御影先輩のことを知らない人なんて、この学校にいない。
あの御影コーポレーションの御曹司で、容姿端麗、眉目秀麗。成績はズバ抜けて優秀で運動神経もよく、人当たりもびっくりするくらい良い。天は御影先輩に二物どころかそれ以上を与えていて、御影先輩を讃える言葉は耳にすれど、彼を悪し様に言う人なんか探したっていやしない。御影先輩はまるで完全無欠の球体。誰かが膜で覆われたそこに傷をつけることは難しく、彼は生まれ持ってすべてを与えられ、それを正しく扱う術を知っているであろう人だった。
多分、御影先輩はこれから先も、正道でもって突き進むんだろう。お父さんの後を継ぎ御影コーポレーションの社長となっても、敵を作らず、洗練された審美眼と嗅覚で正しさだけを選び取っていくんだろう。政界人や著名人を多く輩出する白宝でも、彼の名はどこまでも神々しく輝き続けるに違いない。――だから、凡人の私とは、全然関係のない世界の人。
そう思っていたから、憧れはありながらも、それ以上のことなんか望みようがなかった。
昼休み、図書室で一人ノートを開いて勉強していた私の横を先輩が通り過ぎたとき、私は顔をあげなくてもそれが御影先輩だって気がついた。
こんなこと誰にも話せないから、皆がわかっていることなのか、それとも私だけがそれを感じ取っているのかはわからないけれど、御影先輩ってこう、「御影先輩!」って感じの独特のオーラを常にうっすら放っている。きらきらで、ぴかぴか。滝のそばの空気みたいに清涼で、だけどじんわり熱を持つ。日や時間帯に左右されることなく放たれている、一定の周波。私にとって御影先輩は、磁場をつくる光だ。いつも薄く発光して、目を奪われずにはいられなかった。――さすがに今彼のことを目で追ったら、じろじろ見すぎてバレてしまいそうだから、我慢するけれど。
御影先輩は誰かを捜していたみたいだった。図書室だからおおっぴらに声を出すことはなかったけど、コソコソした声で、女の先輩とそういう会話をしているのが聞こえてきた。
「え、だれだっけ、それ」
「あー、あれでしょ、あのおっきい人」
「そうそう、見かけてねえ?」
――おっきいひと、だけじゃ、誰のことを言っているのかわからなかった。うちのクラスで一番背の高い茅野くんを頭にぼやぼや浮かばせながら、不等式の問題を解いていく。茅野くんだったら教室にいたけど、でも絶対、茅野くんじゃないな。おっきい人、ってだけの理由で私に選出された彼は御影先輩と接点なんかなさそうだったし、そうじゃなくても茅野くんは休み時間になるといつも教室の後ろの方で本を読んでいた。もし本当に彼だったら、捜し人としての難易度はそう高くないはずだ。御影先輩が捜しているのは、あちこち歩き回って捜さなければ見つからないような人なんだろう。
そのとき私の頭の中は御影先輩の存在が三割と、御影先輩に捜されている誰かについてが三割、茅野くんが二割(さっき茅野くんが読んでいた本の表紙がきれいだったから、厳密にいうとその本について)、解いている問題についてが一割、あとは無数の、取るに足らないことたちで一割だったから、「とりあえず他行ってみるわ、ありがとな」って声がすぐ背後でするまで、御影先輩がそこにいることに気がつかなかった。
気を抜いていたから、身体がびくりと震えた。でも、それと、御影先輩が私の肩あたりにぶつかったのとは、全く別の話だ。
「わ」
衝撃で、ノートに走らせていたシャーペンがぐって動く。
罫線の中に収まるように書いていた数字の羅列は勢いよくはみ出て、シャーペンの芯が強くなった筆圧に堪えられず折れた。危なかった。そうじゃなかったら図書室の机まで汚していたっておかしくなかったから。「――あ、悪い」と向けられた声は間違いなく御影先輩のもので、瞬間心臓がけたたましく跳ね上がった。
「大丈夫か?」
御影先輩の目。
つり目がちなのに丸くて、瞳の部分が大きい。形のいいくっきりとした二重の双眸の奥には御影先輩を御影先輩たらしめている意思の強さがあって、目が合った瞬間、取って食われるんじゃないかと思った。
きれいだった。
シャーペンを握りしめたまま、「だ、いじょうぶです」って、最初の一音だけひっくりかえってしまった声で呟く。御影先輩は「怪我してないなら良かった。ほんと、ごめんな?」ってもう一度言い残すと、そのまま足早に図書室を出て行ってしまった。きらきらのオーラを放つ御影先輩の後ろ姿が扉の奥に消えるのを、視界の端で追っていた。御影先輩がぶつかった肩とか、背中は、いつまでも熱を持っているみたいにじんじんしていた。
