の居場所を知らなかったと言うのは嘘だ。
 彼女が姿を消した直後の数日間、あの街での捜索にかかりきりになっていた僕達にシェロカルテが彼女の無事を示唆したとカトルには説明したけれど、実を言うと、僕だけは真実を教えてもらっていたのだ。信頼のおける知人の店で彼女を雇っていること。その店からは既に彼女の到着を知らせる連絡も届いていること。だから心配する必要はないのだと。ただ、すぐに迎えにいくことはしないでくれませんか。そう目を細めて笑う彼女に僕は頷いた。がグランサイファーを降りた理由は、薄らとだけど、分かっているつもりだ。
 他の皆にはこのことを打ち明ける気は、端からなかった。ビィやルリアに漏らそうものなら、何が何でも迎えに行くと言って聞かなかっただろうし、もしもがこの騎空艇に戻ってきたときに、団員全員が彼女の動向を知っていたとなれば彼女自身もやりにくい。僕とシェロカルテの間で留めておくべきことだと判断した僕は、「が迷惑をかけたね」と、賑わうよろず屋で声を潜めて謝罪する。
 僕はのことを自分で思っていた以上に心配していたらしい。無事を知った途端に肩が軽くなった気がした。



「いえいえ~。さんの気持ちも分からないでもないですから~」



 シェロカルテの言葉に、では、僕はどうだろうと、心のどこかで考える。僕は彼女のことなんてきっと本質的には理解できてはいない。
 異世界からやってきたのだと言う、僕より少し年上の女の子。
 文字も、種族も、島の成り立ちも、星晶獣の一つすら、この世界のことを何一つ知らなかったのは、彼女が記憶喪失だからだと思っていた。行く先々の島で街の風景や行き交う人物に見覚えがないかどうかを聞くたびに、申し訳なさそうな顔で首を小さく振っていたあの子が抱えていたものを、もう少し早く分けていてくれたら、と思う。その瞬間、自分は本当は信頼されていなかったのではないか、という思いが脳を掠める。



「人並みって、言ったんだよ」



 同時に蘇ったのは、カトルの、絞り出すような声だった。
 彼女は彼に、家族の話を、打ち明けたのだと言う。
 それはカトルがそうされるに足る信頼を彼女から勝ち得ていたからというわけではないはずだ。いくらが警戒心の薄い性格をしていると言っても、初対面同然の相手に彼女がそこまで心を開くとは思えない。だから、彼女にそうさせた何かをカトルが持っていたと仮定するならば、それに加えてそこに一つの条件が重なったに過ぎない。「これから先自分に深く関わってくることはない相手」だと、彼女はどこかでカトルをそう判断していた。あの子は、一度呑み込んでしまった己の生い立ちを、今更僕には話せなかったのだ。たったそれだけだ。
 だから、に対してちょっとした蟠りを覚えてしまうのは、お門違いだ。








「僕は君に信頼されてなかったのかな」



 吐き出しかけたその言葉を呑み込んで、グランサイファーに戻ってきたに「おかえり」と笑みを浮かべる。
 僕の部屋にやってきたときから委縮したように小さくなっていたはそれだけでぱっと目を見開いて、感情を堪える様にそのスカートの裾を握りしめて見せた。僕の見たことがないそのスカートは、やや重たそうな黒い生地で、彼女の膝よりも丈が少し長い。ファッションには疎いけれど、コルワの作るものよりも少し野暮ったいように思えた。彼女がを見たらなんというか。微笑みながらそんなことを考える。
 何も責めようとしない僕に、彼女はどこか、途方に暮れた子供のような目をしていた。もう少し、僕が彼女よりも、もう少し年を重ねた大人であったなら、何か彼女にしてあげられることはもっとたくさんあったのだろうし、きっともっと格好がついたのだろうな。そう思いながら、僕は彼女の頭に、一瞬だけ触れて、撫でる真似事をしてみせた。



