さんを迎えに行ったはいいが、彼女の方もそう簡単に紹介してもらった料理店の仕事を辞めることはできないらしい。特に、ウェイトレスとして働いていた女性の結婚が決まって以降、それまで裏方だった彼女が表に出て働くようになってからは、人手不足が顕著だと言うのだ。



「すみません、店長に説明したんですけど、二週間は居てほしいって言われて……」

「二週間ですか」



 その日の仕事を終えて、彼女が店の外に出てきたのは、ほとんど深夜と言って差し支えない時間帯だった。疲労の色を滲ませながらぼくに報告をする彼女に、少し不用心すぎやしないかとは思わないでもない。飲食店街であるためか、深夜でも営業を続ける店の、夜道を照らす派手な灯りや、酔っぱらった大人たちの上機嫌な会話が意識の端に留まるのが、ぼくはどうにも気に入らなかった。
 彼女は毎夜、こんな道を歩いて帰るのだろうか。心配になったけれど、そう言えばこの店の二階に間借りをしていると聞いた。ならばまあ、変なことに巻き込まれる心配は少ないのだろう。この街は一目見ただけでマフィアの息がかかっていないのが分かる。治安がいいのだ。あのよろず屋が、無知の彼女の身を預けるだけはあって。
 戻るまで二週間。改めて彼女の口から聞いた日数を考えるが、許容範囲内だ。団長さんには連絡を取って、また改めて二週間後にこの島の近くに立ち寄ってもらえればいいか。そう計算するぼくに、さんは小首を傾げながら言った。



「なので、二週間後にグランサイファーに戻ります。この街には騎空艇を停められるような場所はないから……申し訳ないんですが、二週間後、隣街の停泊場に、って、グランくんに伝えてもらえますか?」

「は?」

「え、だってカトルくん、先に戻り……ますよね?」



 その言葉に思わず聞き返すと、さんはびくりと肩を震わせた。怯えさせたかったわけではないが、いくらなんでも物わかりが悪すぎる。彼女はどうやら、ぼくが明日には一人で騎空艇に戻るとでも思っているらしい。そして、自分は一人遅れて合流するのだと。その思考に、つい短いため息を吐く。
 ぼくは、さんを迎えに来たと言ったのだ。その分の休暇は団長さんから正式に貰っているし、では二週間後に、なんて言って別れるつもりもない。そもそもぼくが目を離した隙に、彼女がまたどこかに行ってしまうとも限らないわけだ。ぼくは彼女の行動力を甘く見ていた節があるから、その点については彼女を信用してはいなかった。



「二週間、この街に滞在します。あなたに拒否権はありません。店主にはぼくからも伝えておきますので」



 さんは、ぼくの言葉に目を丸くする。その表情が気になって、「……何ですか」と尋ねると、彼女はちょっと考える様に目線を動かしてから、へへ、と笑った。ぼくは、こんな彼女の笑顔を初めて見たと思った。年相応と言うよりは、随分とあどけない笑みだった。



「嬉しいなって思って」

「は?」

「今までずっと、カトルくんと一緒に居ても、何を考えているのか分からなかったから。その、『は?』っていうのとか、繕ってない感じがして、嬉しいです」



 その言葉に面食らう。何を言っているのだと呆れる反面、あんなぼんやりとした顔で隣に立っていた彼女が、ぼくのことをそこまで観察していたことに、本当は少し驚いた。
 さんは微笑みながら、ぼくの顔を見上げていた。月明かりの下で、彼女の髪が以前よりも少し伸びていたことを知る。そうしてみると、やっぱり彼女がいろんなものを失った女の子であるようには到底思えなかった。それは勿論、良い意味で。
 ぼくの本性を知って、いつか彼女がぼくを嫌いにならなければいいが。
 いつもは思いつきもしないことを考えている自分自身に、ぼくはその時はまだ、気が付いていない。








 カトルくんは本当に、私が仕事を辞めるまでの二週間をこの街で過ごしてくれた。
 私の働くお店に一日に一回は必ずやって来るから、最初は監視されているようで緊張した。一日目は水を零しそうになったし、二日目は注文を取る声が裏返った。三日目からようやく慣れたけれど、他の常連さんと他愛もない会話をした後なんかはじっと私を見ていたから、その都度「ヒッ」と声が漏れてしまった。おしゃべりが目障りだっただろうか。でも、確かに決まったお客さんと必要以上に親しげな会話をしていると他の人には悪い印象を与えてしまうかもしれないから、気を付けた方が良さそうだ。
 休憩の時間になると、カトルくんは店の外に出てくる私を引き摺って街を案内させる。市場に行ったとき「お、ちゃん、彼氏か?」と顔馴染みのお兄さんにからかわれたから、私は大きく首を振った。隣のカトルくんがどんな顔をしていたかなんて、恐ろしくて確認できたものではない。
 露天商に、アイスクリーム屋さん、「ここのバニラが濃厚で美味しいんですよ!」と列に並ぶと、彼は当然のように私の分も買ってくれた。私が御馳走するはずだったのに、と思ったけれど、どうやら全部顔に出てしまっているらしい。



