意外と薄いんだな。と思いながら、その輪郭をなぞる。彼の髪と同じ色をした獣の耳は、眠っていてもピンと立っていた。この耳が柔らかく、ふにゃりと下がることなんてあるのだろうか。この騎空艇に乗るエルーンのみんなで想像してみたけれど、特に想像し難いのが目の前にいる彼であるように思えた。いつも神経を研ぎ澄まして膜を張り、時折抑えきれない激情を露わにするカトルくんは、眠っている顔だけは年相応の少年のように見える。








 一度はグランサイファーを降りた私が半年の単独行動を経て再びここに戻ることになると、一体誰が想像しただろう。手紙の一つを残しただけで姿を消した私と再会したビィくんは、私の想像の五倍は怒り、ルリアちゃんは飛びついて喜びながらも半分は泣いていた。私の帰りを待っていたのだと、私の服をたまに作ってくれていたらしいコルワさんは、かつてよりも私の身体が少し痩せたことにショックを受けながらも上手く作りなおして「新作よ!」と微笑んでくれたし、グランくんは私と、その隣に立つカトルくんを交互に見て、それから「待ってたよ」と目を細めると、それ以上は何も言わずにいてくれた。ビィくんやルリアちゃんからの話で、この半年の間私が何をしていたのかは既に知っていたらしい。
 お世話になったシェロちゃんに挨拶に行ったとき、彼女はいつも通りに破顔して、「約束を守っていただけて何よりです~」と私ではなく斜め後ろのカトルくんに言ったけれど、振り向くよりも早くに彼が小さくため息を吐いた音だけが聞こえていた。彼は、シェロちゃんに私の居場所を聞いたらしい。不敵に微笑んだシェロちゃんは、カトルくんよりもずっと上手みたいだ。
 半年の空白の後に戻ったグランサイファーには、私の知らない顔もちらほら見られた。残っていたはずの空き部屋は全て埋まり、私が以前使っていた部屋は、今はカトルくんが使用しているらしい。



「個室を用意してあげられなくてごめん」



 そう言うグランくんに大きく首を振った。これまでも気の合う人同士は相部屋になっていたから、私もそうさせてもらうつもりだ。アトリエ兼自室になっているコルワさんに頼むのは少しだけ気が引けたけれど、彼女は快く受け入れてくれた。



「これで気兼ねなくモデルになってもらえるし、私としては問題ないわ。たっくさんお話聞かせてよね!」



 コルワさんの望む「たくさんのお話」を私が用意できるかは定かではなかったけれど、グランサイファーに出戻った私は、こうしてコルワさんのお部屋を間借りするような形で新たな寝床を確保した。



「にしてもぉ、ちょ、マ~ジ顔付き変わったべ? 修行の成果、出てるんじゃないっすか~?」

「それな。っち、レベルあがりすぎな。俺たちも負けてらんねぇべ」



 私の半年を、キッチンを取り仕切るローアインさんたちは「修行」と表現するけれど、自称はしないとしても言い得て妙だ。武器を持って戦う彼らからしてみたら私の修行なんて大した努力にはならないのかもしれないけれど、料理店での日々は私に自信を持たせるには充分だったのだろう。
 あそこから戻ってきた私はお皿を洗う速度だけは誰にも負けなかったし、トモイさんやエルセムさんに劣るとは言え、給仕の際に運ぶことのできるお皿の枚数は以前とは比べ物にならなかった。一度食堂に入ってきたグランくんたちにうっかり「いらっしゃいませ!」と叫んで笑われたことを思い出すと穴を掘って埋まりたくなるけれど、それ以外は順調だ(ちなみにその時は傍に居たトモイさんが「うぇ~い! いらっしゃいませ~っ!」なんてカバーしてくれた。ありがたい)。
 みんなの洗濯物の取り込み、騎空艇の掃除、片付け、出来ることは何でも率先してやった。そうしているうちに、今まで自分がほとんど決まった人としか会話をしていなかったのだと思い知らされる。
 最近グランサイファーに乗ったアンスリアさんというエルーンの女性に洗った衣類を届けたとき、部屋の中からじっと見つめられた。燃えるような赤い髪に、身にまとった衣類は華々しい。旅の踊り子だったと聞いたけれど、こうして向かい合ってみると彼女は同性であっても蠱惑的な美しさを兼ね備えているように見えた。



