「――おい、このガキはなんだ」
「お、お姉ちゃんの子供……。つむちゃん、このお兄さんにご挨拶できるかな……!?」
「つむです。さんさいです!」
「お! つむちゃんすごーい! ご挨拶が上手ねえ! ――ミヒャ、こちら姉の子供のつむぎちゃんです、三歳の女の子です……!」
「…………」
シーズンオフで日本にやって来たのは恋人であるに会うためだったが、まさか空港まで出迎えてくれた恋人にコブがくっついているとは思わなかった。
小さな帽子の下で髪を二つに結わえ、ワンピースを着た、まだおむつも取れてなさそうなガキ。「つむ」とかいうこのオヒメサマはの姪で、曰く、母親であるの姉がこの朝方に緊急入院となったために急遽預かることになったらしい。
俺とつむの双方に伝わるようにドイツ語と日本語を駆使しながら話すは、ここに至るまで相当苦労したのか、笑顔を貼り付けてはいるものの既に疲弊しきっている。よっぽどバタついたんだろうな。いつも丁寧にまとめている髪も申し訳程度に結わえているだけだったし、服装も珍しくパンツにスニーカー。バッグは彼女の世話のための道具が詰まっているのか、パンパンだった。
「ごめんなさい、ミヒャ。夕方には旦那さんが出張から帰ってくるらしいから、今日だけつむちゃんも一緒でいいかな……」
小さくなりながら両手を合わせる恋人に、無意識にため息が漏れた。びく、と肩を震わせたところから察するに、俺が子供嫌いだとでも思っているのだろう。――まあ、好きではないな。なるべくなら関わりたくはないし、可愛いなんて思ったこともない。普段の俺の様子からそれを薄々感じ取っているから、も恐々としているのだ。
でも子供ごとを拒絶して、さっさと一人ホテルで休むほど、俺も狭量な男ではなかった。の親族だって言うなら、尚更。
サングラスを押し上げてから空港の床に膝をつくと、小さなオヒメサマの目がぱっと見開かれた。小さく咳払いをして、「初めまして、プリンセス」と口にする。ここ数年の間に蓄えた日本語を、舌に乗せる。
「俺はミヒャエル・カイザー。の恋人だ。――よろしく」
つむが「わあ」と口を大きく広げて俺を見るのは良いとして、なんで隣のまで同じ顔をしているのかはわからないが。
「すごーい。ちゃん。このおにいちゃん、王子様みたいねぇ」
「えへへ、でしょ~!」
私の王子様なの。かっこいいでしょ。そう笑うは、俺がいつまでも日本語を理解できないでいると思っているのだろうか? 黙っていたらいくらでも失言してくれそうだったから、口を挟まなかった。
つむと目線を合わせるためにしゃがみこんだまま、揚々と俺の話をする恋人の横顔は、どこまでも優しかった。伏せられた睫毛の束に差す光の色が、ドイツのものとは違って、鮮やかで綺麗だった。子供を前にしたときの彼女はこんな風に笑うのだなと、そんなことを考えていた。
荷物をホテルに置いてからに連れて行かれた先は、東京に昔からあると言う、小さな遊園地だった。敷地面積はさほど広くなく、派手なショーもなければマスコットなんかも見当たらない。小さな観覧車と子供用のジェットコースター。迷路とお化け屋敷、古いメリーゴーラウンド。俺には縁遠いそれらに、顔を輝かせるつむの反応を見ていた。
「ミヒャってバレたら大変だから、サングラスと帽子はちゃんとしててね」と念を押されたが、この辺りは外人の観光客も多いし、周りはガキとその親ばっかりだ。親も自分の子供に意識が行っている分、俺のことに気を留める人間も多くないだろう。まあ、言われたとおり帽子もサングラスも外さないがな。日本の七月は、ドイツと違ってクソ蒸し暑い。
「つむね、この前ママと来たとき、あれ、のれなかったの。ママおなかに赤ちゃんいるから、一緒にのれないよっていわれたの」
「ん? あのかえるさんのやつ?」
「うん! かえるさん! ちゃん、つむと一緒にのれる?」
「乗れる乗れる! さっそく乗っちゃう!?」
「うん! のりたい!」
細部までは聞き取れないが、日本語でも意味が何となく理解できるのは日頃の勉強の賜物か、或いは子供特有のゆっくりした、語彙のない言葉のおかげか。と手を繋いで歩くつむは下手くそなスキップをしながら「かえるさん」とやらに向かって行った。「ミヒャ、ちょっと乗ってくるね!」とは俺に振り向き、その手を引っ張られていく。――そうしていると、二人の後ろ姿は本当に親子みたいだった。
二人が列に並んでいるのを近くのベンチに腰掛けて見ていたらと目があって、「一緒に乗る!?」と聞かれたが、無視した。あいつは俺が頷くと本気で思っているんだろうか? 蛙の絵が描いてあるその乗り物は、客の座った椅子がゆるやかに上昇したのち、緩やかな落下と上昇を何度か繰り返す類のもので、傍から見ているだけでもまあまあ滑稽だったのだ。
つむと同い年くらいの子供と、その親。もう少し年上に見える少年。観光客の外国人。老夫婦。ジェットコースターの風を切る音。甲高い悲鳴と、音割れのした園内放送。メリーゴーラウンドから流れる使い古された音楽。平和そのものだな。ありとあらゆるものが俺の人生からは遠かった。気を抜くと持って行かれそうになるから、の横顔を見ていた。ブルーロックがきっかけで出会った恋人。安穏と生きてきた、地獄を知らない人間。愛が何かを俺は教わらずに育ったが、彼女と一緒にいなければ湧き上がらない感情があるのは、嘘じゃない。