御影先輩は今年度になってからサッカー部に入ったらしい。
その実力といったら物凄くて、幼少期からサッカーをやっているクラスの男子(勿論、彼もまたサッカー部だ)が「御影先輩マジでヤバイ、ほんとヤバイ」って連呼するくらいだった。御影先輩は元々サッカー経験がなかったにもかかわらず、恵まれた才能と環境を駆使して、たった一年足らずの特訓で並の経験者では立ち打ちできないレベルにまで到達しているんだって。めざせ、全国制覇なんだって。うちのサッカー部って弱小らしいのに。そんな話を耳にすると、益々自分とは遠い人のように思えてしまう。
購買でお昼ご飯のパンを買ったあと、ついでに飲み物も買っていきたくて、一旦友達と別れた。いつも混み合っている自販機は今日は空いていて、私と、背の大きな男の先輩しかいない(その先輩は自販機よりも大きくて、壁みたいな背中だった。多分、茅野くんよりも大きい)。ラッキー、って順番を待って、それからいつものカフェオレを買って、取り出すためにしゃがんだときだった。自販機コーナーの外の方に、御影先輩がいるな、って気がついたのは。
御影先輩は、本当にそこにいるだけで悲鳴があがったり、声をかけられる。だから彼の纏うオーラがどうこうとかじゃなくて、単純に周囲の反応だけでその所在が分かるときの方が圧倒的に多いのだ。
カフェオレを片手に、せめてその顔だけでも拝んでおこうと自販機コーナーから出たとき、だからちょっと気を抜いていたんだと思う。浮ついていたっていうか。視野が狭かった、っていうか。「おい、なぎ――」って、御影先輩は自販機コーナーに飛び込んで来た。私も丁度、同じような感じで廊下に出ようとしていた。正面からぶつかってしまうのは当たり前だったし、体格差を考えれば、私がよろめいて転倒しかけるのも、当然のことだった。御影先輩の胸あたりに顔面がぶつかって、「ぶえ」って、不格好な声が出た。カフェオレが手から吹っ飛んで、床に音を立てて転がった。未開封で、よかった。
なぎ。って、先輩は言った。脳裏に、ついさっきまでここにいた、廊下側からじゃなくて外に続く扉から出て行った背の高い先輩のことが過ぎって、あ、あの人が御影先輩の捜していた、おっきい人――なぎ先輩なのかな、もしかして御影先輩は、彼の姿を見て追いかけてきたのかな、って思ったけど、よろめいた私に御影先輩が目を見開いて駆け寄ってくれたおかげで、全部飛んだ。
「うわ、悪い! 大丈夫か!?」
「――だ、だいじょうぶです。私こそすみません、御影先輩……」
目の前がチカチカしていたし、大丈夫か大丈夫じゃないかは実際の所判然としなかったけれど、とりあえず「大丈夫」って言ってしまうのは日本人のさがなのかな。でも、全然大丈夫ではなかったみたいだ。
ぼやっとした視界の中で、私を見た御影先輩の顔が青ざめる。鼻の奥あたりの違和感に気がついたのは先輩の視線のおかげで、思わず手の甲を鼻のあたりにやって、それでようやく先輩の見せた表情の意味に気がついた。
ぶつかった衝撃で、鼻血が出ていたのだ。
「ぎゃっ……!?」
御影先輩の前で鼻血を出した女って、この世で何人くらいいるんだろう。
鼻血女と認識されるのは流石に苦しいから、できたら二人目以降だとありがたいな。
多分、一緒に居たのが御影先輩で、その御影先輩に「保健室行くぞ」って言われたんじゃなかったら、鼻血なんか鼻にティッシュでも詰めてやりすごしたと思う。勿論止まるまでは人目のつかないところにいただろうけれど。でも御影先輩は私の鼻血なんかを物凄く心配してくれた。自販機コーナーから目と鼻の先にある保健室まで、放っとけば良いのに、わざわざ連れて行ってくれた。こういうところだ。こういう人だから、皆彼のことが好きなのだ。先輩の半歩後ろを鼻を押さえて歩きながら、噛みしめるようにそう思う。
だけどいかな御影先輩と言えど、万事上手くいくわけではないらしい。「職員不在」って札の下げられた保健室を見て、「げ」って漏らした先輩は、「開いてねぇ……」って、低く続ける。
お昼休みが始まって少し時間が経っているのも関係しているのか、恐らく大多数の生徒が昼食を食べているのだろうこともあって、保健室周辺はひっそりと静まっている。窓の外、とうに花期をを終えた木蓮が、青々とした葉を風に揺らしていた。五月だって言うのに、陽の差し込まないそこは薄ら翳って、寒々しいくらいだった。
