私たちをとりまくもの。
耳のすぐ傍でよこたわる潮騒と、水平線に沈んでいく輪郭のない夕陽。
傷んだランドセルと、潮風に細められる大人びた眼。それを縁取る長い睫毛。喪服と花。なだらかな稜線を描く山にあるお墓。海沿いのコンビニと、冴たちがいつも食べていた駄菓子屋さんの、棒アイス。時折ゴミを海に投げ捨てる悪癖があるのを知っていた。毛並みの汚れた野良猫と、海鳥。伸びていた影。突き抜けるような空と、引っ掻き傷のような筋雲たち。
泣き続ける私を、冴は同情と苛立ちの混ざった目で振り向き、見た。飴色の陽に溶けるように滲んだやわい髪が、海からの風に靡いていた。冴のため息は、嗚咽の隙間を縫うように、私の耳にするりと入った。うんざりしたような色の中に、小さじに満たないくらいの、同情の形をした欠片が落ちていた。
「――いい加減泣き止めよ。馬鹿」
幼い私をとりまいていたもの。
身体の半分を初めから海に切り取られたような、小さな世界。傍若無人な幼馴染みが時々見せる不格好な優しさ。アスファルトに散らばる無数のガラスたち。白い漣。
お経が長すぎるって、彼は私を引き摺って海へ出た。十一の私たちを、誰も止めなかった。凛が「兄ちゃん、俺も――」って冴を呼んで立ち上がりかけたのを、おばさんが制していたくらいで。
全ての命が死に絶えるような、夏のおわりだった。黒いパンツの裾を雑に捲った冴は、靴と靴下を脱いで私ごと砂浜に置いていくと、何の逡巡もなく波の方へと向かって行った。遠くでサーフィンをしている人の姿があったけれど、夕暮れの海水浴場に人はほとんどいなかった。足を海水に浸した冴は私を振り向いて、言葉もなく見つめる。冴の目は冴の意思が間断なく敷き詰められていて、私はいつもそれに振り回される。それでその日も、私はとうとう靴を脱いだのだ。冴の強引さを、幼馴染みの私はよく知っていた。
足の指の隙間を浸食する砂の感触。スカートを浚う風が馬鹿みたいにぬるかった。このときの私は、足首を浚う波が、日差しの鋭さが、人生のすべてと呼ぶには少なすぎる、ありとあらゆる記憶を呼び起こす何もかもが嫌だった。苦しかった。受け止められなかった。割り切って前に進むには、私はまだ幼すぎた。
目の奥が熱くなって、涙が粒になって海の中に落ちて行った。冴の眉が煩わしいものに相対したときのように歪んだのを、今でも覚えている。冴が私の目をその手の甲で思いきり拭ったから。私とさして変わらない大きさの、まだ子供の手。
声変わりの途中の、抑揚のない男の子の声だった。
「――俺が一緒にいてやるから、泣くな」
冴の瞳。
凝縮された渇きが詰まった目。そこにあるのに、どこにもいないみたいだった。小さい頃からもてはやされた、神さまみたいな男の子。ママと一緒で、冴もどうせ置いて行っちゃうくせに。今だけのくせに。でもそれでもよかった。夕陽に煌めく海面を背に、冴はまるでなにもかもを見透かすような目をしていた。乱暴に、頭を撫でてくれた。
今もあれが私のすべて。
あの頃冴の世界は既にサッカーで構成されていて、他に何かが入る余地なんかあるわけなかった。
天才。日本サッカーの至宝。中学に入る頃には周囲からそう呼ばれて将来を嘱望されるようになっていた冴は、全方位の女子からの熱狂的な人気を得ていて、私なんていう幼馴染みは、それはもう周囲から目の敵にされていたっけ。嫉妬と羨望を手の平で転がして笑っていられるほど強い子じゃなかったから、学校生活はまるで針の筵だった。冴は「どうだっていいだろ」って言うんだろうけど。
