北海道の十月っておかしい。
 そう思うのは私がこの春までずっと東京で暮らしていたせいだろうか。
 ここ最近の北海道の気候は私が十五まで過ごしていた東京と同じ日本とは思えないくらいで、今日は比較的過ごしやすいな、って日があったかと思えば、翌日は一転急降下。気温ががくっと下がったりもする。夏は過ごしやすくて良かったけれど、この先はもう私には予測不能だ。何が待っているかなんて、想像もつかない。
 道内で生まれ育ったクラスメイトたちは「この一か月で全然気温変わるから、早めにちゃんとしたコートとかマフラーとか準備したほうがいいよ」って教えてくれたけれど、十月の時点でコートにマフラーってどういうこと? それじゃあ真冬はどうしたらいいの? 何を着るの? 優しい皆は「東京の人間が北海道の冬にビビる様、めちゃくちゃ見たいな」って言いながらも、色々教えてくれた。ブーツの選び方から、雪道の歩き方までそれはもう今節丁寧に。だけど私はもしかしたら、この冬を越せないかもしれなかった。道路で滑って転んで、そのまま車にひかれてもおかしくなかった。皆の口から語られる北海道の冬は、それくらい過酷だったのだ。
 これからやって来る冬に怯える私の視界に、席に座っていたサッカー部の黒名くんが一人、机に肘をついて欠伸をしたのが映った。黒名くんは目をぎゅうって閉じて、眉尻を寄せて、「くぁ」って顔をくしゃくしゃにする。目尻に浮かんだ涙を、乱暴に手の甲で拭う。
 話をしたこともない男の子だけど、私は黒名くんの「くぁ」が、何だか妙に好きだった。顔の左側にだけ垂らした三つ編みを指先でいじる癖があることまで勝手に認知していた私のそれは、もしかしたら恋だったのかもしれないけれど、この時の私はそれを全く自覚していなかった。そのときの私は雪が積もっても地面が凍ってもサッカーってできるのかなって、ただぼんやり、そんなことを考えていただけだった。








 事件が起きたのは十月の半ばのことだった。
 体育委員の私は授業で使う道具の片付けを、なんだかんだいつも友達に手伝ってもらっていたんだけど、その日はいつも協力してくれる仲の良い子が学校を休んでいた。それで大急ぎでボールの入った籠とか得点板なんかを片付けていたのに、急ぎすぎたあまり、倉庫内に何故か置かれていた紙の束を体操着の袖に引っかけて、床に落としてしまったのだ。
 もしもこのとき私がぶちまけていたのがボールとか、もっと音のするものだったら。或いは拾いやすくて、すぐにまとめられるものだったら。数枚の紙が籠と床の隙間に滑り込むように落ちていかなければ。それを探すためにほとんど這いつくばっていなければ。私がもっとこう、ビカビカの存在感を放てていれば。「お」って短い声をあげた後、一緒に拾い集めてくれていた男子の体育委員である黒名くんに、人見知りを発動しないで大きい声でお礼を言ったり何か会話を試みたり、逆に「一人で大丈夫だから行ってて!」って言えていたら、少なくとも二人揃って倉庫に閉じ込められることはなかったんだと思う。たらればの話は最早なんだか虚しくて、最終的に何の意味もなさないって分かってはいるけれど。
 プリントを全部拾い集めて(部活の諸費用がどうとか、前年比との比較がどうとかみたいな、外部に漏れたらよくないかもしれないけれどさして重要でもなさそうな数字がぽろぽろ書いてあるだけのものだった)黒名くんに「ご、ごめんね黒名くん、ありがとう……!」とお礼を言う私に、黒名くんは普段とあんまり変わらない表情で、「ん、いい、いい」って小さく首を振っただけだった。ドキドキしていた。こんな近くで彼の顔を見たのは、初めてだったから。でも、ドキドキしている場合じゃなかったな。
 さっきまで開いていたはずの扉が、私たちがプリントを拾っている間にしっかり閉められた上にご丁寧に鍵までかけられているって、その直後に気がつくことになったんだから。
 一緒に閉じ込められたのが黒名くんだったのがちょっとだけ嬉しかったなんて、口が裂けても、誰にも言えないけれど。