つむと並んで横並びの椅子に座ったが、「かえるさん」の大雑把な挙動につむ以上の悲鳴をあげていたのが、笑えた。
これくらいの子供ってのは、自分の尿意も分からないらしい。メリーゴーラウンドに付き合わされた後「おしっこでた」と言われたときはぎょっとしたが、は「あ! じゃあトイレ行っておむつかえよ!」と手馴れた様子でつむを多目的トイレへと連れて行った。数分経って戻って来たとき、彼女は「アイス食べたいんだってー」とソフトクリームまで買ってきていたから、随分手際がいいが子供の面倒を見た経験でもあるのかと尋ねると、は「前もつむちゃんと出かけたことあるからね~」と得意気に胸を張る。
「お姉ちゃん、今お腹大きいから大変みたいなんだけど、ほんとはそろそろトイトレしたいんだって」
「は? トイトレ? なんだそれ」
「トイレトレーニング! 春から幼稚園に行くんだけど、それまでにおむつ取れてないといけないらしいよ」
成る程、それは俺にとっても知らない世界だな。曖昧に頷く俺に、は小さく息を吐いた。俺達の頭上の空を、ヘリコプターがばらばらと音を立てて飛んでいく。柄の部分が腐食したパラソルつきのベンチの作る濃い影に収まったの足が、足首のあたりで緩く交差していた。馬鹿みたいに暑い日だった。遊園地の喧噪の中、紛れるように、蝉の鳴き声が重なっていた。
「……親って大変だねぇ」
しみじみと語るは、ソフトクリームを食べるつむから決して目を離さない。親の目――というよりも、それは繊細な壊れ物を扱う専門業者の目に近い気がした。
「私は一日だけだから頑張れるけど、こう、子供ってどうしても責任が伴うからさ、難しいよね」
初めて会ったときよりもたどたどしさの抜けたドイツ語。いつか俺がドイツに連れて行くと決めている女性。出会ってから随分時間が経ったが、こんな風に子供の――恐らく俺達の先にあるものの話をするのを聞くのは、初めてだった。
「親の器、私にはないよなあ、っておもうもん」
つむの持っていたコーンの底から溶けたソフトクリームが漏れたのを見たは、「つむちゃん、指についちゃってるよ」と慌ててウエットシートを取り出すと、指先についたバニラを拭ってやった。溶けた白に、こっそり胸焼けを起こしそうになる。
ばらばらに動く小さな指の腹は、ほとんどおもちゃか何かみたいだった。つむのビー玉みたいな目玉は光を反射して、黒目の部分の輪郭が滲んで見えていた。血が繋がっているだけあって、その形は、のそれに良く似ていた。
親の器。その言葉を、頭の中で繰り返していた。
少なくとも俺を作ったやつらよりは、ずっとあるよ。言いたかったけれど言わなかった。
大人用のソフトクリームをぺろりと平らげたつむは、手を洗ってくると、その小さな手の平を俺に差し出す。
「つむ、もっかいかえるさんのりたい。次はミヒャとのりたいの」
「…………」
「ミヒャ、つむちゃんがかえるさんに乗りたいって」
「…………いちいち訳すな。聞き取れてる」
「やったねつむちゃん。ミヒャ、乗ってくれるって!」
「――言ってないが?」
日本語がすぐに出てこず、ドイツ語で否定したのが悪かったのだろう。つむはの言葉にぱっと顔を輝かすと、未だ座ったままの俺の手を取って引いた。その手のぬくさとか、やわさと言ったらない。傷も痣もひとつもない手だった。泣けるほどうつくしかった。立たないわけには行かず立ち上がると、きゃあ、とつむがはしゃぐ。麦わら帽子の下に浮かんだ大粒の汗が、殺人級の太陽の光を浴びて輝いていた。
「覚えてろよ? 」
俺の言葉に、は明後日の方を見て口を尖らせる。聞こえてないふりは、相変わらずへただった。
「はやくはやく!」俺の手を引くつむは、汚れも傷もない完璧な球体。無条件の愛を一身に受ける少女の背は、俺には眩しすぎた。
このところ、五年前のあの日のことをよく思い出す。と結婚する前、日本の寂れた遊園地で彼女の姪のつむと過ごした半日のことを。
小さな遊園地だった。三歳児が遊びきるには丁度良いくらいの。オンボロのメリーゴーラウンドに付き合わされ、ソフトクリームを食べるのを見守った。蛙の乗り物に乗りたいと手を引かれた。渋々列に並んだ直後、「やっぱりちゃんも!」とつむが言ったときの、の絶望した顔。「え! 私もうやだ……! アレめっちゃガタガタするんだよ……! 酔うんだよ……!」と嫌がるに「だめー! 乗るのー!」と声をあげて笑ったつむの、あの残酷なまでの無邪気さ。帽子の庇の下の、無防備で無垢な丸い目。あれを羨み憎むには、俺はもう成長しすぎていた。
――できないようには気を付けていた中で「子供ができた」とに聞かされたとき、過去の自身ではなくあの日のつむの姿が浮かんだのはどうしてだろう。
父親のヘドロと母親の強欲から産まれた人間以下のゴミ。望まれて産まれたのではない存在。動物以下。汚物以下の、クソ物。――父親からそう言われ、首を絞められた過去は、と出会ってからも、いつまでもまとわりついて離れなかった。離れなかったのに、あの日のつむの放っていた真っ新な光が、の柔らかな眼差しが、俺のぬるついた表皮を拭う。陰鬱とした日々。光の届かない腐りかけの部屋。生きている意味がわからなかった。愛されたことなど一度もなかった。つむやとは、俺はちがう。俺を罵り殴る腕。
「それ」が半分も入った人間を、俺は愛せるのか?