冴は周りの人間が何を考えているのか、どう感じているかについて、一切の興味を持たない。自分のやりたいように振る舞うし、思ったことは全て口に出す。私が周りから睨まれることになっても構わずに話しかけてくるし、私がそれで迷惑そうにすると平気で舌打ちして、挙げ句デコピンまでしていく。美人の先輩からの告白も「あ? お前に興味なんかねえよ」ってぶった切って、授業なんか何も聞かないで堂々と寝入っている。それでも許されるのだ。彼は。「冴はサッカーで忙しいから仕方ない」。先生も周囲も当たり前のようにそう言って、彼を放っていた。冴は進級する前に、サッカーでスペインに行くことが決まっていた。
そのためだけに生まれてきたっていうのが幼いながらに分かりきっている人間なんかそうそういないってことは今になればわかるけれど、冴みたいな人が傍にいたんじゃ、その認識を修正するのだって並大抵のことではない。
糸師冴はサッカーをするために生まれて、それ以外何も必要としていなかった。彼がスペインに行くのは、彼が糸師冴として生きるためだった。彼にとって日本は小さすぎて、どうしようもなくつまらないものだった。日本にいる意義も意味も、冴には一つもなかった。冴は冴のために日本を出るのだった。
冴と私が十三歳の頃、そうして冴は凛やおじさんやおばさん、私を置いて、日本の至宝としての期待を背負って、大きな一歩を踏み出した。世界一のストライカーになるために。
空港に見送りになんか行かなかった。私が周囲の目を気にしない子供であれば、あるいはママが生きていたら、空港に連れていってもらって冴にお別れを言えたかもしれないけれど、私はもうそれらの全てを失っていた。
スニーカーに脱いだ靴下を丸めて押し込んで、制服の裾を持ち上げて海に入った。真っ直ぐ伸びる水平線は、私にとっては行き止まりでしかなかったけれど、冴には違ったらしい。
私たちをとりまくもの。
私をとりまくもの。
漣に反射する光の粒。冴の長い下睫毛。黒いネクタイ。棺で眠るママ。「あの坊さんわざとゆっくりお経読んでんじゃねえの」。普段言わない冗談を、あの日の冴は言った。泣きじゃくりながら冴の後ろを歩く私に、何度も振り向いてくれた。線香のにおいがしていたね、冴。この海まで私たちの後を追って、くっついてきたみたいに。
太陽の光が海面で跳ね返って、宝石でも散りばめたみたいに煌めかせていた。生まれた時から神さまだった、私の幼馴染み。もしも彼がここに帰ってくることがあっても、その時はもう、私たちを繋いでいた線は消えてなくなっているんだろう。確信があったから、だから私は十三のあの日、空港に行かなかった。
なんてったって、住む世界がちがうので。
冴がサッカーをしていたからって、幼馴染みの私がサッカーに興味があるかっていうと、全くない。
試合なんか見に行ったこともないし、ルールもちゃんとはわからない。冴がどれくらいすごいかっていうのも、だから、正確には理解できていないんだと思う。ただ、私は自分がわざと視界からサッカーを取り除いていることを、幼い頃から自覚していた。冴を「すごい人」って、その価値を正しく認識してしまったら、今までのように冴に接することができない気がした。
冴がスペインに行って、ここから先私が幼馴染みとしての特権で彼と接することは二度とないと分かっていても、私はサッカーから自分を遠ざけていた。冴の名前をネットニュースで見かけてもさらっと読み流すだけだったし、彼の動向をわざわざ追うこともしなかった。試合結果も、冴が決めたゴールも、目に入らなければ見なかった。高校に入って仲良くなった男の子がサッカーファンだって知ったとき、ものすごくがっかりした。「あの辺住んでるんだったらさ、って糸師冴と同じ小中だったりしない?」って尋ねられた瞬間、なんだか全部が嫌になったのだ。