「貴方が……?」

「あ、はい。アンスリアさんですよね。よろしくお願いします。お洋服これであってますよね? 乾いていたので持ってきました」

「あ、ありがとう。……ねぇ、貴方随分……その……団長と親しいようだけど……」

「あっ」

「えっ?」



 アンスリアさんに渡した服の間に、明らかに男性物の衣類が混ざっていることに気が付いて思わず声をあげる。「すみません。これ別の人のですね。もらっていきます」と引き抜く私に、アンスリアさんはどこか落ち着かなそうにそわそわとしている。それでも彼女が何も言おうとしないので、私はそのまま彼女の部屋を出た。
 しかし、この薄いシャツは一体誰のものだろう。名前を書いてないかと服のタグを見るけれど、どこにも個人を特定できそうなものはなかった。とは言え、それだけで候補は絞られる。持ち物に名前を書いておかない時点で、古参の団員ではない。となると、最近この騎空艇に乗った男性のものであるということだ。その時点で私の頭に過ったのは、カトルくんただ一人だった。
 グランサイファーは大きな騎空艇だ(この世界はこれでも中型らしいけれど)最初の頃は迷うことが多かったけれど、半年の空白期間があったとは言えさすがにかつての自分の部屋が分からなくなるほど記憶力は悪くない。現カトルくんの部屋、元私の部屋の前に立った私は、何だか懐かしい気持ちになりながらも扉をノックした。



「カトルくん、ちょっと良いですか?」



 そう声をかけてみても、返事はない。
 今日、彼は何か依頼を受けていただろうか。食堂にある、皆の一日の予定が一目で分かる大きなホワイトボードを毎日全員分チェックしているわけではないけれど、私はカトルくんのものだけは確実に目に入れるようにしていた。明確な目的や理由があるわけではなく、それが一体何を意味するのかは自分でも分からない。けれど、あの料理店で過ごした間に覚えたこの世界の文字の中で、カトルという単語だけがなぜか酷く目についた。そこだけがきらきらのペンで縁取られたみたいに。
 記憶を探って、彼が今日は騎空艇にいることを確かめたはいいけれど、いくら待っても返事はない。甲板にでも出ているのか、それともどこかで誰かと話をしているのか。そう考えるとなぜか胸の内側がずくりと重く感じられて、私は眉を寄せた。木目の濃い扉を漫然と眺めながら、私はその焦燥を打ち消すようにもう一度彼の名前を呼ぶ。



「カトルくん」



 だけど、返事はない。
 思えば私は、この騎空艇に戻ってきてからあまり彼と話をしていない。
 日々の雑務に走り回って、自分ができることを率先して買って出る私に、グランくんたちは「無理をしなくていいんだよ」と言ってくれたけれど、一人で部屋に籠ってぼんやりしていることの方が今の私にとってはつらく、そう訴えると彼らは私にそう言った類の言葉をかけることをしなくなった。ただ、グランくんは「休みたくなったらいつでも言って」とこっそり耳打ちしてくれたけれど。
 ローアインさんたちのお手伝い、買い物の付き添い、武器の整理、私が知ろうとしなかっただけで、この騎空艇にはやらなければいけないことが多くある。それらのことに忙殺されて、あっという間に一日が終わり、眠りに落ちる瞬間に「ああよかった今日もがんばれた」と思うことが私にとって重要で、それに関係することで生じる他の団員とのコミュニケーションを除けば、私は他者と関わることはあまりなかったのだ。勿論、自分にできることなどほとんどないのだと思い込んでいた以前よりかは、私は多くの人と広く浅い関係性を結んでいる。手ずから伸ばした生地が薄くなるようだ。勿論、それが悪いことだとは言えないけれど。
 そしてその伸ばされて半透明になった先に、カトルくんがいる。
 彼のことを気にかけていなかったわけではないどころか、感情は、むしろ真逆だ。気になって仕方がなかった。あの街に迎えに来てくれたカトルくんとは、グランサイファーに戻るまでの数日間、ぽつりぽつりとお互いの話をした。
 私が家族の話をすれば、彼は双子のお姉さんのことを。
 私が事故の話をすれば、彼は自分の作り上げた街と、その外の世界のことを。
 すべて奪われたと呟いたあの夜、彼は私の頭を、震える手で撫でた。いや、撫でるというよりあれは聊か乱暴ですらあったかもしれない。私の髪をぐしゃりと潰した彼の顔を私は見上げることができなかった。自由に動くはずのない脚がびくりと痙攣した。喉だけが素直に言うことをきかなかった。
 彼はやっぱりどうしたって私の特別で、それはあの髪の色に由来するところではあったけれど、それでも私の存在のすぐ傍に彼というものがあるのは必然であるように思えた。だから、わかっていて走り続けたのだ。そうしていれば自分が崩れずにすむと思ったから。
 胸に抱いたシャツを一瞥して、私は駄目元でドアノブを捻る。もしも空いていたら、こっそりベッドに置いて立ち去ろうと思ったのだ。



