花冠の節の花嫁は幸せになれる、そういう伝承があるのは知っていたけれど、ローレンツくんは当然のようにその節に向けて式の準備をしてくれていた。優秀な人だから、式日に向けて計画的に物事を進めることに苦はないのだろう。式のことに限らず、ローレンツくんからはたまに意見を求められるときはあったけれど、彼はいつも二択までそぎ落とした状態で私の前に提示してくれた。優柔不断な私のことを理解しているからこそできる芸当だった。
 ローレンツくんは、兎に角私の気持ちを最重要視してくれる。昔から優しい人だったけれど、それが今はもっと顕著になっているように思うのは気のせいだろうか。
 たくさんの人が祝福してくれた式は目まぐるしくて、もうところどころの記憶がぼやけて曖昧なのだけど、それでもローレンツくんが私のことを綺麗だって言ってくれたことは覚えているし、本当に幸せだった。胸がいっぱいになって、お化粧が崩れてしまうのを分かっていながら、ちょっとだけ泣いてしまったくらいには。
 色んなことがあったし、色んなものを守れなかった。式に来てくれるって約束したリシテアちゃんはいないし、ドロテアさんにもオーランドたちの成長を見てほしかった。後悔も心残りもいっぱいあったけれど、それでも私はこうしてローレンツくんの隣で花嫁衣装に身を包んでいることを、本当に嬉しく思っていた。幸せになれるんだと思うと、胸がいっぱいになった。花冠の節だというのに、雲のない日だった。



 そうして私は本当にローレンツくんの奥さんになったのだ。これで領民や兵達から「奥方様」と言われても臆する必要はない。勿論照れはするだろうけれど。だけど、幼馴染みだった私達が十年を経て同級生になって、婚約者になり、とうとう奥さんになってしまったと考えると、私もついつい嬉しさから相好を崩してしまう。それまでの紆余曲折があったから、余計に。
 さて、ここからは少し俗な話になってしまう。
 結婚式の夜、私はすっかりそういうものだと思って、寝所にて身構えていた。私自身そういった経験はないけれど、初夜という言葉は知っていたし、覚悟もしていたのだ。
 結婚式を終えて名実ともに彼の妻となった私は、この日からグロスタールのお屋敷の、ローレンツくんと同じお部屋で眠ることになる。三階の書庫の斜向かい、ではなく、また別の、広いお部屋だ。隣にはローレンツくん専用の執務室があって、私のために誂えてくれた個室も続いている。グロスタールのお屋敷は相変わらず薄暗いけれど、それでもこれらのお部屋は日当たりが良く、窓も大きく取られていたため居心地が良かった。
 その夜私は緊張感で目が冴えていた。結婚式の後の疲労もあったし、少し仕事を片付けてから寝所に行くと言っていたローレンツくんからも「先に眠っていたまえ」と言われていたけれど、どこでどう待っていたらいいか分からない。寝台に横になっていていいんだろうか?でも、でもそれだとどうなんだろう。自分で考えて赤面してしまう。顔を押さえて寝台に座ったまま足をばたばたさせていたら、部屋の扉が開いてびくりとしてしまった。



「まだ起きていたのか?」



 二人っきりのお部屋に、それはなんだか降り積もるみたいに落ちた。低い声だった。
 二人で眠っても十分に余裕のある大きさの寝台、私はもうこの大きさの寝台で眠るということそれ自体が初めての経験で、自分が本当に大人になったみたいで、無性にどきどきしていた。枕元の心許ない灯りだけが薄暗い室内をぼんやりと照らす中、私に近づいてくるローレンツくんに、ばくばくと音を立てる心音が聞こえてしまっているんじゃないかと不安になる。ローレンツくんの、細くて長い、ごつごつとした指が私に向かって伸びてくる。わ、どうしよう、そう思って目をぎゅうと閉じたのに、彼の指は私の頭蓋を撫でただけで、呆気なく離れてしまった。



「今日はもう疲れただろう。おやすみ」



 おやすみ?
 ローレンツくんは穏やかな微笑を浮かべ、寝台の逆側に回ると、そのまま枕元の灯りを消してしまった。



「えっ」



 短く漏らした言葉にローレンツくんは何を勘違いしたのか、「灯りはこのままの方が良かったか?」と尋ねるから、私は思わず「あ、はい。ちょっと明るい方が眠れるので……」と返してしまう。いや、実際それは事実なので、そういう些細な日常における諸々を知ってもらえるというのも夫婦っぽくて素敵だとは思う、思うんだけど、でも、あれ、今日って「初夜」っていうやつじゃなかったんだっけ? ぐるぐると考えている間に、再び灯りが灯される。微かな希望を持ってローレンツくんの方に目を向ければ、ぼやりとした暖色の灯りに浮かぶローレンツくんは私の方に背を向けて、既に眠る姿勢になっていた。
 寝るのか。
 その日私達は、大きな寝台で背を向け合って寝た。確かに疲労はあったし、寝台はふわふわで気持ちよかったから、存外よく眠れた。朝起きたら、ローレンツくんはもう部屋からいなくなっていた。
  







