いくら「超高校級の絶望」たちの眠る孤島とは言え、未来機関の職員が生活する以上は嗜好品の類の一切がこの島にはもたらされないかというとそういうこともなく、本土からの定期船にはお菓子なんかもそれなりに積まれている――っていうのを、用事があって訪れた食料庫の棚に足をぶつけてしまって思い出した。
日寄子ちゃんがプログラム内で良く食べていたグミとか、十神くんを騙っていた詐欺師の「彼」が好きそうなドーナツ。かつて「洒落こいたレアとは一線を画している」と唯吹ちゃんに言わしめた、ベイクドチーズケーキ風のお菓子。その中でちゃんとした箱に入ったチョコレートを見つけたとき、寝不足の頭を断続的に襲う鈍い痛みに顔を顰めながらも、あ、と思ったのだ。あ、そういえば、もうすぐバレンタインだった、って。
チョコ風味のバーとかだったらそれなりに出回るし私自身も良く口にするけど、きちんと箱に収められた「バレンタインを想起させるようなチョコレート」ってこの島では滅多に見かけないから、つい手に取ってしまう。小さな箱だけど、さらさらした手触りで、お高そうなチョコだ。
「えー、こんなの珍しいねえ。美味しそう~!」
最近食料庫の管理を任されるようになった花村くんに声をかけたら、「ふふ、いいでしょう。それねえ、ぼくのチョイス」ってウインクされた。なんでもバレンタインが近いからと、どうにか手配してくれたらしい。さすが花村くんだ。食べ物のかかわるイベントごとには、センサーが鋭い。
「さん、去年のバレンタインは既製品を詰め替えたのを配ったって言うじゃない」
「それ、花村くんが目を覚ました直後くらいに日向くんがした話だよね……。忘れてほしいんだけど……」
「はは、忘れないよ。あのときさん、ぼくにチョコレートの作り方を教えてほしいって言ってくれたよね。……ぼく、あれ嬉しかったんだよ。すごく」
超高校級の料理人である彼は、本来だったらこんな既製品を準備する必要のない、むしろ作る側の人間だ。未来機関の許可さえ下りれば、花村くんはほっぺたどころかいろんなものが落ちちゃうらしいチョコだって作ってくれるんだろう。でも簡単な下ごしらえくらいの許可は下りても、完全な料理となると、未来機関としてもなかなか認められない、というのが上層部の意見らしいのだ。――絶望に染まっていたかつての彼が犯した罪を考えれば、それも仕方がないのかもしれないけれど。
未来機関としての事情も、彼はきっと分かってくれているんだろう。花村くんは食料庫の資料が収められたファイルから顔を上げ、申し訳なさそうに微笑む。
「今年はまだきみのチョコ作りの手伝いは難しそうだからさ、これがお手伝いってことにさせてよ。それで、来年以降リベンジさせてもらえるかな」
「花村くん……! 勿論だよ……! ありがとう。……じゃあこれ、花村くんが折角準備してくれたチョコ、いただきます……!」
「ふふ。どういたしまして」
だけど、ぱって目の前に花村くんの小さい手の平が広げられて、思わず首を傾げる。なんだろ、この手。答えはすぐに出た。
「それ特別に持ってきてもらったやつだから、離島への送料込みで一つ三千八百円ね」
続けられたそれに思考を停止させられながらも、「お給料から天引きとかって可能ですか……」となんとか口にした。日向くんたちには今年も既製品の詰め合わせだなって、頭の隅で考えながら。
チョコを抱えて食料庫を出るとき、足がもつれて扉にぶつかった。丁度廊下を歩いていた九頭龍くんに、ギョッとした顔で見られて、ものすごく恥ずかしかった。
さんは「手作りなんてもうぜったい無理」って言うけれど、ボクはむしろさんからチョコをもらうんだったら手作りの方が嬉しいんだよね。こうしてきちんとしたものを準備してもらった以上、口に出すのは憚られるけどさ。
こんなもの(まだ世界を絶望が覆う前だったら、いくらでも転がっていただろうチョコレートだ)がこの島にあるなんてなかなか信じがたいけれど、どうやら最近食糧の仕入れを担当している花村くんが特別に手を回してくれたらしい。……随分気が利くよね。見た目からしてバレンタイン然としたチョコレートの箱は金色のリボンが結ばれていて、それはさんの手にあるとひどく可愛らしかった。「ボクに?」って尋ねると、さんは「そうだよ、これは凪斗くんに、だよ」って、ちょっと困ったような顔で言う。