片手で少し凹んだカフェオレの缶を持ち、もう片方の手でポケットティッシュごと鼻を押さえながら、「大丈夫ですよ」って言ったのに、ティッシュのせいでくぐもったような声色になってしまった。先輩が振り向く、それだけで胸の辺りがさざめいて、緊張する。
「す、すぐ、止まると思います。鼻ぶつけただけだし。……ここでちょっと休んで、先生が戻ってきてくれたら看てもらうんで」
だから先輩はもう行ってください、という意味で言ったのに、御影先輩は「う~ん」って唸って、それから一度、壁に背を預けた。御影先輩の一挙手一投足を、ドキドキしながら目で追いかけてしまう。日陰の室内でも、先輩はきらきらしている。
「じゃあ、待つか」
先輩も一緒に、待ってくれるんだ。
声にはできなかった。私は思っていたより緊張していて、この状況を薄ら「役得」って思っているみたいだった。
御影先輩は「なぎ先輩」を捜している途中で、私に構っている暇なんか、本当はない。それを知っているから、だからこんなに、嬉しく思ってしまうんだろうか。
先輩はじっと私の目を見ると(鼻の方には、彼は視線をやらなかった。気を遣って、わざとそうしないようにしてくれているみたいだった)、小さく首を傾げた。何か疑問があるからそうしているって言うよりも、それは先輩の、癖みたいに見えた。
「鼻、痛かったろ? ごめんな」
御影先輩の優しい声に、思わず背筋が伸びる。慌てて首を振ったけど、タイミングを逸してしまって声が出なかった。体育館に向かって走って行く男子生徒の声がすぐそこでしたけれど、それは足音と共にあっという間に遠ざかっていった。
御影先輩は「ていうか、俺さ」って、続ける。静かな低音が、染みこむみたいに私を侵食して、それが心地よかった。心地よかったから、その後に吐き出された言葉が一瞬理解できなかったのだ。
「この前もぶつかっちゃったじゃん。図書室で」
「えっ」
「ほんと、何回もぶつかってごめん。次からはもーちょい気をつけるわ」
短い眉を下げてそう言う御影先輩の言葉にどれだけ驚いたかなんて、きっと御影先輩にはわからないんだろう。だけど言葉を失う私に先輩は、「どした?」ってゆっくり瞬いた。目を見ていられなくて、先輩の指を見た。骨張った、ゴツゴツの、私のものよりもずっと長い指。すぐそこにあるのが信じられなくて、急に耳の奥がキンって鳴った。
「……え、えっと、覚えててもらえてるって思ってなかったので」
それでも捻り出すように答えた私に、ややあってから吹き出した、先輩の顔。「なんでだよ」って、先輩は言う。長い、作り物みたいな睫毛が頬に影を落としていた。細やかな光の作る陰影が、遠くから聞こえる笑い声や先輩の背中側にあるきっちりと閉められた扉が、切り離されていく。
「――そんな簡単に忘れねえよ」
御影先輩は、御影コーポレーションの御曹司。
容姿も整っていれば頭の回転も速く、何をさせたって完全無欠の人だった。一番驚くべきは、だけどその地頭の良さが生み出す対人コミュニケーションだろう。どんな人にだって彼は目を合わせて、心を寄せて話をしてくれる。男子にも、女子にも、先輩にも後輩にも、目立つ人にも、教室の隅にいるような人にも。だから誰からだって好かれるのだ。――それが、白宝高校に入学してから約二ヶ月の間に先輩をこっそり観察していた私が導き出した結論で、だから、だからこそこんな言葉一つで舞い上がってはいけなかった。喜んで、感極まってはいけなかった。
意味なんて、絶対ない。先輩は私だけじゃなくて、全員にやさしい。いのちあるもの、全てに平等にやさしい。私じゃなくたって、先輩は保健室につきあってくれた。顔を覚えていた。御影先輩にとって私が特別だからじゃなくて、それが当然だったから。
この人にはきっと、恋人がいるだろう。婚約者なんていう存在がいたって、ちっとも不思議じゃない。私は御影先輩とたまたま同じ学校に通っているだけの後輩。こうして接点を持てただけでも、幸運だ。
分かっているのに、とうしてこんなに胸が痛いんだろう。
鼻を押さえるふりをして、緩く俯く。「大丈夫か?」って、心配してくれる御影先輩のことを好きだって思うのは簡単で、だけど冷静な私がちゃんと手綱を引きながら、「絶対絶対無駄な恋だ」って言うから、私はどうにか踏ん張って、凹んだ缶の窪みに指の腹を押し当てて、濁流に呑み込まれないように堪えている。
御影先輩は、影すらもきらきらしていた。そのまばゆさに、私はいつも惹かれていた。