「すごいよな糸師冴! ゴール決めてさ、てか下部組織とは言えレ・アールで試合出てんのがまずすごい。去年ベンチ入りしたときからやばいと思ってたけど、同い年であんなん、尊敬するわ」
折角私と冴を結びつける人がいない、遠くの学校に入ったのに。
彼に何て答えたのかは覚えていない。なんとなく、私の身勝手な妄想でなければ、彼もまた私に薄ら好意を抱いてくれていたんじゃないかと思うけれど、デートの誘いを何度か躱しているうち、彼はいつの間にか、別の女の子と付き合っていた。
冴は私に連絡の一つも寄越さなかった。見送りに行かなかった私が「薄情だ」なんて言ってはいけないとおもうけれど、それでもその事実は私をくさくささせるのに充分だった。冴と私を繋ぐ糸は一本ずつ切れていて、私は家の近くで冴の弟の凛を見かけても、もう声をかけることもしなかった。冴によく似た目を見るだけで、身を引き裂かれそうなほどの後悔と絶望が私を襲うから。
そう、好きだったのだ。冴のことが。
私は冴が好きだった。ママが死んだあの夏、冴と歩いた浜辺までの道、あの日私は世界で冴と二人きりになったみたいだと思っていた。いっそ本当にそうだったら、ママが死んだ哀しみも、いくらか減るだろうにと、あまりにも自分勝手で子供じみたことを思っていた。泣きじゃくる私を何度も振り向いた冴。気遣いなんかできないくせに、あの日だけは、冴は言葉を選んでくれた。
冴は手の届かない星。偶々生まれた家と生まれた月日が近かっただけの幼馴染み。いつまでも隣にいてはくれない人と知っていたから、本気で追いかけたりしなかった。
早く大人になりたい。東京の大学に行って、この海を捨てて、冴を思い出の中に沈めたい。いつになったら諦めて、この無謀な、叶わなかった恋を笑えるようになるんだろう? 他に好きな人ができたら? 私を愛してくれる、私の人生にぴったり収まる人が現れたら? 何も分からなかったから、我武者羅に勉強した。冴を思い出させる何もかもを遠ざけた。波の音も水平線に沈む夕陽も、いつまでも耳にこびりついている「俺が一緒にいてやる」も、縋り付くには柔らかすぎる思い出たちだった。
高二の冬、冴は一時帰国のために日本に帰ってきた。私が知る限り、冴の帰国は彼がスペインに発った十三の年から、初めてのことだった。
教えてくれたのは、一緒に暮らしていたおばあちゃんだ。「糸師さんちの冴くん、今度帰ってくるんだってねぇ」って、テストの点数を尋ねるよりもずっと気安い口調で口にしたものだから、びっくりして咽せそうになった。一瞬レ・アールでサッカーができなくなったのかと思って焦ったけれど、こっそり手元のスマホで調べたら、どうやらシーズンオフの関係らしい。要するに、帰ってくるっていっても一時期国だ。
「へ~、そうなんだあ」
なんてことないように答えてから、どうしよう、って思って、それから何がどうしようなんだよ、って首を振った。四年ぶりに日本に帰ってくる冴が私と偶然顔を合わせることなんて、そうそうない。冴は私のことなんか覚えていないかもしれないし、覚えていたとして、冴には私と会う時間もきっとなければ、理由もないのだ。
自身に言い聞かせたそれは正しかったらしい。冴の一時帰国がひっそりとニュースになったその年、私が冴と顔を合わせることは結局一度もなかった。冴は実家とかつてのサッカークラブに顔を出して、すぐに東京へと戻っていったらしいと、後日おばあちゃんから聞いた。
そういうことがなかったら、私は冴のことを、今も諦めずにこっそり好きでいたのだろうか。
私は高校三年生になっていた。幸運なことに希望していた大学の推薦をもらえて、春から都内の学校に通うことが決まっていた。
