我が黒鷲の学級の参謀役とも称されるヒューベルトさんは、一見非常にとっつきにくい人だった。
 級長であり、アドラステア帝国の皇女でもあるエーデルガルトさんの側近として長く仕えているせいか、同じ生徒でありながらも彼は「付き人」としての印象が強く、それがゆえにある種の壁のようなものを感じさせるのだ。実際私ももしもこの学級の生徒でなければ、彼のことはずっと誤解していたかもしれない。エーデルガルトさんに仇なす人物がいれば、呪い殺すくらいはする人なんじゃないかって。今は勿論、そんなことは思いもしないけれど。



「生憎そういうものに頼りはしませんが……くく、呪いですか。これはまた突飛な」

「実はですね、最近そういう本を手に取る機会がありまして」

「まさかガルグ=マクの書庫ではありますまいな」

「いやいや、そんな本はあそこにないじゃないですか。……この前の休日に露天商から買ったんです。これがなかなか面白くて」

「ほう? 中身はどんなものが?」

「えーと、相手を言いなりにする呪いとか、何かの恐怖症に陥らせる呪いとか。案外簡単そうだったんで、試してみたくなりましたよ。読みます?」

「結構です。……そんなものに現を抜かしていたから、貴殿は今回の試験に落ちたのでは?」

「…………」



 素気なく口にされて、言い返す言葉もない。
 放課後の教室は人気がなく、私は彼に見下ろされながら理学の勉強を進めているが、基礎的な部分で引っかかっていた。目の前の彼に尋ねるのは恥という観念から勿論論外だったし、教書を確認するのだって結局は同じだ。こんなところも分からないのか、と思われるのが怖く、己の手詰まりを隠すために「勉強を見てくれるなんて、ヒューベルトさんって案外優しいですよね」なんて口にしたのが今から少し前のことだった。
 第一印象は、結構怖かったんですよ。違う学級だったら今もそう思ってたかも。呪い殺されそう、って。そんな風に話を逸らしながら、さりげなく教書に手を伸ばしたのだ。こう、分からないんじゃなくて、今は会話に主軸がありますよ、私が教書を開くのは手持ち無沙汰だからですよ、と言わんばかりの仕草でもって。だけど、案外会話が続いたので驚いた。自分から話しかけておいてなんだけど、私の話なんて彼は興味ないと思っていたから。おかげでそっちに集中してしまって、該当の頁を探し出せなかったのだから本末転倒だ。最後にはちくりと言葉で刺されてしまったし。
 ヒューベルトさんの言う通り、先日の試験でこの学級において私一人だけが目標を突破することができなかった。理学で躓いてしまったのだ。こんなにできないならいっそ理学の成績が関係しない別の試験に切り替えるべきかとぼんやり思っていたのに、彼はそれを認めてはくれなかった。勿論、私が志望変更するのにヒューベルトさんの許可は一切必要ないから、振り切って逃げ出しても良かったのだけれど、こうして放課後に当然のように面倒を見られては、彼を突っぱねることもできない。
 会話は途切れてしまったものの、私は開き直って教書を捲り続けていた。「貴殿が詰まっている問題の公式を探しているならば、あと六頁分手前ですが」と声をかけられたとき、だから、驚きすぎて心臓が止まってしまいそうだったのだ。
 ヒューベルトさんって、変に迫力がある。じっと見つめられると何もかもを見透かされてしまうように思うのだ。だけど実際、本当に私の内心を覗き込むくらいはしていたんじゃないだろうか。それか、よっぽど私が分かりやすい人間であるか。二択の問題は、もしかしなくても後者が答えだろうけれど。



