イングランド棟におけるイヤホンの不調と聞かされて現地に急行したのに、蓋を開けてみればイヤホンが不具合を起こしていたのはドイツの選手のものだった。
不機嫌そうな顔で私に故障したイヤホンを放って寄越したドイツ人選手は、ドイツ語で何か短く口走ったけれど、私はそれが聞き取れない。ドイツ棟でのアクシデントと聞かされていればそりゃあ私だってはじめから自分用のイヤホンを準備していったけれど(それか或いは、ドイツ語の堪能な先輩がこの仕事を引き受けただろう)、でも私は上司から、イングランド棟、って聞かされていたのだ。まさかドイツ語を要求されるなんて、思ってもいなかった。
――でもそんなの全部言い訳だ。勉強不足、準備不足の私が悪い。
彼が口走った言葉が分からなくて、日本人特有の愛想笑いを浮かべながら、「大変失礼致しました。こちら、新しいものに交換させていただきますね」と日本語で言った後、一応英語でも言い直した。ドイツ人選手の彼は理解しているのかいないのか、私の顔を椅子に座ったまま無言で眺めている。スーツの下を、じとりとした汗が伝う。
綺麗な人だった。サッカー選手じゃなくてモデルさん、って言われても、きっと信じたくらいには。
首筋には大きな青い薔薇の入れ墨。切れ長の瞳はくっきりとした二重瞼で、全体的に彫りが深い。毛先に向かってグラデーションになるように染められた髪の青は目が覚めるくらいで、彼がもう少し友好的な態度をしてくれていれば、私はきっと、うっかり「髪の毛、すごく綺麗な色ですね」って口にしてしまっていたと思う。だから、不機嫌でいてくれて良かった。
私に差し出された新しいイヤホンを耳にはめた彼は、私のことを見つめたまま、再び何かを口にした。さっきより気持ちゆっくりめの、はっきりとしたドイツ語。だけどそれでも、やっぱりちっとも分からないのだ。本当に、どうして自分の分のイヤホンを会社から持ってこなかったんだろう。こんなことなら大学で、フランス語じゃなくてドイツ語を選択しておくべきだった。申し訳なさに消え入りたくなりながらも、微笑みながら小さく首を傾げる。すみません、わかりません、を全面に押し出して。
どうしよう。誰か助けて。帝襟さん、その他職員の方、それかブルーロックの、イヤホンをしている選手。誰でもいいです――。痺れを切らしたらしい彼が左耳のイヤホンを外して私の耳にそれを押し込んできたのは、私が真剣に祈っていた、まさにそのときだった。
イヤホンを通じて、瞬時に通訳された彼の言葉が耳に飛び込んでくる。
「――コレに異常がないか確かめたいから、何か日本語で話せと言っているんだが?」
頭に直接放り込まれるように響いたその低く静かな声に、頬を殴られたような気がした。
ドイツ、バスタード・ミュンヘンに所属する、ミヒャエル・カイザー。
彼は私の胸にかけられた、裏返ったネームプレートをその指先でひっくり返すと、「――?」って、普段呼ばれ慣れている名字の方ではなく、ファーストネームで私を呼んだ。
何か話せって言われて、突然良すぎる顔を近づけられて、イヤホンを通して耳元で、確かめるように名前を呼ばれて、どうして動揺せずにいられるだろう。御影コーポレーションの社員として失格なのは分かっていても、取り繕えない。上手く表情が作れない。
「あ、あの」
もしも私がサッカーに興味があったら、何か彼の気を引くとまではいかないけれど、彼が気を悪くしないような話ができたかもしれなかった。でも私は、知らないのだ、何も。御影社長の御子息の、玲王くん、と言う名前の男の子がこのブルーロックにいること、このプロジェクトがそりゃあもうとんでもない波に乗っていること、日本中、いや、今や世界中がこのブルーロックを注目していることくらいしか。サッカーなんかルールも知らなかった。そうなると共通の話題なんか一個もなかったのだ。最早彼と私における共通点は、「人間であること」くらいしかないように思えたから。
