「あれ?」と思ったことを、俺はあれから三年が経った今でも思い出す。
二月だった。それまでの俺にとっては本当になんでもなかった日だったはずなのに、あの日俺は思ったのだ。あれ、この人俺にチョコくれないんだ、って。
学校で視界の端に入ったチョコレートのやりとりでようやくその日がバレンタインだって気がついたくらいには興味はなかったのにね。でも、もらえるんだろうなって当たり前みたいに思ってた。「さん」はそういうイベントごとが好きそうだったし、俺達寮生に対して、必要以上に気遣ってくれる寮母さんだったから。――そうじゃなくてもあの頃の俺は、彼女が俺のことを好きなんだろうと思っていたのだ。別にこれは思い込みとかじゃなくて、わかりやすかったんだよね。表情とか、視線とか、そういう一挙手一投足を注視していれば、誰だって勘づいただろうくらいには。
さんはだけどその日、まったく普段通りに過ごしていた。チョコのチョの字も出さず、あの頃俺にだけ作っていた微妙な膜を崩さず、その背に俺のあげたふら輪のクッションを置いて、「おかえりなさい、凪くん」って、ぎこちない顔で笑っていた。あ、くれないんだ。俺のこと好きなのに。あの時そう思ってたなんて言ったら、あんた、どんな顔するんだろう。
その後姿を眩ました彼女を捜して、やっとその手を掴んで引きずり出した春から、もうすぐ一年。
「さん」は今もちゃんと、俺の彼女だ。
クラブチーム宛てに送られてきたものはさておいて、所属しているチームの寮の部屋の番号まで書かれている荷物は大抵こっちの手元に届くようにはなっているけれど、その荷物の中にの字を見た時は、「これなんだっけ」ってちょっと考えた。それに全く心当たりがなかったのだ。
いつもだったらあの人は前もって、あれ送っただのこれ送るだの、きちんと連絡しておいてくれる。だからひょっとしたら俺が覚えていないだけで、これについても先立って何か言及があったのかもしれない。俺、結構人の話聞いてないらしいし、ふつーに聞き漏らしている可能性、大。
片手で持てるくらいの、さして重量のない小さな包みだった。最近の彼女とのやりとりを頭の中で思い返していたら、見かねたらしいチームメイトが「時期考えたらチョコだろ」ってどこか忌々しげに言ったから(確かこいつは先月彼女と別れたって言ってたから、やっかみだろう)、思わず「あー、チョコ」って口にする。言われてみれば確かに、要冷蔵だった。
そんで、言われてみれば確かに、今日はバレンタインだった。
バレンタイン、って認識した瞬間、頭の隅っこに、三年前のが浮かんだ。
時差を考えたら電話よりもメールの方が面倒臭くないんだけど、一回繋がっちゃえば電話の方が断然楽だし、声も聞けるから、俺は電話派。用事もすぐ済むしね。
その日の練習の後、色々片付けてから駄目元で電話してみたら、は何度かのコール音の後に「もしもし!」と電話に出た。日本は今、朝の九時くらい。この時間に出られるってことは、は今日仕事が休みなのかもしれない。イギリスに発つ前に会いに行ったときの作業場みたいな店舗の花屋を、無意識に頭の隅に思い浮かべる。彼女は今もあそこの従業員だ。
「誠士郎くんだ、おつかれさま~」
スマホの向こうから聞こえる、俺の名を呼ぶ柔らかい声。
妙にくすぐったくて、一度耳から離して当て直した。「ん、もおつかれー」と口にしてから「仕事、今日休み?」と尋ねれば、は「休みだよ!」と、朝の九時にしては溌剌とした声で答える。半年そこそことは言え過去に寮母なんて仕事をしていたから朝早いのにも慣れているのだろうかと思ったけれど、は元々朝型らしい。……俺からしたら、奇特すぎるタイプだ。休みなら尚更、夕方まで寝たいくらいなのに。
「今日はお休みだから部屋の掃除してたとこ。誠士郎くんは今日は試合じゃなかったよね。練習お疲れさま~」
「ん、どーも」
「で、急に電話なんかくれてどうしたの? 私に用事?」
「えー、用事はないけど」
「ないんだ……」
当たり障りのない会話をしながら、テーブルに置いてあるチョコレートの箱に目をやる。