「あ」



 だけど彼は部屋にいた。
 ベッドに横になって、静かな寝息を立てていた。








 私に気が付かないなんて、よほど疲れているのだろうか。ベッドではなくテーブルにシャツを置いて、すぐに立ち去るべきであったのに、私はついついその寝顔を覗き見てしまう。
 つるりとした肌に、長い睫毛、眠っていても耳はぴんと立っていて、私はその三角形に何だかうずうずしている自分に気が付く。犬を、飼っていたことがあるのだ。私が中学生になったばかりの頃に死んでしまったけれど、生まれたときから一緒にいた子だった。今まで特に気にしていなかったけれど、コルワさんやローアインさん、アンスリアさんといったエルーン族のみんなの耳はあの子の立派に立ったそれに似ている。
 駄目だ、駄目だ、と思いながらも、眠っているのを良いことに私は指を伸ばしてしまった。人差し指で輪郭をなぞり、彼が目を覚まさないのを確認してからそっと抓む。温度は低く、内側は良く見ると血管が透けていて、思ったより薄いのだと考える。耳の裏に沿えた指に力を込めてぺこりと裏返るその耳に言いようもない多幸感を覚えて頬を緩ませた。



「はぁ、コンタ……」

「誰ですかそれ」

「ヒッ」



 低い声と共にぱちりと目を開けたカトルくんに思わず後ずさろうとするけれど、瞬間腕をがしりと掴まれた。寝起きのせいか、それとも別の要因が深く絡んでいるのか、先ほどまでの穏やかな寝顔の少年はもうどこにもいない。



「あ、お、おこ、起こしちゃった? ごめんなさ」

「起きてました最初から」

「嘘だ、だって私外から声かけたもん」

「はあ」



 カトルくんは乱れた髪を適当に直しながら起き上がる。立てた片足に膝をつき、気だるげな目で「面倒だから返事をしなかっただけです」と言うそれは、果たしてどこまでが本当のことなのか判別がつかない。



「それで、コンタ? とは?」



 微笑と共に掴みあげられた手を引き寄せられ、顔が引き攣る。この状況で飼っていた犬の名前だなんて言ったら指の一本くらい持って行かれそうな気がするのは気のせいだろうか。口ごもらせながら目を逸らす私に、カトルくんは容赦ない。



「寝ている人の耳を散々弄り倒した挙句、他の誰かの名前を呼ぶなんて失礼極まりないと思いませんか? これが男女逆だったらどう思います?」

「それは……や、やばいですね」

「語彙力がなさすぎませんか」

「すみません、国籍が違うもので、すみません」

「文字は読み書きできなくても初めから会話はできたと聞いた気がするんですけど」

「すみません、ゆるして、い、痛いです」



 手首に込められた力が徐々に強くなっていたのは彼も気が付かなかったらしい。「ああ、すみません」と手を放され、私はもう部屋から逃げ出したくてたまらない。懐かしいはずの自分の部屋なのに、もう面影なんか一つも残ってなかった。だって、においがもうちがう。考えていることが顔に出ているのか、カトルくんは寝起きなのか素なのか分からない、どこか据わったような目で私を見つめている。その視線から逃げたくて、私はテーブルの上を指差す。



「あの、あれ、その、カトルくんのですか? 届けにきたんです、名前、書いて置いたほうがいいですよ、まざっちゃうんで」

「……それでわざわざ部屋に? 皆さんの目につくところにでも置いておけばいいじゃないですか」

「あっほんとだそれなら確実だ」

「はあ……あと、それ、ぼくのじゃないですよ」

「えっ嘘」



 驚愕の顔で洗濯物とカトルくんを交互に見比べる。カトルくんは益々困ったような、いや、少し馬鹿にしたような目で私を見た。私の前で良い人の演技をやめてくれたことは嬉しいけれど、でも、ちょっと傷つく。
 だけど、ならばこれ以上この部屋にいる必要はない。テーブルの上から再び衣類を回収して、「じゃあアドバイス通り食堂の隅にでも置いておきます」と部屋を出ようとした私を、けれどカトルくんは呼び止める。



さん」

「は、はいっ」



 彼に向けた背中がびくりと震える。
 未だに、彼に名前を呼ばれることに慣れていない。恐る恐る振り向いた私に、カトルくんは薄い微笑を浮かべている。



「で、コンタとは?」



 どうやら私は、話さないと部屋から出してもらえないらしい。
 渋々説明した私に、カトルくんは微笑んだまま私を手招いた。素直に彼の傍に戻ると、カトルくんはすっと目を開いて、「覚えてろよ」とめちゃくちゃ低い声で私の耳元で囁いたので、怖くて、後で泣いた。








 久しぶりに二人で話が出来ると思ったのに。
 彼女が逃げるように走り去っていった後の扉を眺めながら、ぼくは欠伸と共にこみあげてくる笑いを噛み殺す。
 さんに対する感情はこのところ混迷を極めていて、それを見極めるチャンスだと思ったのだけれど、上手くいかない。いっそ、もう少し寝たふりを続けておくべきだったか。未だ彼女の指の感触が残っているような耳がくすぐったくて、ぼくは小さなため息を吐く。
 それがどこか柔らかな音を伴っていたことを自覚しながら。