「待っていたよ」



 俯いたは僕の言葉に、「ごめんなさい」と囁くだけだった。








 グランサイファーに戻ってきたは、以前の彼女と変わらずに警戒心がなく、人懐っこかった。
 不在の半年の間に増えた団員に戸惑っていたのは最初の頃だけで、彼女はあっという間に馴染んだ。一癖も二癖もあるような顔ぶれにもほとんど怖気づくことないその順応性の高さは相変わらずで、何より愛嬌がある。きっと彼女が働いていたという料理店でも、評判は良かったのだろう。実際、辞めるときは少し苦労したらしい。代わりの働き手がすぐに見つからなければ、彼女が戻ってくるのはもう少し時間がかかったかもしれない。
 働き者で、感情表現が豊か、そんな彼女が内に秘めているものが何であるのかを、外側から想像するのは困難だ。異世界からやってきたということを、彼女は今でも他の皆には隠している。僕と、カトルだけが事実を知っている。だけど、僕が知っているのはその表面に過ぎないのだろう。彼女はあれ以来僕に自分の話をしようとしなかったし、僕も無理に聞きだそうとは思わなかった。本当の身体は事故で使い物にならなくて、家族は亡くなった、そんな話は、僕の方から軽率に触れていいものではない。
 仔細を未だに知り得ていないという点では、僕も、彼女のことを何も知らないと言っても過言ではない。
 が僕の部屋を訪れたのは、彼女がグランサイファーに戻ってきてから三週間が経った頃だった。下唇を少しだけ噛んだ彼女が差し出したものは、表紙の具合からしてほぼ新品と見ていい、一冊のノートだ。
 


「その、色々、考えたんですけれど」



 が僕に対してこういった言葉の使い方をしてみせるのは非常に珍しい。緊張したり、何か頼みごとをするときだけ、こうして敬語まじりの言葉づかいになるのだ。思惑をはかろうとその瞳を見返そうと思ったのに、彼女の目線はテーブルの上に差し出されたノートの表紙に落ちているばかりで、一向に正面を向かない。



「私、申し訳なかったなってずっと、ずっと反省してて」

「……反省?」

「記憶喪失だなんて嘘ついて、お世話になってるのに、騙すような形になってて、きちんと話もできなくて」



 ノートを押し出す形で添えられた十本の細く白い指が、微かに震えていることに気が付く。



「えーと……じゃあこれは、反省文?」

「を、このノートいっぱいに書くにはまだ私の文章力がないので」



 冗談のつもりだったのに、「一冊全部が同じ言い回しが続くだけのちょっとしたホラーテイストの反省文になっちゃう……」とは神妙な顔で漏らすものだから、思わず笑う。「わ、笑わないで」と顔をあげたの口調が、ようやく普段のそれに戻っていることにほっとした。耳まで顔を赤くした彼女に微笑むと、はうぐ、と唇を噛む。



「だから、その、グランくんの迷惑でなければの話なんだけど」

「うん」

「あの、ほんとにこれ、独り善がりかもしれないんだけど」

「うん」

「い、いやだったら言ってほしいので、ちゃんと言ってね?」

「うん、だからどうしたの?」



 こんなに前置きされてしまうと、やっぱりちょっと笑ってしまう。ソファの上で顔を真っ赤にしたまま、はぎゅうと目を閉じて、「わたしの話を聞いてほしくて」と、一息に言った。



「でもグランくん、毎日忙しいし、私以外にもグランくんとお話したい団員さんはいっぱいいるし、私だけが独占なんてできない、から、このノートにちょっと書いてきたの」

「え?」



 書いてきた。その言葉に目線をノートに落とす。何を書いてきたというのだろう。疑問が表情に出ていたのか、彼女は早口で「えーと私が元いた世界のあれこれ的なやつを、その、家族のこととか、学校のこととか」と言葉を紡いでいく。



「グ、グランくんに、読んでほしいの、迷惑じゃなかったらでいいんだけど」

「いや、迷惑っていうか」



 僕でいいのかな、と、気が付いたときには僕はそう口走ってしまっていた。傷つけてしまっただろうか、と一瞬ひやりとしたけれど、向かいのソファに座っていたはテーブルに両手をついて立ち上がる。「グランくん以外の誰に読んでもらえばいいの」って。いるじゃないか、口にはしないけれど。
 曖昧に笑った僕には納得したのか知らないけれど、もう一度ソファに身を沈めた。どうやら少しは落ち着いたらしい。



「……交換日記って言うとちょっと意味が違う気がするんだけど……」



 聞きなれないフレーズをニュアンスだけで何となく理解した気になる。一応概要を確認し合おうとテーブルの上に置かれたままのノートを手に取った瞬間、何故かが「ぎゃあ!」と叫ぶので面食らった。