去年日本に帰国していた冴が私に会おうとする素振りを見せることもなくスペインに帰ったと知ってから、恋愛に関して前向きになっていると思う。以前よりも、という消極的な意味合いではあるけれど。だけど浮ついているのは確かだった。同じ時期に推薦入学で都内の私大の合格通知書を手にしていたクラスメイトの男の子と、最近なんだかちょっと良い感じなのだ。私の勘違いでなければ、の話なんだけど。
その男の子は、サッカーなんか少しも関心のない子だった。読書と映画と歴史が好きな、物静かな人だった。眼鏡をかけていて、前髪は目にかかるくらい長かった。その隙間から覗く理知的な目が、くすぐったそうに笑うその横顔が、素敵だなと思った。
受験勉強真っ只中のクラスメイトたちには悪かったけれど、その頃の私は彼とのおしゃべりや本の貸し借りが楽しくて学校に行っているようなものだった。冴の連絡先の入っていないスマホに、彼の飼っている猫のアイコンが増えた。昔家の近くにいた野良に、模様が似ていた。一度だけ、眠る前に電話をした。彼の声は電話越しだと掠れていて、ひどく優しかった。彼の笑顔はいつも柔らかかった。眉尻を下げて、困ったように笑う人だった。冴が絶対にしなかった表情だった。彼の人生にサッカーは少しも関わっていなかった。最近世間を騒がせているブルーロックっていうものも、彼は興味がないみたいだった。彼は私に冴を思い起こさせはしなかった。冴とは正反対の、対極にいる人だった。
良かったら、今度一緒に映画に行きませんか。
マフラーをぐるぐるに巻いて、駅から家までの、海沿いの道をひとり歩いているときだった。さっき別れたばかりの彼から、そんなメッセージが届いていたことに気がついたのは。
彼らしい、丁寧で角張って、少し気負った文面だった。文章から彼の緊張が伝わってくるような。彼のそういうところに、好感を抱いていた。
冬のただなかだった。白砂は翳り、海は皮膚の隙間から這い上がるような漣を立てていた。かじかんだ手が上手く動かなくて、返事を打ちかけていたけれど、何度か打ち間違えてやめた。薄曇りの空だった。すぐ傍を車がびゅんと通り過ぎていった。潮風に煽られて髪がぼさぼさになって、建物の影に入ったところで手で整えた。昔からあるコンビニ。小さな駄菓子屋。防波堤と、海へと続く細い階段。潮の香り。なだらかなカーブを描くアスファルト。私をとりまくすべてのものたち。
ようやく手放せると思っていたものたち。
不意に雲の切れ目から夕陽が差し込んだ。飴色の光は真っ直ぐ伸びて、もう身体の一部になってしまった潮騒を連れてくる。その音につられるように顔を上げた瞬間、堤防を背に、見慣れた景色にちっとも溶け込まない男の人が立っているのを見た。
背の高い男性だった。手足が長くて、高そうなコートの上からでもがっしりしているのがわかった。その人は私をみとめた瞬間、かけていたサングラスを額の方におしやる。赤茶の髪。美しい眉。長い睫毛と、くっきりとした二重。涼しげな目元。忘れるわけがない。
私が手放そうとしていたひと。
「――冴?」
糸師冴がそこにいた。
「」と私の名を呼んだその声は低く、掠れていた。背が伸びて、服装はこのあたりに暮らす誰よりもずっと洗練されていた。同い年になんて到底見えないくらい大人びていたけれど、間違いなく、それは冴だった。
冴は、首を微かに傾けると、「……遅い」って短く、ほとんど吐き捨てるように言う。「日本の高校ってのはいつも帰り、こんな時間なのかよ」って。
「――大分待った」
そう言いながら、冴をそうと認識した途端一歩も動けずにいる私の元に、歩み寄る。