 だけど、それから一週間が経ってもなお、この関係は変わらない。
 そもそも私達は昨日今日突然そういう間柄になったわけじゃない。婚約期間も含めたら実に六年、……え? 六年? 自分で計算してびっくりしてしまった。勿論戦争が終わるまでの五年はほとんどは私達の心はすれ違っていたけれど、それでも死んでしまったと思っていたローレンツくんが再び私達の前に現れて、改めて私に指輪をはめてくれたあの瞬間、私達は本当に「婚約者」になったのだ。それから数節後、ファーガス神聖王国がアドラステア帝国を打ち倒し、帝国は滅亡。フォドラは王国の下に統一され、ローレンツくんはかつてのレスター諸侯同盟領におけるグロスタール領をそのまま統治する立場になっている。
 大変なのは分かるのだ。ミルディン地方の北部を治めていたアケロンはミルディン大橋で戦死し、隣接するコーデリアもリシテアちゃんの死が理由なのか、それとも元々そういうつもりだったのか、戦争の後は爵位を返上してしまった。仮という形ではあるとは言え、グロスタール以南の統治まで任された若き領主の苦悩は絶えない。戦後の混乱は、未だフォドラのあちこちに、種のような形をして埋められている。それが発芽しないために、ローレンツくんは東奔西走する。
 だから私は少しでもローレンツくんのお手伝いをしたいし、負担にはなりたくない。大変な時期だって分かっているから我儘は言いたくないけれど、でも、どうしても不安になってしまう。
 だって口づけだって、結婚式の日にしたきりなのだ。








「まだ起きていたのか」



 初夜のときと同じ言葉を向けられたけれど、私は今日は逃げるつもりはない。
 寝台の真ん中に正座しているのだって、ローレンツくんが眠れないようにするためだ。どんなに大きい寝台でも、私がこうして座っていれば横になる場所なんて残されていない。



「お話がありまして」



 灯りはいつも通り、枕元にある一つだけ。こんな状況でお話なんてなんだか不思議な気もする。
 とは言え私もずっとお仕事で忙しくしている彼に疲れているのだとため息を吐かれたら、この姿勢を解いて、素直に謝罪するつもりではいた。疲れているのにごめんなさい、と。彼の体調を無視してまで、私は自分の意思を貫く気はない。ただ、それでも気持ちだけは確かめさせてほしい。ローレンツくんは優しいし、私のことを気遣ってくれる。愛してくれるのはわかるけれど、どうしてその、だ、抱いてくれないのですかと。でも、下品なことを嫌うローレンツくんだ、女の私がそんなことを言ったら、私のことを嫌いになってしまうかもしれない。それだけは怖かった。
 ローレンツくんはだけど私の内心なんて気がつかないのだろう。寝台の縁に腰掛けると、半身を捻って、真ん中を陣取る私に「どうした?」と言ってくれる。こうして見ると、ローレンツくんは本当にきれいな顔立ちをしているのが分かる。瞳は切れ長で睫毛は長く、鼻筋は通っていて、唇は薄い。どきどきしてしまうのは、今が夜だからだろうか、寝台の上だからだろうか、いつもよりはずっとずっと距離が近いからだろうか。多分全部だ。
 私はここに来て、はっきりと怯んでいる。お話がある、なんて言葉できれいに形を整えたその中身は、蓋を開けてみればそれはそれは品のないものだ。ローレンツくんと出会ってから十余年、そう考えると恐ろしいような気持ちにもなるけれど、私達は振り返ってみれば、いつもすれ違ってばかりいた。だから今回も、すれ違いなんだろうなあとは思うのだ。気を遣われているんだろうって。ローレンツくんは優しいから、私が本当に疲れていると思っているし、そういうことに免疫がないのを見抜いて、もっとゆっくり、時間をかけてくれようとしているのかもしれない。でも、私はやっぱりローレンツくんが好きで、一緒にいるとどきどきするし、頭を撫でられると、もっと触ってほしいって思ってしまう。浅ましいのだ。こんな私を、もしかしたらローレンツくんは淑女らしくないって幻滅してしまうかもしれないけれど。
 首を傾げているローレンツくんが寝台に置いた手に、自分の両手を重ねる。びっくりするくらい、手の大きさが違った。そういうところにすら性差を感じて、もう頭がぐらぐらしていた私は、ほとんどやけっぱちになってしまう。