眉を寄せて考え込んだ私が最終的に口にした言葉は、「――ご、ごめんなさい。カイザー選手にお話できるような面白いネタ、一個もないんです」だった。それは酷く怯えた、弱々しい声だった。これが企業の面接だったら、間違いなく落ちただろう。でも、尋常じゃない緊張感だったのだ。この人を前にした私の頭は、ほとんど真っ白だった。
ミヒャエル・カイザー選手は、そんな私を前に一度その切れ長の目を丸くした。それからその口角を上げて、ちょっと馬鹿にするように笑ったのだ。ふ、って。眉尻を微かに下げて。
「……俺を笑わせろとは、一言も言ってないだろ」
目の前の彼とイヤホンの押し込まれた右耳から、吐息混じりの笑い声が漏れて、心臓が止まるかと思った。
「まあ折角だし、面白い話とやらは、また今度持ってきて貰おうか? 」
彼は信じられないくらい綺麗な人だった。うっかり恋に落ちそうだったくらいには。
「」
カイザー選手に次に声をかけられたのは、それから数日が経った頃だった。
我が社のイヤホンを使用しているのは、ブルーロックでサッカー漬けの日々を送っている未成年が中心だ。故障よりも入浴や着替え、就寝時の取り外しの際に紛失、或いは破損の報告が多くあがっていて、私はその都度聞き取りや交換、追納のため、ブルーロックの施設に赴いていた。
何があってもいいように、あれから私はブルーロックを訪れる際は常に同時通訳イヤホンを所持していたけれど、常時耳に嵌めていたわけではなかったから、「」、と声をかけられた直後、それがカイザー選手だと気がついて、「わ、わー、ちょっと待ってください」って肩にかけていたバッグからイヤホンを取りだそうとして、そして、慌てすぎてその中身をひっくり返した。段取りの悪さに、我ながら驚愕する。これだから縁故入社って陰口をたたかれるのだ。
「わー!?」
中身の入ったペットボトルが落下して、ごろごろ転がって、カイザー選手の足元で止まる。彼の骨張った、彫刻のような手がそれを拾い上げたとき、血の気が引いて、倒れそうになった。ちがうんです、カイザー選手、私、本当はもうちょっとスマートにできるんです、って言い訳したくて、でも、言ったってどうしようもないのはわかるから、今の私は平謝りするしかない。イヤホンを耳に押し込みながら、直角にお辞儀する。
「す、すみません鈍臭くて……! 私に何か……!?」
「――いや、見かけたから声をかけただけだ」
顔を上げた瞬間、ペットボトルが放り投げられる。イヤホンを放られたときは受け止められたけれど、でも、ペットボトルはダメだった。キャッチできずに、それは見事に落下する。私の足の先に、上手い具合に床に立ったおかげで、それはもう転がらなくて済んだけど。
「え、すごい、立った……!」
足元を見ながら思わずそう漏らした私に、カイザー選手の方から、息とも笑いともつかない音が聞こえた気がした。「ガキか」って声も。だけど顔を上げたときには彼はもう踵を返して行ってしまっていたから、私はカイザー選手がどんな顔をしていたのか、結局わからなかった。
次に私がブルーロックを訪れたのは、さらに十日後。選手のイヤホンの交換に呼ばれたのだ。
イヤホンを紛失したのはドイツ棟に所属する日本の高校生で、同時通訳イヤホンを介す必要がなかった分、話は早かった。どうやらイヤホンをトイレに落としたのを気付かずに、そのまま流してしまったんだって。強度の問題は持ち帰って開発陣に報告できるけれど、それはもう、こっちでどうにかできる領分じゃないな。だけど「すみません、俺の不注意で、あれめちゃくちゃ高そうなのに」と申し訳なさそうに謝る男の子は真面目で朴訥とした雰囲気で、ちょっと癒された。外部の人間でもひしひしと感じるブルーロックの殺伐とした空気の中、彼の周囲は清浄機で浄化されたように澄んで見えた。
カイザー選手を見かけたのは、イヤホンの交換を終えて出口に向かって歩いていたときだ。
