背後から髪の毛を櫛で梳かれて、思わず息を止める。
休み時間にリサちゃんに髪をいじられているときとは、全然違う。全神経が頭皮に集中して、櫛が髪を滑る感触も、時折触れる指先の熱も、全部に敏感になってしまっている。自分の部屋にいるはずなのに、お尻の下の毛足の長いラグも、手持ち無沙汰で抱えたクッションもちゃんと肌に馴染んでいるはずなのに、テーブルの上のiPadからは可愛い音楽のヘアアレンジ動画が流れ続けているのに、何もない真っ新なだけの立方体に入れられているみたい。ううん、そういう感じ、って思い込んでいないと、わーって声をあげて、この状況から逃げ出してしまいそうだったのだ。――玲王くんから髪を触られている、この状況から。
でも、なんでこんなことになっているんだろう。玲王くんに髪の毛をいじられることになるって知ってたら、ちょっと予定をずらして昨日のうちにヘアパックまでしたのに。いつものじゃなくて、いつものよりも高い、良い匂いのするオイルにしたのに。どれだけ後悔しても、玲王くんの指が全部浚っていく。私の頭の中を漣を撫でて、すり切るみたいにしていく。
身を縮ませて立てた足を抱え込みながら目まで閉じていると、背後の玲王くんが息だけで笑ったのが分かった。
「もーちょい力抜けよ。ガチガチじゃん」
玲王くんはそう笑い声まじりに言うけど、でも、それができるんだったらとっくにしている。反論しようとしたら、たまたま玲王くんの指先が首筋あたりを掠めて、「ひえっ」って声が出た。情けない、裏返った声だったのに、こういうときに限って玲王くんは笑ってくれなくて、ちょっと泣けた。
ホワイトデーを目前に控えた三月の上旬だった。
「ちょっと早いけど、明日チョコのお返し渡すのにんち行ってもいいか?」って玲王くんから連絡があったのは昨晩のことで、二つ返事で了承したのだ。私たちの関係性を伏せている以上他の子たちにするみたいに学校でやりとりをするわけにはいかないからっていうのと、玲王くんが忙しいからっていうのとでホワイトデーよりも早いこのタイミングになってしまったのを謝られたけれど、そんなの平気だった。むしろ色々気遣って、考えて行動してもらえていることが、申し訳ないのと同じくらい嬉しかったのだ。
おうちにやってきた玲王くんが手土産、って渡してくれたのは可愛くてお洒落な一口ラスクの詰め合わせで、これがホワイトデーのお返しなんだって思いこんで、「わー! 可愛い! おいしそう! 大事に食べるね!」って言ってしまった。玲王くんに「いや手土産っつってんだろ。普通に食えよ」って呆れた顔で返されたから、めちゃくちゃ恥ずかしかった。
「お返しは、もっとちゃんとしたやつやるっての」
私からしたら、素人の私がどうにか作った生チョコのお返しなんて、この可愛いラスクでも充分過ぎるくらいだったのにね。
玲王くんに部屋に行ってもらっている間にお母さんに手伝って貰って紅茶を淹れた。その間も、なんだかそわそわして落ち着かなかった。玲王くんが私のために考えて、選んでくれるお返しがどんなものでも私は嬉しかったし、絶対絶対大事にするんだ、って思った。食べ物だったらあらゆる角度から写真を撮って賞味期限ギリギリまで置いておくし、とっておける物だったら生涯の宝物にするんだって、強く思っていた。
だけどその後部屋で渡された紙袋の中の、細いリボンのなされた小さな黒い箱を見た瞬間、ぎょっとしたのだ。私が想像していた以上に、それは「ちゃんと」しすぎていたから。
三倍返しとかって言葉は聞いたことはあるけど、絶対三倍どころじゃない。多分アクセサリーとか、そういうやつ。開けてみないと何かわからないけれど、誰がどう見たって私の作った生チョコには、この箱だけであっても釣り合わないように思えた。
それで思わず、隣に座っていた玲王くんの顔をじっと見つめてしまったのだ。
「……あの、なんかその、お返し、立派すぎませんか……?」
「開けてもねーのにわかんねえだろ?」
「わかるよ~……! 私があげたチョコ、そんな大層なものじゃなかったでしょ……! 有名パティシエのチョコをあげたとかならともかく……!」
「は~?」