「あっちょっと待って中身は見ないで」

「え? なに? 何か書いたの?」

「先に書いてから持ってきたの……」

「ああ、うんなるほど、分かった、今は見ないけど」



 どうせ僕に読ませるために書いたのならばいつ見ても同じのような気がするけれど、という思いを心の端っこに追いやって、僕は緩んだ口元をノートで隠す。



「君が何か書いて、僕がそれに返事をしたりするような形で日記を書く、ということでしょ? 手紙のやりとりみたいなものだよね」

「うん、そう、そういうこと、連絡帳みたいな感覚でもいいんだけど」

「それだったら、の字の練習にもなるね。赤ペン入れてもいい?」

「そ、そんなに間違えないよもう、前よりは書けるようになってるもん、多分……」



 まだ頬の赤いに「冗談だよ」と意地悪く笑ってみせると、彼女は反論もなく眉を寄せた。その表情に、いつかの涙はない。半年も前のことなのに、僕は今でも鮮明に覚えている。あの時のことを、君が目の前にいる今でも後悔している。
 あの夜、君を部屋に帰したりしなければ良かったのかな。僕は本当は、君がいない間、ずっとそれを考えていたんだ。








 が部屋を出て行ったのを確認してから、まじまじとそのノートを眺める。表面のざらついた感触に、僕は、彼女と初めて出会った日のことを思い返していた。
 森の中で目を開けた彼女が一番初めにしたことは、何だったか。どうしてもっときちんと覚えておかなかったのだろう。喉を触りながら、あ、あ、と何度か短い発声を繰り返したは、それからようやく僕やビィ、ルリアの顔を順々に眺めて、不思議そうに自分の脚を見下ろした。もう少し、きちんと向き合っていたら、彼女は僕ではない誰かに傷つけられることなくいられただろうか。なんて、そんなの今更虫のいい話だ。
 ノートを開くと、拙いけれど、半年前のそれよりは着実に整った字で、彼女の名前が記されている。家族構成、昔飼っていた犬の名前、その耳がエルーンの皆のそれに似ていること、庭に咲いていた花のこと。隅っこに描いてある絵は、蜂だろうか。何故蜂を描いたのか全く見当もつかないけれど、赤ペンを入れるところなんて一つもない。
 可愛いものだな、と、自分より年上のはずの女の子に思うには少し不思議な感情を抱いた瞬間、僕は最後の一文に目を留める。



「団長さん? ちょっといいですか」



 部屋の扉がノックされて、僕は慌ててノートを閉じた。
 余韻に浸らせてくれなくて、助かった。促されるまま部屋に入ってきたのがカトルでなければ、僕は腹に浮かんだままの感情を押し殺して平生を演じ切れて見せただろう。



「……例の依頼の件なんですが」



 言いかけたカトルは僕の僅かな動揺を察したのか、目ざとくテーブルの上のノートに目を走らせると「……何ですか? それ」と抑揚の薄い声で尋ねてくる。ああ、ほんとに、勘が鋭くて嫌になる。



「何でもないよ」



 僕は、人としてのことが好きだけれど、これが俗にいう恋愛感情というものではないということを知っている。
 目を細めるだけに留めているカトルに笑顔を張り付けながら、このノートに書かれた最後の一文を脳内で反芻させた。僕は君に信頼されてはいなかったのだろうか。そんな問いが、彼女の癖のある、筆圧の薄い文字に、あっという間に溶けて霧散していくのを感じる。
 訝しげに「ふーん?」と呟くカトルに向き合った。恐らく彼女にとっての「特別」は今、彼で、だけどそれを恨んだことはない。僕は彼女が彼に惹かれている理由を何となく察している。カトルがそれにどう応えるのかまでは読めないけれど。
 それでも、あの時僕の前で泣くばかりだったあの子が、今少しでも笑えているのならばそれでいいと思うのだ。
 彼女のノートに書かれていた言葉が、不思議なくらいにしっくり来る。「グランくんのこと、お兄ちゃんみたいに思ってしまうの。私の方が年上なのにね」これは家族愛だ。



「カトル」

「はい?」



 ノートの表紙に手を置く。これが少しでも、僕と彼女の間に結ばれた糸を、繋いでいてくれればいい。


 
をよろしくね」



 そう言った僕に、カトルは一瞬考えたような間を作ってから、あからさまに迷惑そうな顔で「は?」と聞き返してくるので、声をあげて笑った。




グランくんが好きなおともだちへ