「だめか~……」



 扉に片耳を当てて外の様子を窺っていたはとうとう悲壮感いっぱいの声でそう漏らすと、そのまま床に座り込んでしまった。三時間目の始まるチャイムが鳴ってから五分は経ったと思うが、扉の奥の体育館で授業が始まったような気配はない。俺達二人は、あれから十分は、こうしてここにいる。時計も何もないから、それが正確なのかどうかもわからないけど。
 もし体育館に人が来たら中から助けを求めるつもりでいたが、どこのクラスも体育の授業がないんじゃ騒いだって無駄だろう。そこに一縷の望みをかけていたは、だから分かりやすく落ち込んでいるのだ。
 体育の後じゃお互いスマホも勿論もっていないし、三時間目は芸術の授業でみんなそれぞれ教室がバラバラだから(俺は書道で、は確か音楽)、体育委員が二人揃っていないっていう不自然さもきっとクラスメイトには伝わらない。助けはそうそう来ないだろうな。
 ――とりあえず少なくともあと一時間はこのままか。
 ジャージのチャックのとこを限界まで上げながらぼんやり思っていたら、「……ごめんねぇ、黒名くん」と、三角座りをしたがぽつりと呟いた。
 体育倉庫の、格子の嵌まった小さな窓から差し込む白んだ光に空気中の塵が瞬いて、の周囲を輝かせているみたいだった。ほとんど無意識に、首を傾げる。そうすると、光の加減での緩くまとめられた髪はかすかに茶色がかってみえた。きれいだと思った。には、俺の仕草がその言葉の理由を尋ねたように見えたんだろう。申し訳なさそうに、その目が瞬く。



「私のせいで一緒に閉じ込められちゃって……ごめんね……」

「いや、ショージがちゃんと確認しないで閉めたのが悪い。のせいじゃない」

「東海林先生ねぇ、せっかちだもんねぇ……」

「あと、いらんプリントを大事なもんぽくここに放置したやつ」

「ね、あれトラップだったぁ」

「しかもあれ、去年の日付だったぞ」

「うそ! ほんとにいらなそうじゃん」

「いらん、いらん」



 俺の言葉に声をあげて笑って、それからは、「でも、やっぱりごめんね」って、もう一度小さく呟くように謝った。
 眉尻を下げて、へにゃ、と笑うは、そうしているといつもよりずっと小さく見えて、なんだかどぎまぎしてしまう。女の子と二人きり、ってことが、急にヤバイことのように思えてきたのだ。立てた襟に顔を半分埋める。「謝らなくて、いい」って口走る。変な顔になっても、バレんようにする。
 こんなんで意識するなんて、単純すぎるか、我ながら。釣り針……じゃなくて、釣り堀……でもなくて、そう、吊り橋効果、ってやつかもしれん。でも高校生の男子なんか、こんなもんだろ、きっと。部活の先輩たちだって、マネに質問されただけで、自分のことが好きに違いない、いや俺だ、とか言い争ってるの、よく見るしな。三つ編みを指先でいじりながら、そっと目を逸らす。の上履きは、俺の履いているものと比べたら、新品みたいに綺麗だ。
 は、高校進学と同時に北海道にやってきた(らしい)。元々東京出身だっていうのは、ちらっと聞いたことがある。同じ体育委員って言っても全然話したことはないから、詳しくはわからんけど。
 同じクラスっていっても、しゃべるヤツとはしゃべるし、そうじゃないヤツとはちっとも絡まない。は女の子女の子していて大人しいから、そもそも男と話しているのを見たこともないし、共通の話題なんか全然思いつかなかった。――もーすぐ中間テストだな、とか? でも勉強の話されても、俺、わかんないしな。に馬鹿ってバレるのも、正直ハズい。
 しん、と静まるのが気まずいように思えて、誤魔化すように咳払いする。そしたらもほとんど同じタイミングで俺と似たような咳払いをするから、つい顔を見合わせてしまった。照れくさそうな顔で笑ったは、やっぱりなんか、いつも教室にいるときよりも、数倍可愛く見えた。
 やっぱ俺って、単純か。