玲王くんの形のいい眉が、私の言葉で八の字になる。「相変わらず卑屈だな、お前。美味かった、って言ったじゃん」って。卑屈、と言われると、ぐうの音も出ない。自分の悪いところ、って、きちんと自覚しているから。
「またアレ作ってほしいくらい、俺は好きだったけど?」
真っ直ぐな言葉に、ぐ、と胸をおさえてしまう。
玲王くんは、お日様みたいにびかびかしてる。私のことを影まで照らして、勇気づけてくれる。「来年もアレがいいな、俺」って首を傾げられて、色んな感情で胸がいっぱいになって、すぐには頷けなかった。口を開けたら「すき」って言ってしまいそうで、むずかしかった。
「わー……! かわいい……!」
ブランド名らしき英語が印字された黒い箱の中に入っていたのは、細身のリボンを模したバレッタだった。
天井からの灯りを吸い込んで、それはきらきら輝いていた。光の粒が集まって、世界で一番かわいいものとしてそれを形作っているみたいだった。繊細なそれをそっと手の平に乗せたときの感動っていったらない。すごく素敵だったのだ。こんな可愛いバレッタで髪の毛をまとめていたら、それだけで一日中ご機嫌でいられるだろうなってくらい。
――私がリサちゃんみたいに器用でどんなアレンジもお手の物、ってタイプの女の子だったら、一番よかったんだけど。
「に似合うと思ってそれにしたんだけどさ。……でも、あんまそういうの使わないか?」
私の中に薄ら浮かんでいたものを、玲王くんは嗅ぎ取ったのだろうか。がっかりさせたくなくて、慌てて首を振った。
髪をまとめるのはあんまり得意じゃないけれど、こんなに可愛いバレッタがあるならいっぱいアレンジの練習をする、絶対たくさん使う、動画とか見て勉強する、ほんとにかわいい、すっごく嬉しい、って、オーバーなくらい訴えた。玲王くんはそれを、静かに聞いている。表情がずっと変わらないから、ちょっと心配だった。だけどちょっと考えるみたいに唇を結んでいた玲王くんは、言ったのだ。
「ちょっと俺にやらせてよ、髪」
って。
球技大会の日、曲がっていたリボンを直してもらっただけでドキドキしてどうしようもなかったこと、忘れていたわけじゃなかったはずなのに、なんの濁りもない目で真っ直ぐ見つめられてしまって、首が振れなかった。
動揺しながらも小さく頷いた私に、「ん、じゃー背中向いて」って首を傾げて笑った玲王くんはなんの裏表もなさそうだったから、意識している私が変なんだ、多分。
下心があったわけじゃなかった。本当に興味本位で髪を弄らせてほしかっただけだ――なんて言っても、なんの説得力もねえな。
ソファの下に座って小さくなったの頬は赤く染まっていて、俺が少し指を滑らせただけで、微かにその肩が震える。強張った手足は丸くなって、なんか悪いことでもしてるみてえ。髪、結んでるだけなのに。
テーブルの上のiPadが流すヘアアレンジ動画に目をやりながら、の髪を編み込む。耳も首も妙に熱っぽくて、身体はガチガチで、ちょっとでも髪以外のところに触れてしまえば大仰に反応するに、無心でいろなんて言われたって無理な話だった。
失敗したな、とは思うが、どこから間違えたのか判然としない。そもそも不器用だって分かっている相手にバレッタなんか選んだのが間違いだったのかもしれないが、だけど箱を開けたとき、ぱっと目を輝かせて「かわいい!」と口にしたのことが愛しくて、可愛くてたまらなかったから、そこはやっぱり、間違えたと思いたくないのだ。
耳を指が掠めた瞬間「ひあ」と声をあげるに、勘弁してくれとは思うけど。
の小さな頭蓋を見下ろす。細い肩や首筋に、征服欲っつーか、そういうのがむくむくと芯の方から湧き上がるような心地がしたけど、どうにか堪えた。まとめた髪の仕上げにバレッタを止める。乾いた音が動画の音声を上塗りするように響いた瞬間、ほっとしたように肩の力を抜いたを、本当は抱きしめたかったのだ。そこで止まれる保証が俺になかったから、そうしなかっただけで。
耳のあたりで淡く輝くバレッタをそっと撫でるに、「似合ってるよ」とだけ言った。俺の言葉にはくすぐったそうに笑ってくれたから、それだけで、今は充分だ。