「ローレンツくん」



 こんなに自分の声が、女々しく震えるだなんて、思いもしなかった。



「どうして触ってくれないの?」



 抱いてくれないの、とは直接的すぎて言えなかった。でも、結局同じようなものだ。
 触れた手にぎゅうと力を込めてローレンツくんを見上げれば、彼はほとんど目を見開いて、私を見つめ返していた。









「どうして触ってくれないの?」



 今はなんと言ったのだろうか。僕の聞き間違えか? だが、目の前のはほとんど半泣きの状態で僕を見つめている。座っていようが立っていようが僕達は結構な身長差があるから、どうしても彼女は僕の目を見るときは上目遣いにならざるを得ないのだが、それにしたってこの状況でそれは些か暴力的であると言っても良かった。加えて、僕の右手は今彼女の両手に包み込まれている。小さくて、柔らかくて、石けんの香りがする、僕のものよりずっとあたたかい手だ。
 薄暗い寝所の、寝台の上、その中央に足を崩して座ったは、意図してそうしているのだろうか。薄い寝間着の裾が僅かに捲れ上がっていてそのふくらはぎを露出させているから、僕はそれから目を逸らす。
 彼女を娶ってから今日で丁度七日目だ。その間、は実に貞淑な妻として僕の傍にいてくれたと思う。僕の邪魔にならぬよう、出しゃばらず、しかし僕が意見を求めれば悩みながらも真摯に向き合い、彼女なりの意見を述べてくれた。気持ちをはっきり伝えてからが僕は本当の婚約だったと思っているから、一年間、僕は彼女の婚約者として相応しい存在になろうと努力したし、先日の結婚式で大勢の人々に祝福されて、彼女を必ず幸せにしようと誓った。だから、大切に、大切にしたかったのだ。
 僕だって男だから、勿論好きな女性には触りたい。結婚式の夜、世間的には初夜と呼ばれるあの日なんか、あわや気が狂うところだった。あの日は式が終わった後、昔の仲間たちが祝ってくれた。屋敷に戻ってきたときには既に陽が暮れていて、眠っていてくれれば良いものを彼女は寝台でわざわざ僕を待ってくれていたのだ。
 まずい、と思った。彼女が式の後の祝いの場でヒルダさんやイングリットさん達と盛り上がっている間、僕の隣にいた男の名前を聞けば理解はしてもらえると思う。シルヴァン=ジョゼ=ゴーティエ。酒の入ったあの男にどれだけ下世話な話を振られたか。未だ口づけすら先程の式が初めてだったのだと言えば、あの男の酔いも冷めたに違いない。アッシュくんとイングリットさんに抱えられ、ほとんど引きずられながら宿へ連れて行かれたあの男が口にした数々の、には決して聞かせることの出来ない話が脳裏を過ぎって、僕は兎に角彼女に背を向け、その身体から距離を取って寝るようにするしかなかった。
 一時の欲に身を任せて、を傷つけることだけはしたくなかったのだ。
 は僕にとって純真そのものだ。真っ直ぐで、人を疑うことを知らない。あの五年を生き抜いた彼女は、もうどんなことにも傷ついてほしくはない。大切にしたかった。
 僕は昔から、自己評価に関しては高い方だと思う。特に彼女の思いを知った今となっては、クロードに対して抱いていた劣等感のようなものも消え失せた。だけどことこういったことに関しては別だ。僕は自分の理性がどこまで保つかを全く想像できないでいる。
 はっきり言えば、僕は彼女を汚すことに怯えていたのだ。
 見るからにそういう経験のないだ。式での口づけだって、完全に動揺していた。どうやら頬にされるものだと思っていたらしいのだ。そんな馬鹿なと思うだろうが、実際あとで顔を真っ赤にしたに「口にするなんてきいてない」と言われたから、間違いない。あの時は思わず意地悪をしたくなって、「なんだ、嫌だったのか?」と聞いてしまったが、あの日の余裕は今の僕にはない。
 だが「どうして触ってくれないの」と、そう彼女が尋ねたと言うことは、つまりそういうことだ。尋ねながら恥ずかしくなったのだろうか、彼女は重ねた手に指を絡ませ、僕の指をにぎにぎと握りながら、その目線を恥ずかしげに彷徨わせるから一層たちが悪い。
 どうすべきか、これはここまで僕が彼女と真剣に話し合わず、なあなあにしてきたことのツケなのだろうか。「もう食ったか、食ってるよなあ、添え膳みたいなもんだしな!」あの夜酔ったシルヴァンが肩を組んで僕に吐き出した下劣な言葉が脳裏を過ぎるが、それはため息でかき消そうにも、もう消えない。
 仄かな灯りに照らされたの顔は、それでもはっきりと赤く染まっている。




back