トレーニングルームと思しきところから、彼は同じドイツのクラブチームに所属している選手――確か、アレクシス・ネス選手だ――と共に出てきたのだ。視界の端っこに引っかかっただけなのに、信じられないくらいの存在感があった。
見つめすぎていたせいか目が合って、慌てて会釈する。緊張したけれど、「あの、イヤホンの調子はあれからどうですか?」と声をかけたら、カイザー選手は一度訝しげに目を細めた後、僅かな沈黙ののちに「……ああ」と思い出したような声をあげた。それに、ちょっとだけ、あれ、と思ったのだ。
あれ、なんか、怒ってる? って。
「――クソ普通」
その素っ気ない一言に、目を見開いてしまう。
たった一言そう言って私の横をすり抜けていったカイザー選手の首元に咲いた薔薇を、私は最後まで目で追っていた。アレクシス・ネス選手が一瞬こちらを振り向いたけれど、彼もまた口を開くことはなかった。
「面白い話はまた今度」「見かけたから声をかけただけ」「ガキか」――彼の言葉も、あのときの笑顔も、笑ったような息も、脳にぺったりと貼り付いたままだったけれど、彼なりのファンサービスの一環というか、ジョークとか、そういうのだったのかもしれない。そう思ったら、心が僅かにひしゃげたような気がした。
声をかけられて、ちょっと近しくなれたような気になって、勝手に舞い上がっていたみたいだ。馬鹿みたい。
クソ普通、とカイザー選手が言っていたイヤホンは、だけどその数日後、また壊れてしまったらしい。
いや、壊れた、って言うより、壊された、の方が正しいのかも。悲しいけれど、フットボールの一番熱い場所、と巷で称されているブルーロックではイヤホンに限らずこういうことは度々あるらしい。熱くなりすぎて、うっかり備品を壊しちゃうんだろう。試合に負けたテニス選手がラケットをたたき折るみたいに。
ぺちゃんこに潰されたイヤホンを前に悲壮な顔をしそうになったのをどうにか堪えて、「耐久性がまだ弱かったですかね」と、同意を求めるような、独り言のような、どっちともつかない言葉を口にしたけれど、すかすかの、中身をくりぬいたような声音になってしまった。私は製造部の人間ではないけれど、大切な商品が壊れてしまうのは悲しい。カイザー選手は私をじとりとした目で見るだけで、何も答えてくれなかった。よくよく考えたら彼の耳には今意思疎通を図るためのイヤホンがないんだから、それも当たり前のことだった。
だけど二人きりの室内の空気は、重苦しい。
多分先の試合で何かあったんだと思う。私はブルーロックに関しては断片的に入ってくるSNSの情報でしか知らないのだけれど(見る暇がない、っていうのもそうなんだけど、それで誰か特定の選手のファンになってはいけない立場だと思うのだ。そうなった場合、私の性格上仕事に支障を来すのは、想像がついたから)、昨日の試合はカイザー選手にとって良くない流れのものだったらしいのだ。
だからカイザー選手は、苛立ちに任せてイヤホンを踏み抜いたんだろう。
手渡した代わりのイヤホンをカイザー選手が耳に嵌めたのを確認してから、「次はもっと耐久性のあるものを目指しますね。何か使っていて、他に要望はありますか?」と、形だけに思われたかもしれないけれど、尋ねた。だけどカイザー選手は答えない。少し彼の反応を待ったけれど、沈黙を、彼は椅子から立ち上がることで破った。咄嗟にびくりと肩を震わせた瞬間、その手が私の、落ちた髪に伸びる。それを耳に引っかけた彼は、私の耳にイヤホンがあることを確かめたかったのだろうか。わからないのだ。私は。
カイザー選手の考えていることが、一個も。
「――クソどうでもいいな、そんなこと」
耳元で呟かれたそれに、ぞわりと背筋が粟立った。
その殺気だった声音が怖すぎて、ちょっと泣きそうだったなんて、彼はきっと知らないんだろう。