西日が差し込んで、冴の半身を橙に染めていた。吸った息はひんやりして、喉に張り付くくらいだった。煩わしそうに寄せられた眉。視線の位置が、記憶よりもずっと高かった。昔下ろしていた、短く切り揃えていた前髪を、今の冴はあげていた。
「ま、待ってたの?」
「だからそう言ってんだろ」
冴の声に苛立ちの色が混ざる。
去年は、会いに来てくれなかった人。顔も見せてくれなかった人。どうして今更会いに来るんだろう。わけがわからなくて、一歩後ずさる。冴がスペインに行って、五年。私はもう高校三年生になっていた。その間一度も会うことなんかなければ、連絡さえもしなかった。これからの人生で、すれ違うことがあるかどうかさえも定かじゃなかった。なのに彼は今、私の前に立っている。
「待っていた」なんて、かつての私が喉から手が出るほど欲した言葉を、今の冴は口にする。
「……なんで?」
どうして諦めさせて、とどめをさしてくれないんだろう。手の中で、スマホがすべり落ちそうになった。「私もその映画、生きたくて」変換を間違えたままの打ち途中の文章が、視界の隅っこに落ちている。
「なんでって、時間、わざわざ作って会いに来たんだろ。お前に」
その言葉に、息が止まった。――いっそ殴られた方がマシだった。
冴が今、日本に戻ってきていることは知っていた。
一年ぶりの帰国だった。先日彼が日本で受けた取材の載った記事を私は見ていたし、冴の弟の凛が、今話題になっているブルーロックにいることもおばあちゃん経由で聞いていた。冴が近くブルーロックの高校生と試合をすることになっているのだって、知っていたのだ。
どれだけ遠ざけようとしても、この街で暮らす私が「糸師冴」と「糸師凛」から離れることは難しかった。じわじわ広がり始めている世間の熱狂も、それを許してくれなかった。受験がなかったら、私の周囲はもっとブルーロックに侵食されていたかもしれなかった。
でも、もう関係がないと思っていたのだ。
私は偶々糸師冴の幼馴染みとして生まれただけ。十三までの日々を、他の人より近くで過ごしていただけ。それはもう終わったと思っていたから、だって冴は去年、私に会いにはきてくれなかったから。私たちはもう無関係だったから。冴はサッカーで忙しくて、スペインで恋人ができたかもしれなくて、だから私は冴を自分から切り離さないといけなかった。だから、だから他の人を好きになろうと思ったのに。
なのに、会いに来たなんて、なんてひどいことを言うんだろう。
「…………なんて顔してんだよ」
手を伸ばせば届く距離にいる冴の茶色がかった双眸の中で、私は酷い顔をしていた。
眉をぎゅうと寄せて、目を赤くして、鬱屈した何かを抱え込んで、抱え込みすぎて、どうしようもなくなっている顔だった。この感情に行き場なんかなかった。手の中で、スマホが音を立てて震えた。「映画の件、困らせてたらごめん。断ってもらっても大丈夫だから」。既読をつけたまま返事をせずにいた私に、優しい彼がそう言った。
「な、なんなの、いまさら」
口をついて出たのは、あんまりにも幼すぎる言葉たちだ。
だけど同時に涙まで浮かんでくるんだから、笑えない。コートの袖で顔を乱暴に拭う。一度流れた涙は簡単には止まらなくて、俯いたまま瞬きをしたら、ぼとりと音を立てて、涙がアスファルトに染みを作った。あの日の海みたいに飲み込んでくれたらよかった。
「きょ、去年は、会いに来てくれなかったのに。なんで今更会いに来るの」
「去年?」
シーズンオフのとき、って口にしてから非難を込めてじっと冴を見つめれば、冴は少しの沈黙の後、ようやく思い出したように「……ああ」って緩く頷く。通りかかった車の排気音に紛れるくらいの声量だった。夕闇に紛れて消えてしまいいそうな音だったのに、彼の声を、私は簡単に見つけてしまう。