「いつか返してください」



 そう言う彼に、だったら今返しますと言いかけたけれど、彼のいつかはきっと未来永劫来ない「いつか」だ。表情と声でそれが分かったから、私は素直にお礼を言った。
 一瞬目を細めたカトルくんが何を考えているかは、はっきりとは分からなかった。前よりは感情を言葉にしてくれるようになったとは思ったけれど、私にとって彼はやっぱり難解だ。
 そうして毎日を一緒に過ごしても、私たちの間に話題は尽きなかった。
 彼が二カ月ほど前からグランくんのところでお世話になっていることは最初に聞いていたけれど、私がいない間の珍事をカトルくんは淡々と口にするから、私はお腹を抱えて笑った。カタリナさんが作った料理を食べたローアインさん達が寝込んでしまって、数日間料理を作る人間がいなかったとか、代わりに調理を買って出たのがベアトリクスさんだったおかげで、食事が全てお菓子のような味になってしまったとか。そう言った類の話を聞くたびに、私は懐かしさでいっぱいになる。
 あんな手紙一通残してグランサイファーを降りてから半年が経って、今更どんな顔で戻ればいいのかと不安になっていたけれど、私はビィくんにどんなに怒られることになっても、グランくんに呆れられてしまっても、それでもやっぱり皆のところに帰りたいと、改めてそう思うのだ。
 そして、少しでも恩返しをしたい。例えそれが自己満足にすぎなくても。
 夕陽を背負ったカトルくんの影は、長く私の足元まで伸びている。








 約束の二週間が経って、さんは予定通り飲食店での仕事を辞めた。上手く後任の従業員を見つけることができたらしい。これで彼女も安心して発てると言うものだ。
 とは言え、やはり別れ難かったのだろう。強面の店長は目を赤くして彼女の両手を掴んでなかなか離さなかったし、さんはさんで人目も憚らず声をあげて泣いていた。また絶対、絶対に来ます、本当にお世話になりました。そう言って抱き合った二人は傍から見れば種族も明らかに違ったのに、親子のようにすら思えた。
 従業員や常連のお客さんたちに見守られて、荷物を抱えた彼女は店を出る。いつかの白いワンピースではなく、この街で買ったらしい黒いスカートを穿いて、ボンボンの三つついたショルダーバッグを肩から下げたさんは、まるで観光客のように身軽だった。服装は違えど、初めて出会ったときの彼女を髣髴とさせた。



「すみません、お待たせしました。時間は大丈夫ですか?」

「問題ないでしょう。あなたが来るまで彼らも待っていると思いますし」

「へへ、楽しみ、どうしよう。ドキドキしてきた」



 街の中を歩きながら、さんは春の陽気に目を細める。
 よろず屋からもらったメモを頼りにこの街へやって来た日、彼女はぼくに気が付かず、ただ、盛りを迎えた花木を見上げていた。風で散る花びらの中、ともすれば、彼女は瞬きの後に姿を消してしまってもおかしくないように思えた。
 彼女はもしかしたら、夢から覚めるように、この世界から消えてしまうのかもしれない。今でなくても、いつか。
 声をかけたとき、けれど、彼女はきちんとぼくに振り向いた。その姿が酷く美しいものに見えたなんて、死んでも言えない、そう思った。
 街の外へ向かう道中、何かを思い出すように、その木の前で足を止めた彼女を見て、ぼくは自分があの日そう考えていたことを思い出していた。



「私」



 ぽつりと、紛れる様にさんは口を開く。



「まだカトルくんに、秘密にしていたことがあって」



 彼女は、時折こうして敬語を崩す。その不安定なところがぼくは、実を言うと好きだった。
 ぼくたちはこの二週間の間、散々話をした。この街の特産物、彼女が世話になっていた店主の人の良さ、ぼくがグランサイファーに乗ることになった経緯、その中での人間模様の変化。
 彼女の表情は良く変わって、話すときも、ぼくの話を聞いているときも、いつだって身を乗り出していた。屈託なく笑うその姿が、痛みを知らぬ子供のようだった。だから彼女は愛された。別れを惜しんでもらえた。そこに薄い膜が張ってあることなんて、多分誰も気が付かない。
 すべてを知らされたぼく以外は。
 ぼくはさんの境遇を知っている。しかしそれは彼女本人の口から聞いたものではない。団長さんからの又聞きとして聞かされたそれは、まるで中身のない布の袋だ。形だけは確かなのに、手で触ってみても掴めない。
 その中身を取り出して並べて見せることが出来るのは、その所有者だけだ。