 三時間目の授業中は気付いてもらえなくても、四時間目が始まったら流石に「あれ?」って思ってくれる人はいるだろう。私も黒名くんも、元々授業をサボったりするタイプじゃないし。そうじゃなくても、どこかのクラスが授業で体育館を使ってくれさえすればいい。そうしたら開けてーっ! って大騒ぎしてやるんだ。どっちにしたって、どんなに遅くても、お昼休みにはここから解放されるだろう。だってお昼休みって、バスケして過ごす人が大勢いるもん。体育倉庫の鍵は、絶対に開けてもらえる。
 ――という期待はあったけれど、それはそれとして、体育倉庫ってめちゃくちゃ寒い。うちの学校の体育倉庫が広すぎる、っていうのも問題なんだろうけれど、やっぱりそもそもここが北海道だから、っていうのが大きいんだと思う。そうじゃなかったら、私だって我慢できた、いくらでも。でも北海道の十月は私には寒すぎるのだ。倉庫なんかにエアコンがあるわけはなかったし、天井近くの窓から差し込む光は暖を取るにはささやかすぎた。縮こまって、皮膚がひんやりした空気に晒されないように裾や袖を限界まで伸ばして座っているけれど、じわじわ体温が下がっているのがわかる。
 寒い。
 体育だからって背中とお腹に貼っていたカイロを剥いできちゃったけど、汗だくになってもいいからくっつけとくべきだった。さっきまで黒名くんとの無言の空間に堪えられなくて、咳払いが重なってしまったのを契機にちょこちょことおしゃべりをしていたけれど(どのあたりに住んでるの? とか、サッカー部って大変? とか。黒名くんからは、「は東京から引っ越してきたんだっけ」、って聞かれたから、迷ったけど、親が離婚したのって話した。当たり障りないっていうにはちょっと踏み込んだ会話だった。こんなことにならなければ、黒名くんとは絶対に、一生しなかったにちがいない話たち)それでも最早寒さに負けて口数が少なくなっている自覚がある。朝からちゃんとアレンジしていた髪は首筋が露わになっていて、寒すぎて、とうとう解いた。黒名くんが「えっ」って目を丸くした。一見異常な行動に彼を驚かせてしまったのだけが、申し訳なかった。



「ご、ごめんびっくりさせて、首元がスースーして、寒くて……」

「マジか。冷えてきたか?」

「ちょっとだけ……!」



 嘘だ。ちょっとどころじゃなくめっちゃ冷えてきたし、ものすごく寒い。
 床に座っていたのもよくなかったんだと思う。のっぺりした床は私のお尻から体温を徐々に奪っていて、指先は手も足もじわじわかじかんでいた。十月でこれなんだから、一月とか二月だったら、私たち、凍死してたかもしれない。東海林先生は怒られるどころじゃすまなかったかもしれないし、この体育倉庫はお化けが出るって噂になって、開かずの間になったかも。べし、ってくしゃみをしたら、黒名くんが自分のジャージに手をかけて、「着るか!?」って言った。ちょっと本気で言ってくれてたのがわかって、びっくりしたのと同じくらい、うれしかった。