「――去年は日本で、他にやることがあった」
なんてことないように言う冴は、私がそれでどれだけ思い悩んでいたかんて、思いつきもしないみたいだった。そうだ、こういう人だった。冴は周りの人間が何を考えているか、どう感じているかについて一切の興味を持たない。自分のやりたいように振る舞うし、思ったことを、そのまま口に出す――中学のときと変わらない。その温度差に、私はいちいち苛立つのだ。
「つーか、あの時は家にだってちょっと顔見せに寄っただけだったしな」
「……ス、スペインにいる間、手紙くらいくれたってよかったじゃん」
「あ? 俺にそんな暇あるか。お前が手紙でもメールでも寄越せばいいだろ」
「私から連絡手段、なかった」
「なんでだよ。連絡先だったら、親にでも凛にでも聞けばよかっただろうが」
「おばさんとも凛とも、冴がスペインに行ってからちゃんとしゃべってないもん。教えてくださいなんて、言えない。それに冴にも迷惑かもって思ってたし……」
「クソダセェ言い訳してんじゃねえよ、ガキか。お前は」
「ガキじゃないもん……!」
顔を上げたら、冴はいつもの、面倒臭そうな顔で私を見ていた。小さい頃彼の額を隠していた前髪がないのが、こんなときなのに不思議だった。
言い合いをしている間も、涙はちっとも止まる気配がなかった。それどころかどんどん込み上げてくるのだ。自分のお腹に倦みきった傷があったのを、今更思い出したみたいに。
泣きじゃくる私の顔を、冴はもう拭わない。拭わないけど、はぁ、ってため息を吐いて、それから、いつかみたいに私の額を勢いよく弾いた。ばちんって鋭い音がして、「いっ」って声が漏れる。視界が一瞬明滅する。反動で上がった視界が、薄暗くなり始めた空に瞬く星を見た。
「……だから今日お前にわざわざ会いに来てやったんだろうが、ガキ」
波の音がした。
それは、私たちを私たちたらしめる音だった。空白の五年は、口を開けたそれに食べられて、呆気なく消えていく。それが、私には信じられなかった。私たちは二度と交わることのない点と点になったから。あの頃には戻れないと思っていたから。
「――なんで」
だから、素直にそう口にできたのは、それがその一瞬だったからだ。
「……なんで折角諦められると思ったのに、好きな男の子、できそうだったのに。なんで今更、そんな期待させるようなこと言うの?」
諦めさせてよ、って。
こんな醜い告白をする気なんかなかったのに。
言ってしまってから、意識が遠のくみたいに全身から力が抜けそうになった。やってしまった、って思った。取り返しがつかないことを、言ってしまった、って。
冴は、目を丸くして私を見ていた。なにも言ってくれなかった。聞こえないふりをして、なかったことにだって、彼にはできたはずなのに。
長い、長い沈黙だった。そうしているうちに、車が何台も私たちの横を通り過ぎていった。車道の向こう側を、最近よくすれ違う、光る首輪をつけた白い犬を連れたおじいさんが歩いて行った。工事の看板の点滅。薄い闇は海の反対側から忍び寄る。街灯がゆるい点滅を始める。あの山の向こうには、ママの墓。
十八年。
私がここで生まれ育って、それだけの月日が流れていた。十一の夏にママが死んだ。十三の頃、冴は私を置いてスペインに行った。冴がいなくなってから、何もなかったわけじゃない。パパが再婚相手と暮らすって家を出た。おばあちゃんと二人になった。凛がサッカーボールを蹴りながら歩いているのを何度も見かけたけど、いつの間にか声をかけられなくなっていた。冴がいなくなっても先輩からは睨まれ続けた。高校で勉強を頑張ったから、推薦をもらえた。気になっている男の子に、映画に誘われた。でも私のこれはもう、全部、冴とは遠い、なんの関係もない出来事だ。