バレンタインの夜だった。わざわざボクの部屋を訪れてくれたさんは、ボクの淹れたココアの入ったマグカップに手を添えながら、「他の人は、また既製品の詰め合わせなんだけど」って、内緒話でもするみたいに小さな声で続ける。ボクの部屋に落ちるさんの声は、いつも優しい。
「そしたら左右田くんに、今年も詰め合わせかよって言われちゃった。日向くんとかは黙って受け取ってくれたけど」
「もらえるだけ有り難いのにね」
「あは、どうだろ、私の自己満足みたいなのもあるからなあ」
「自己満足だとしても、だよ」
チョコレートをテーブルに置いてソファに座るさんの隣に腰を下ろすと、さんは少しだけ反応して、ボクの反対側に指数本分だけ移動する。それにちょっと傷ついている、なんて、彼女は信じてはくれないんだろう。
じっと彼女の顔を見たら、何秒か見つめ返された後、そろりと視線を逸らされた。緊張しているのかもしれない。ここ最近のさんは多分に漏れず忙しく、ボクと二人きりになることもほとんどなかったから。
未来機関から支給されたスーツを脱いで、やわらかいニットワンピを着たさんはボクの視線に堪えかねたのか、「えっと、チョコ、食べないの?」と、口にする。手配したのは花村くんらしいとは言え、さんがボクにくれたチョコだ。食べないわけない。「食べるよ」と短く返してから、「――あとでね」と続けたら、さんはほんのすこしだけ目を丸くした。その目の下に濃いクマがあるのが、今日彼女の顔を見たときからずっと気になっていた。
未来機関の正当な職員であるさんは、ボクたち絶望の残党と呼ばれる七十七期生とは違う。責任や、途轍もない重圧の中で、目を覚ましたボクたちや、まだ眠り続ける彼らのことを考えて、三百六十五日、彼女は必死に走り回っている。調書を取り、生体反応の確認をし、本部と連絡を取り、紐山さんとプログラムについて話し合い、ボクらの要望に答えてくれる。――疲れないわけがないよね。
「よいしょ」と小さく声に出して、姿勢を正した。彼女がさっきそうしてみせたように、だけどその時よりもはっきりとソファの端に寄って、太股の辺りを軽く手で払う。不思議そうにボクを見るさんに、首を傾げて、なるべく安心してもらえるように笑った。
「どうぞ」
「え、なに?」
「さん、疲れてるでしょ?」
ボクなんかの膝でよければ寝ていいよ、って口にした瞬間、さんは「えっ」って上擦った声をあげる。
恥ずかしがり屋の彼女がすぐにそれを受け入れると思っていたわけじゃなかったけれど、断固拒否、ってこともないだろうと踏んでいた。さんは見たまんま、押しに弱いから。
実際「え、えー!? 膝に……!?」って躊躇いながらも、ボクがちっとも引かないのを見ると、最終的にさんは「じゃあ、その、ちょっとだけ」ってボクの膝に頭を乗せてくれたのだ。小さく丸い頭蓋はさほど重くなく、つい触ってしまった髪の毛は柔かった。「凪斗くんの足、かたーい……」って小さく笑いながら呟くさんの声は、ちっとも角がなくて、ともすると本当に眠ってしまいそうな柔らかさがある。
髪の毛をゆっくり梳いていると、さんの呼吸は少しずつゆっくりになっていく。無防備な背中を向けてくれるのが嬉しくて、ああ、好きだなって思う。長い睫毛が伏せられていくらか経ったとき、「ねえ、凪斗くん」って、彼女がボクを呼んだ。
「ん? なあに?」
「なんで、私がつかれてるってわかったの?」
波にたゆたうような声を聞きながら、「そんなの、キミの顔を見ればわかるでしょ」と答えるボクに、さんは息だけで笑った。「今日、チョコをあげるのに色んな人とお話したけど、誰にもばれてなかったのにな」。大丈夫だとおもったのに、おかしいな、って。一体ボクが何年キミを見ていると思っているんだろう。つい笑ってしまったら、つられたみたいにさんも笑った。掠れた声の消えゆく先まで愛おしかった。それが寝息にかわるまでは、ほんのわずかな時間だった。
睫毛の先に、安い電球から零れる光が落ちている。さんが数口だけ飲んだココアがマグカップの中でまだ微かな熱を放っている。身体の横に放られた手の、ちいさな貝に似た爪。鍵盤を叩けなくても、ボクはそれに価値があると知っている。
彼女が目を覚ましたら、チョコレートを一緒に食べよう。だけど去年の、「ひどかった」ってキミが言うチョコも、ボクは好きだったんだ、本当に。