がくれたのは、なんか、レオとかが好んで食べてそうな立派なチョコだった。カードも何もなかったけど、まあバレンタインで所謂本命にあげるやつだよな、みたいなやつ。俺自身はチョコレートに拘りも何もないから、善し悪しなんか全然わかんないけど。でも箱の中に整然と並んだチョコレートの粒は部屋の灯りにキラキラ光って、きれいだった。何の気なしに口に放ったら、鼻に抜けるような濃い匂いがした。大分高そうな味だった。
「……あれ? 誠士郎くん、なんか食べてる?」
「うん、チョコ食べてるー」
「え、いいなあ! どんなやつ?」
「いや、あんたがくれたやつだけど」
「――あ!?」
あ!? と叫んだ直後、どこかに頭でもぶつけたのか、ガン、って鈍い音がした。それから「いだっ」という悲鳴も。「大丈夫?」と尋ねながら、二つ目にいく。こっちはオレンジピールかなんかが入ってるっぽい。さっきよりちょっと爽やかな風味だけど、これもお高い味だ。
「え、あれ? 嘘、それもう届いた? ひょっとしてバレンタイン終わってる?」
「あー、うん、そうだね。さっき終わったとこー」
「うわっ、ほんとだ……! 一日勘違いしてた……」
「…………ねえ、それ、仕事の休みも一日勘違いしてないの?」
「してないしてない、だったら今頃連絡きて…………」
言いながら声が遠のいたのは、多分連絡が来てないかを確認したんだろう。数秒経ってから、「ない!」と口にしたの声には、分かりやすい安堵の色が滲んでいる。
そういう彼女を見ていると、相変わらず抜けてるとこがあるな、と思わざるを得ない。
は俺が高一のとき、半年だけ俺の住んでいた寮の寮母を務めていた。妙に頑張り屋だけどちょっと抜けていて、時折急に視野の狭くなるところのある人、っていうのが当時からの俺の認識。それこそうっかりテーブルに後頭部をぶつけそうになったり、荷物が届くことを忘れて買い物に出かけてしまったり。喜怒哀楽の感情(特に喜と哀と楽)が分かりやすく表に出るタイプだったから、見ていて飽きなかったけれど。
三つ目を口に入れたあたりで「チョコ、おいしい?」と聞かれたから、「ん、おいしい」と口の中で溶かしながら答える。咀嚼しなくても勝手に溶けるから、チョコっていいよね。そう言ったら、「絶対言うと思った」って、は電話越しに笑う。の笑い声は、体積がすくない感じがして、ちょっと眠くなる。
「チョコね、誠士郎くんのことビックリさせちゃおうと思って、こっそり送ったんだよ」
「へー。で、忘れてたんだ」
「ち、ちがうよ。覚えてたけど、昨日じゃなくて今日が十四日だと思ったの。やだなー、もう、昨日店長に『ちょっと早いですけど……』って言ってチョコあげちゃったよ……!」
「当日じゃん」
「そうだよ、道理でキョトンとされたとおもった~! 恥ずかしすぎる……」
へー。チョコ、店長にもあげたんだ。そう思うと胸のあたりがざらついたような感覚になる。でも、俺がそれを自覚するよりも早く、が「や、店長のはアレだよ、お徳用の麦チョコ大袋だよ」って言い添えてくれたから、ざらつきはそのまま溶けてなくなった。俺って案外嫉妬しいらしい。レオのこと、全然笑えない。
「ほんとは、誠士郎くんには手作りあげたかったんだ。でもイギリスに送るって思ったら無理だし、だからすっごい調べて、それにしたの。美味しかったならよかったぁ」
「え、俺手作りのチョコ食べたい。の料理すき」
「えー! へへ、急にすきとかいわないでよ、照れる」
「すきすきー。今から作りに来てー」
「急にめちゃくちゃ難易度高いこと言うねえ……!」
じゃあ、また今度イギリスに行ったときか、誠士郎くんが日本に帰ってきたときね。
はくすぐったそうに笑ってそう続けた。がそういうことを言うと、心の隅のあたりが緩むのがわかる。あ、そんな先の約束してくれるんだ、っていうのが、普通に嬉しい。俺は別れる気とか全然ないけど、もそうなんだ、ってわかって。
高校のときは別に年の差なんか気にしてなかったけど、こうして離れて暮らしていると、俺の中にある焦りみたいなのって、そこに一因があるのかもなって思う。は俺より四つだったか五つだったか六つだったか年上で(ちゃんと覚えてないけど、こんくらいだった)、最近ちらほら結婚する友達が増えてきただの、同窓会に行ったらパパになってる人がいただの教えてくれて、俺はその度にちり、と身体のどっかに微かな熱を覚えるのだ。