腹の底に押し隠していた不安は、だけど、の腕に抱かれていた、産まれたばかりの赤ん坊を見た瞬間、呆気なく消えてしまったのだ。
「ねえ、いつまでドアの前にいるの? ミヒャ」
困ったように笑うに、なんと答えれば良かったのか。ミュンヘンでも一、二を争う大病院の一室。広々とした病室にはめこまれた窓の奥は、薄曇り。
が産んだのは男のガキだった。に似ていてくれればいいと思っていたが、どう見たってそいつは日本人のより、俺に似ていた。の腕で眠りこける赤ん坊は、病室のカーテンが遮りきれなかった昼の日光に透けて、その肌に編み目の模様を作っていた。ふにゃふにゃで、しわしわで、服を着ているっていうよりは服に包まれているみたいだった。「……人間か?」つい口にしてしまった言葉に、が笑う。「人間だねえ」って。過去の傷が作る俺の失言を咎めないお前が好きだった。
「抱っこする?」
言われて、ああ、そうかと思う。そうか、それが普通か、と。思いつきもしなかった。
「首、気をつけてね。なんかねえ、想像以上にふにゃふにゃなんだよね」
そうしてこの腕に収まった赤ん坊に、俺はなんと言葉を発せばよかったのか。
ぬるい体温の、三千グラムの塊。金茶の睫毛が光に透けて、一度ぴくりと動いた。鼻や口や耳、手。全てのパーツが恐ろしく小さくて、乳臭い。愛おしいと思うのと同じくらいの重さで、傷ついたのだ。「これ」を捨てて出ていった母親を思い出して。
俺の感情の動きを察しでもしたかのようなタイミングで、けれどは言った。
「かわいいね」
とってもかわいい、せかいいち。
気の抜けた笑顔だった。悪意など一度も向けられたことのないような、やわらかな温度の目をしていた。
あれが、赤ん坊だった俺に向けられたことは一度もないのだろう。あったらあんな凄惨な幼少期を、俺が送るはずがないのだから。だけど、それを自覚しながらも、ああ、と思った。とっても可愛い。世界一。の歌うような細い声が、クソ物と罵られた俺を肯定して、受け入れてくれているのを、俺はもう知っていたから。
腕の中で、赤ん坊がぐずる。慌てる俺から赤ん坊を受け取って、おむつを確かめながら、「名前決めなくちゃねぇ」とが言う。
「本当に私が決めて良いの?」
名前なんかなんでもいい。好きに決めてくれ。――妊娠中からそう言っていた俺に、確かめるように首を傾げるはきっと、俺の心境の変化も感じ取っていたのかもしれない。「――いや」口にした瞬間、俺の中でしぶとく生きていたかつての自分自身が、微かに摩滅した気がした。
これからどれくらい、俺がこの赤ん坊と向き合えるかは分からない。過去に囚われて、憎しみに取り残される日もあるかもしれない。けれどあの馬鹿みたいに暑かったあの日、大粒の汗を浮かばせながら笑っていたつむの顔は、今でも脳裏に焼き付いているのだ。愛されていることを疑いもしない、残酷なまでの純真無垢。俺はこの赤ん坊に、彼女みたいに笑ってほしいと願っている。心から。
「名前、一緒に考えさせてくれ」
むずがる赤ん坊の虹彩は青かった。「え、いいの?」が明るい声を出す。この声に、俺はいつも救われていた。
「嬉しい。私もね、本当はミヒャと一緒に考えたかったの」
口元を綻ばせるに薄い笑みを返したとき、かつてショーウインドウの奥にいた薄汚れたガキの亡霊を、ようやく愛せる気がしていた。
それだけでもう、充分だった。