「知ってますよ」



 なかなか言葉を続けようとしない彼女にそう伝えた。その丸い瞳が、こちらに向けられる。
 さんは、どれだけぼくの顔を見つめていただろう。彼女は、しかしやがてその目線を逸らした。その先には、既に葉だけになった一本の木があった。
 さんの白い手が、ボンボンの一つを引っ張る。チャックと連動していたらしい。口の開いた鞄の中から取り出した使い勝手の悪そうなサイズの財布を、彼女は、開く。








 その写真を、誰かに見せたのは初めてだった。端が折れ、薄汚れたその中で、セーラー服を着た私がつまらなそうにカメラを睨みつけている。隣に座る兄の表情はかたくて、ただ、両親の笑顔は、場違いなほどに美しい。
 何も言わずに差し出したそれを、カトルくんは受け取った。その横顔が、伏せられた睫毛が、この瞬間だけは私のために存在しているのだと思うと、目の奥が痛んだ。
 父と、母と、兄です。私の。唯一の。そう言わなくとも、彼はきっと私が何を言いたいのか分かったはずだ。知っていると言ったのだから。彼は既に、グランくんから私のことを聞いているのだろう。何もかも。なにもかもを。
 やがて、カトルくんが薄く微笑む。今よりも幼い私を見て漏れた笑いだとは分かったけれど、私は何も言わなかった。代わりに口を開いたのは、彼の方だ。



「……ぼくにも双子の姉がいるんです」



 それは、今まで彼が発したどの言葉よりも、低く、静かで、まるで宝物を扱うように、真剣な声音だった。



「血は繋がっていませんが、大切な弟妹たちもいます」



 一度バラバラになった自分自身を必死でかき集めて、人の形になるように縫い合わせた。そうでもしないと、立っていられなかったのだ。その隙間を縫うように、その人は、私を見つめる。



「親から捨てられ、搾取されるだけの子どもたちと、ぼくは暮らしてきました。彼らを守ることが、ぼくの存在証明になると信じて」



 淡々と続けられたその言葉は抑揚に乏しく、感情が読めない。彼のせいではなくて、自分の目が正常に機能しないせいで。
 カトルくんから語られる彼の境遇を、私はもっと、きちんと聞きたかった。だけど駄目なのだ、今は呼吸すらもまともにできない。



「……家族が奪われる哀しみを、ぼくは正確には理解できてはいないのかもしれませんが」



 呪っていました。何もかもを。
 信号無視の車が横腹から突っ込んできた瞬間を私は今も夢に見る。覆いかぶさった兄の身体、頬を伝った生温かい体液、止まない耳鳴り、見開かれたその眼球に唇が触れた。呪っているのだ。今も私は。いつまでも。
 カトルくんの指が私の目の縁を拭う。遠慮のない指先に、私は自分が泣いていたことを知る。



「苦しかったでしょう」



 わざわざ私に向きが合うように、彼は写真を返した。写真の中の父と、母と、兄と目が合う。今は亡き。今は亡き。私は随分遠いところまでやってきた。
 ベッドの中でただ息をしていた。葬儀は終わったと知らされた。私は家族の骨の色すら知らぬまま。病室の、天井に出来た星から滲み出した世界が私を呑み込んでいく。
 夢を見た。何も叶わないならせめて庭に咲いた花が欲しかった。夢を見た。何も届かないままだった。腹の上に写真を抱いた。どんなに願っても時間なんか巻き戻らなかった。夢を見た。夢を見ていたかった。
 頷きたくて、だけど、私の頭蓋は鉛のように重かった。ひ、と、喉に何かが張り付いたように、痛い。
 気がつけば、私は何故か首を振っていた。振りながら、私は、惨めに掠れた声で、ただ、吐き出す。縋りつきたかった。強くなったと思ったのに、私は結局、一人では生きていけない。



「しあわせだったんです」



 幸せだった。その幸せを、何も疑ってはいなかった。
 写真の中の私を塗り潰すように、その上に涙が落ちる。次の瞬間、乱暴に、カトルくんは私の頭を撫でた。言葉は一つもないままに、ただ、私の髪はぐしゃぐしゃと音をたてて乱れていく。その手のひらが、震えているような気がする。幸せな家庭でした。人並みに、幸せな家庭でした。嘗て彼に向けて吐き出した自分の言葉に、私は今更になって首を絞められる。
 しゃくりあげて泣けば、街行く人々が私に訝しげな目線をやる。それでも、カトルくんはずっと私の頭を撫で続けてくれていた。私のものよりもずっと熱い他人の手のひらに、私は今、確かに救われている。








 だったらぼくが家族になってやる。
 泣きじゃくる彼女の頭をほとんど力任せに撫でながらそんなトチ狂ったようなことを一瞬でも考えてしまったのは、彼女の泣き顔があまりにも幼かったせいだ。それ以上の意味は、そこにない。
 今はまだ。




夢本書き下ろしから