気が付いて、思わず息を止めた。
左手の薬指に指輪を嵌めさせようとしている、この行為それ自体の意味を、冷静に考えてしまえば、それは。
ば、と彼女の顔を見ると、ほとんど泣き出しそうで、耳まで赤くなっていて、ぼくは我に返る。それには少し遅すぎたのかもしれないけれど。彼女の指から指輪を掴んで、自分で自分の薬指に押し込んだ。苦も無く関節を越え、指の付け根にぴったりと馴染むそれを一瞥してから、もう一度目の前のさんを見つめる。
ぼくのマントをすっぽりとかぶって、両手で顔を覆って、声にならない声をあげるさんに、ぼくは自分の表情が見られなくて済んで良かったとただただ安堵の息を吐いた。
何やってんだ、ぼくは。