「…………そこまで分かってるなら頁じゃなくて普通に教えてください」

「貴殿が頑なに私に尋ねようとしないものですから、私よりも教書に教わりたいのかと思いましてな」

「は、恥ずかしいからですよ! こんな基本的な問題も分からない、なんて思われるのが嫌だったんです」

「今更そんな意地を張ってどうなるというのです?」



 その基本的な問題とやらができないから、貴殿は今こうしてここにいるのでは。と続けられてしまえば、項垂れる他ない。
 く、と押し殺したような笑みが降ってきたのを受けて目線を向ければ、ヒューベルトさんはその眦を細めて私を見下ろしていた。以前ベルナデッタちゃんが卒倒したと言う彼の笑顔は、やっぱりそこに何か多分な含みがあるようで、見ようによっては恐ろしい。
 あえて気にしないようにして、言われた通り六頁分前に戻ろうとした私の手の中の教書を、しかしヒューベルトさんは外側から力を込めて閉じさせた。「あっ」漏れた声は案外非難がましく響いたのに、彼は何食わぬ顔で私の手から教書を取り上げる。



「公式の前に、貴殿は原理そのものを覚えた方が良いでしょう」



 低い囁きが、私とヒューベルトさんの隙間を埋めるように落ちていく。



「お教えしますよ。ただし、一度で覚えてください」



 面倒見の良い人だ。カスパルくんの戦い方に苦言を呈し、姿の見えないリンハルトくんを捜し出し、気絶したベルナデッタちゃんを部屋まで運んだ。これは、それらと何も変わらない。
 そうですよね。
 確かめるように彼の目を見つめた私に、ヒューベルトさんは答えるように口にした。



「我が主君のためにも、貴殿には落ちぶられては困りますからな」



 それがまるで牽制するような物言いに思えてしまったのは、きっと私の気のせいではないのだろう。「一回じゃ覚えられる自信がないです」それには触れずにそう口にした私に、ヒューベルトさんは何も答えず、その足を組んだ。








 教えてくれるのが一回だけなんて、嘘だった。彼は以来、時間が空けば、私の面倒を見てくれた。何もかも、私が落第しないためだ。
 物の言い方を変えたり、角度を変えたりする。理解に至れば遠回しに褒めてくれる。私のだめなところ。いいところ。時折そんな話も交えてくれるその声は低く静かで、心地よかった。
 私が落第しないため、とは言うけれど、畢竟エーデルガルトさんの作り上げるアドラステア帝国のためであることは間違いない。私の面倒を見てくれるのも、個人の資質について話をしてくれるのも、全てがそこに繋がっている。私は彼女を裏切らない駒である。そう認められた私は今、彼に育てられている。



「実は今、例の呪いを試しているんです」

「……ああ、件の本ですか」

「簡単ではあるんですけど、妙に手間と時間がかかるんですよね。一節もかけなければならないのでなかなか大変で……あっ勉強もしてますからね?」

「何も言っておりませんが」

「や、だって今目がすごく怖かったから……」

「……それで、その呪いとやらの進捗は?」



 試験を翌日に控えていた日だったからこそ、直前であるにも関わらず悠長すぎると怒られるのではないかと思ったから、面食らってしまった。彼は案外雑談に応じてくれる人だとこれまでの学校生活で分かっていても、その都度驚いてしまう。興味がないわけではない、と言ってもらえているようだった。そこにはいつも新鮮な驚きと、苦みのある喜びがあった。



「……試験が明日である以上、今更知識を詰め込んでも結果は変わりませんからな」



 合格の可能性について言及することを避けるヒューベルトさんは、私の緊張を解そうとしてくれていたのかもしれない。私が重圧に弱いことを、この学校生活の中で彼は充分に学んでいるのだろう。
 んん、と唸りながら、教書に目線を落とす。この一節の間、必死で勉強したその内容は、もうほとんどが頭に入っていた。ヒューベルトさんに教わったんだから、当然だ。彼はそういう自分を賞賛するような言葉を向けられても喜ばないから、言わないけれど。