冴がこうして会いに来てくれたことで再び交差したように見えたって、そんなの今だけだ。だから、気まぐれならそう言ってほしかった。今度こそ終わりにしてほしかった。でも、冴は私の願いを叶えてくれない。
長い沈黙の後、私の頭に手を伸ばした冴は、ぐしゃぐしゃって、私の髪を掻き混ぜるみたいに乱暴に撫でた。
息ができなかったのだ。
冴の手は、昔よりずっと大きかった。なのに、知っている温度だった。昔と同じ撫で方だった。あの夏、海に足を浸しながら泣いた私にそうしてくれたときと、おんなじだった。
びっくりして、握りしめていたスマホを抱きしめるように胸に引き寄せる。冬の海風が私の涙ごと髪を浚って私の視界を奪うのに、なのにその向こうで、冴は、「馬鹿」って言う。思い出してしまう。馬鹿。いい加減泣き止め。冴がそう言ったあの夏を。
俺が一緒にいてやるから。
十一の私に、冴は魔法をかけてくれた。
「好きだっていちいち言わなきゃわかんねえのかよ、お前は」
――わかるわけない。
冴は言いかけた私の目をコートの袖で乱暴に拭うと、そのまま私の顎を持ち上げて、触れるだけのキスをした。冴の唇は、冬の空気で少しかさついていた。
冴の頭の奥で、二月の星がひっそり、いくつも瞬いていた。沈みきった夕陽は、だけどまだ空に濃い色のグラデーションを作っていた。唇が離れて、「…………わかんないよ」って口にした瞬間、拭いてもらった目からまた新しい涙が滲んで、洟をすすった。いつかの線香を思い出した。あの日何度も振り返ってくれた冴を思い出した。太陽の照り返しで白く輝いていた海。お母さんの身体を埋め尽くす夥しい数の花。あの頃わたしたちをとりまいていたすべてのいとしいものたち。
あれを全部、私は捨てていかなくても良いのかな。
込み上げてくるものに堪えられなくて、おそるおそる、冴の身体に腕を回した。冴が耳元で小さく笑ったような気がしたけれど、表情を確かめる勇気はなかった。
家までの道中冴は私の手からスマホを奪うと、一度画面に目線を落とした後、舌打ちをしてから私のスマホを勝手に操作し始めた。「え、なにしてるの」って慌てる私に、「連絡先入れてやってんだよ。うちの親に俺の連絡先も聞けねえお前のためにな」って言うから、どんな顔をしたらいいのか分からなくなる。
やがて私にスマホを放って返した冴は、しれっと「いらねー連絡先も消しといた」って口にした。「は?」ってスマホを見たら、さっきまでのやりとりが真っ新に消えていて、悲鳴を上げてしまう。
「あ? いらねえだろ。それともそいつと映画行きたかったか?」
「いや、あとで断るつもりでいたけど……!」
「じゃあいいだろ、別に。一生シカトしてろ」
「そ、そういうわけにいかないでしょ……!? クラスメイトなんだから……!」
喚く私に冴は眉根を寄せて、それからさっさと歩き出してしまうものだから、慌てて後を追う。冴って、嫉妬しいなんだ、って頭の端で思いながら。
だけど明日学校に行ったら、彼にきちんと謝らなくちゃいけない。映画には行けないこと。あと必要ないかもしれないけれど、自意識過剰だったら困らせてしまうかもしれないけれど、彼氏ができたから、これからは今までのようなやりとりはできないってことも。
半歩後ろを歩く私に冴が振り向いて、無言で手を差し出す。びっくりしたけど、ポケットにスマホを押し込んで、両手で掴んだ。「片手でいいだろ」って、冴は呆れたように言った。少し掠れた、だけど冴が口にするには、優しい声だった。
そうして彼は、途切れた糸を繋げてくれる。私はそこに、七年前の私たちの幻を見ている。