「いやいや! そしたら黒名くんが寒いでしょ、大丈夫だよ!」

「いや、俺別に寒くない。平気、平気」

「だめだめ。流石にそこまでしてもらえないもん。気持ちだけもらうね……!」

「そうか……?」



 お腹までめくりかけていた裾を戻す黒名くんに胸を撫で下ろしながら、頭の隅っこで、勿体なかったかな、って感情がぐるぐる回っていて、困った。勿体ないってなんだよ。と、脳内の自分がもう一人の私をビンタする。黒名くんが風邪ひいちゃうじゃん、って。
 多分私も黒名くんも、何だかちょっと変になっているんだろう。大して話したこともない異性と密室に閉じ込められて、判断力が低下しているっていうか、なんていうか。
 でも、なんとなく、私がこんな風に思ってしまうのは、相手が黒名くんだからなんじゃないかなって思った。他の男の子だったら、ジャージを借りることなんか想像もしなかったし、断るのが勿体ないなんて思わなかった。
 教室の中で、いつもなんとなく目で追いかけていた男の子。口を開けるとぎざぎざの歯がのぞいて、なんだか無性にドキドキした。らんぜ、って名前の響きが可愛くて、こっそり口で呟いたこともあった。吊り橋効果なんかじゃない。でも、こうして二人で話す機会がなければ、絶対に気がつかなかった。だからって、どうする気もないけれど。
 かじかんだ指先を袖からちょこっとだけ出して、ほわ、って息をかけた。自分のものとは思えないくらいに冷たくなっていて、ちょっと引いた。鼻がむずむずして、もう一度くしゃみをした直後のことだ。私の視界が一瞬真っ暗になったのは。
 「え」って、喉の奥から声が漏れる。頭のあたりに圧迫感があって、ぐって押し込まれて、そしたら急に視界が開けて、息をのんだ。――その先に、半袖の体操着姿の黒名くんがいたのだ。
 黒名くんは真っ直ぐ、私を見ていた。



「身体冷やすの、やっぱ良くないから、着とけ、着とけ」



 俺男だし、慣れてるし、これくらいだったら寒くないから。少し掠れた声で、そう続けて。
 窓から差し込む、秋と冬のさかいめの淡い光。
 隅っこに積まれたマットレスの独特なにおい。空気は籠もっていて、少し動いただけで塵が舞った。外を通りかかる、学校の外、緑のフェンスの奥を通りかかった廃品回収の車の音。隅っこにつもった埃。そこに黒名くんはいた。ぎざぎざの、けれどきちんと並んだ歯。心配そうな目と、きれいに編まれた三つ編み。光に透けた髪。ジャージを着ていたときは分からなかったけれど、彼の腕は、しっかりした筋肉がついていた。いつも教室の端っこ、私の視界の端にいた黒名くんの骨張った手が、私の前髪をそっと払う。「悪い、髪ボサボサにした」って。寒さに負けて髪を解いて先にぐちゃぐちゃにしたのは私の方なのに。
 黒名くんのジャージは私のより一回り大きくて、黒名くんの体温が残っていた。あったかくて、嬉しくて、頭がぐちゃぐちゃになってうっかり余計なことを言いそうで、でも何とか堪えて「それは、黒名くん、ずるいです」って口にしたら、黒名くんは全然意味がわからないって顔で私を見た。そうだよね、わかんないよね、急に「ずるい」なんて言われたって。でもどうしようもなかったのだ。
 すきだ、って、思ってしまった。
 多分これ、一人で抱えていられないくらいの感情だ、って、私はとうとう自覚してしまったから。
 黒名くんのジャージに両腕ごとすっぽり収まったまま顔を覆おうとしたせいで、上手くできなかった。うっすら汗のにおいがしたけど、ちっとも嫌じゃなかった。ただ、頭とか胸がいろんな感情でいっぱいになって、どうにもならなかった。さっきまで寒くて寒くて仕方なかったのに、今はあちこちが熱を持って、あったかい。
 目の奥で、いつまでもちかちかとした微かな、けれど厳かな光が点滅していた。「わー……」って呟いた声は、黒名くんのジャージに押し付けられて、吸い込まれるみたいに消えて行った。
 黒名くんは不思議そうに私を見ていたけれど、こんなところで好きだなんて、絶対に言えなかった。