「試してはいるけど、まだ途中なんです。前も言いましたけど、手順が簡単な割に時間がかかるんですよね」



 あれは新入生に配られるこの教書に比べれば古くさく、重厚な本だった。ところどころが泥や墨で汚れ、焼き切れた頁もあったから、普通の小説などであれば、間違いなく売り物にはならないだろう。だけど、だからこそ変に本物くさかった。
 毎日、朝日が昇る少し前の時間帯、木に糸を結びつける。同じ時刻、同じ木でなくてはならない。呪いをかける相手の髪と同じ色の糸だ。誰にも見られないように注意すること。一日一本結び続ける。それが三十本になった日、同じ糸を呪いをかけたい相手に結ぶ。指の先でも、腕でも足でもどこでも良い。
 こう並べてみると、やっぱり胡散臭さがすごい。



「…………やっぱりやめといた方が良いかなあ」



 独りごちるように呟いたその言葉に、ヒューベルトさんは「どうしてそう思うのです」と低く尋ねる。教室の外から、私たちの間に広がり続ける空気とは色の違う笑い声が響いた。たぶん、金鹿の学級のヒルダちゃんのものだ。窓から射し込む光の角度が知らぬ間に浅くなっていて、ほとんど目にかかりそうだった。訓練場からは練習用の模造武器がぶつかり合う籠もったような音が聞こえる。緩やかなようで、だけど、色を塗るとしたら、そこにははっきりと濃い何かが存在するような時間帯、私は今、このときの、この時間を愛していた。目の前に彼がいたから。
 どうしてそう思うのです、と言うヒューベルトさんの言葉が、じんわりと染みこむように耳の中に留まっている。
 呪いが失敗したら怖いから。そもそも胡散臭すぎるから。お伽噺にあるように、結果何かを失ったら嫌だから。言い訳はたくさん浮かぶのに、そのどれもが口をついては出てこない。それは全部言い訳で、嘘だから。
 窓に背を向けて椅子に座っていたヒューベルトさんは、逆光で、まるでお日様を背負っているように見えた。百人に尋ねれば百人が彼を闇の似合う人だと答えるだろうと想像がつくような人だったから、似合わなくて、面白かったのに、もう笑えない。



「そこまで手間暇をかけたのなら、仕上げまですべきだと思いますが」



 いつかのように、足を組んだ彼は言う。それがあまりにも他人事だったから、鼻の奥が痛くなる。「どうして」と何とか口にしたのは、返事として不自然ではなかったはずだ。



「貴殿の呪いとやらがどこまで通じるか、興味がありましてな」



 私の制服には、糸が忍ばせてある。好機を逃さないための黒い糸だ。
 相手と同じ髪の色をした糸を一本の木に一節もの時間をかけて垂らし続ける。生々しい執念と怨念の先にあなたはいる。相手の心を奪う呪い、なんて、馬鹿馬鹿しかったな。そう思うなら、私は人目に付きにくい場所のあんな木を、さっさと燃やすべきだ。
 懐からそれを取り出して、彼の指に巻き付けて、「巻き付けた相手と同じだけ賢くなれる呪いです」なんて嘯けば、例えそれが嘘だと見抜かれたとしても、私は最後の仕上げができるはずだった。だけど、きっとこの呪いはもうどうにもならない。
 私のことを一番にして、なんて、それがまかり通ったら、それはきっと私の好きになったヒューベルトさんではないから。



「…………では、試験が終わったら、試してみましょうか」



 作った笑みを浮かべてそう嘘を吐く。「結果を楽しみにしていますよ」ヒューベルトさんの伏せられた瞳がどこを見ているのか、私には分からない。
 試験が終わって、もしも私が合格したら、私たちはもうこうして二人きりの教室で向かい合うことも、きっとない。わざと落ちちゃおうかな、なんて思いが頭を過ぎったけど、そういう狡いことを実行する勇気すら、私にはなかった。結局私は、彼の後ろ姿を見送るくらいが丁度良いのだ。あの木の糸は、帰りしな、全部解いてしまおう。そう決めた途端、すっと心が軽くなった。ヒューベルトさんと目が合わないように、私はそれからずっと、教書を眺めていた。喉の奥がちょっと痛い気がしたけど、きっと気のせいだ。