だから、ほんとに来てくれないかな、と思う。冗談って受け取られちゃったけど。映画でも観に行くみたいな気軽さでこっちに来て、そんでそのまま永住しちゃえばいい。こっちにも花屋はあるし、英語がしゃべれなくたって、住んでるうちにどうにでもなる。舌の上からチョコレートが消えてなくなるまでの間、そんなことを考えていた。ちゃんと閉めてなかったカーテンの奥、窓の向こうで、車のヘッドライトが遠ざかっていった。
「チョコの動画、いっぱい見たんだよー。男性ウケするやつはこれ、みたいなやつ片っ端から調べてね」
「チョコなんかなんでもいいよ、俺」
「そういうわけにいかないでしょー。初めてのバレンタインなんだし、手作りが無理でも、美味しいの食べてほしいじゃん!」
ほんとになんでもいい。義理と差だけつけてもらえれば。そう思いながら聞いていたけれど、初めてのバレンタイン、って言葉に、だけどつい反応してしまった。「初めて?」って、口にしてしまう。
――俺がに告白をしたのが、去年の春。付き合いはじめてから、という観点で言うならとのバレンタインは確かにこれが初めてかもしんないけど、でも厳密に言えば「初めて」じゃないんじゃないの。
「バレンタインは実質高一のときが初めてなんじゃないの? なんか普通にスルーされたけど」
わざと「スルー」のあたりを強調して言うと、スマホの向こうでが息を飲んだのが分かった。なんだ、自覚はあったんだ。
高一のときのアレ。物理的な距離でいったら今よりよっぽど近くにいたのに、チョコをもらえなかった。義理ですら。
はややあってから「や、あのときはその、引き継ぎとか入寮生の手続きとかで忙しくて……ほんとにその、他意はなく……あとで気がついたくらいで……」とごにょごにょと言い訳するけれど、あの「さん」がチョコレートを準備していないとわかった夜、寮の食堂は大荒れだったことをこの人は知らないんだろう。あの日食堂で、だらだら夕飯を食べていたから、覚えている。寮生たちが揃って神妙な面持ちでいたこと。
球技大会のあとにわざわざ飲み物まで用意してくれたあのさんが俺達にチョコをくれないはずがない。クラスのやつらに一個は確実って自慢していたのに。実はこの後食堂に来て配ってくれるんじゃないか。俺達はドッキリを仕掛けられているんじゃないか。――夕飯なんかとっくに食べ終わってるのにほとんどの寮生がいつまでも食堂から離れないもんだから、結局見かねた食堂のおばちゃんが小さいチョコを一個ずつくれたけど、寮生たちの落胆はあまりにも分かりやすかった。
「俺も『さん』からのチョコ、ほしかったなー」
「さん」が俺にだけしてくれる特別扱い、はそんなことしているつもりはなかったって言うかもしれないけれど、俺は嬉しかったから。
何の気なしにぼやいた言葉に、電話の向こうのは咽せる。言葉にならない声を漏らして、何度か言い淀んで、それからは声を震わせながら「いじわる……!」って言った。それがどうしようもなく、可愛かった。
勿論、今となってはあの時のの煩悶も、わからないとは言えない。ドラマなんかじゃあるまいし、寮母っていう立場上、寮生に恋愛感情なんか抱いていいわけがないのだ。例え互いに両思いだったとしても、卒業までは適切な距離を保つべきなんだろう。がそうして何も言わずに俺から逃げたように。
目の前で艶々と輝くチョコレートを視界の真ん中に置いて、「意地悪」と言ったに、「そうだよ」と、小さく息を吐く。
「俺、結構意地悪だよ。……知らなかったの?」
俺はおっさんの店長やもうのことなんか一年に一度思い出すかどうかだろう寮生たちにだって嫉妬するし、普通に我儘。性格なんかいいわけじゃない。
だけどのことは、本当に大切に思っているのだ。本当はこっちに連れてきて、ずっと一緒に暮らしたいって思っているくらいには。俺のためにご飯作ってくんないかなって、常々思っているくらいには。
俺のお嫁さんになって、ちゃんと幸せにするから、って、どういうタイミングでいうのが良いんだろう。今度レオに相談しよう。頭の端っこでそんなことを考えながら、の唸る声を聞く。の地元では流されるらしい、ゴミ収集車の軽快な音楽がその背後で響いているが耳に入って、それすらも愛おしくて、ちょっと笑った。