カイザー選手が出ていってから少しして、私も何とか部屋を出た。瞬間、この前の男子高校生――潔くん、って言ったかな――に声をかけられて、思わず顔をあげる。彼は直前にカイザー選手とすれ違っていたのか、「え、お姉さん、カイザーになんかされたんですか」って心配されて、びっくりした。なんでもないよって首を振る他なかったけれど、潔くんの双眸の中で、私はどんよりとした暗い顔をしていた。
仕事をしているだけだ。
そこに私情を挟んではいけないし、何か見返りを求めてはいけない。分かっているから、きちんとそう自分に言い聞かせて、両頬を叩いて気合いを入れてから来たっていうのに、今カイザー選手はそういうのを全部見透かしているみたいに、その口元に微かな微笑を携えたまま私を見つめている。「面白いネタが一個もない」と謝る私を前にしていたときのように。
――わけがわからない、本当に。
というか、そもそも住む世界が違う人だ。彼は私の物差しで測れるような人じゃない。けれど彼は今日機嫌が良い、っていうのは間違いないんだと思う。「イヤホンをトイレに流した」って、どこかで聞いたようなことを言って私を呼びつけたカイザー選手は、前回や、その前に彼が纏っていた苛立ちを今日の彼は持っていなかった。
良く呼び出されるな、とは思う。イヤホンのトラブル回数に関して言えば、彼がこのブルーロック内において圧倒的にトップだろう。最初の不調による交換は、こちらの不備ではあるけれど。だけどブルーロックを全面的に支持すると決めたのは社長だ。イヤホンの一つや二つや三つや四つ、世界の御影はいくらでも提供する。
新しいイヤホンを彼に差しだそうとしたときだ。制するように私の手の前に手の平を向けたカイザー選手が、「この前は素っ気なくしたな」と、薄い笑みを浮かべながら首を傾げたのは。ドイツ語だったけれど、私はきちんとイヤホンをしていたから、彼の言葉は理解できた。「悪かった」って、彼は続ける。
「――怒らせたか?」
けれど本心から謝っているようには、全く見えなかったのだ。むしろその表情も相まって彼の胡乱さに拍車がかかっていて、それで、つい、「この前もですけど、その前も素っ気なかったですもんね」って漏らした。気を抜いていたのだ。イヤホンを紛失した彼は、今、私の日本語なんか聞き取れるはずがないって、そう思い込んでいたから。
「あんまりにもショックで、私、家に帰って泣いちゃいましたよ」
私はカイザー選手のことを、ちゃんと知らない。
ドイツ出身の選手だってこと。その風貌も相まって、物凄く人気があること。試合で活躍する彼を見たら、今度こそ本当に取り返しがつかない感情を抱いてしまう気がしていたから、一度もチェックしなかった。憧れと恋愛感情の区別がつけられなくなって、仕事に支障を来すに違いなかった。彼はそれくらいうつくしかった。ありとあらゆるものを薙ぎ倒す、凶暴で、鮮烈な美しさだった。分別は、だから持っていなくちゃいけなかったのだ。持てないのが分かっていたから、遠ざけた。
だけどカイザー選手は、ふ、って笑う。イヤホンなしでは理解できないはずの日本語を前に、「そりゃ悪いことをしたな?」って、言う。
「サッカーが絡むと、気が立つんだ」
そこでやっと、お腹がすうって、冷えるような感覚がした。カイザー選手はわざと自分の髪をかきあげて、耳にひっかける。ブロンドから青への美しいグラデーションに、首筋の薔薇に、こんなときでも目を奪われる。だけど、私は見逃していなかった。「トイレに流した」と言っていた我が社の同時通訳イヤホンが、きちんと彼の耳にあったのを。
「お前から面白い話とやらも聞かなきゃならないし、泣かせたなら詫びもしなきゃならないな?」
「ひ」
漏れかけた悲鳴を両手で押さえて立ち上がる。血の気が引いたのに、目の奥が急激に熱を持って、貧血のときみたいに視界が点滅する。
騙された。
でも、なんで。
手渡された、恐らく彼の連絡先が記されていると思しきカードと彼の顔を何度も何度も見比べながら、私は全然、全然わからない、って、強く思っていた。私の様子を見て楽しげに微笑んでいるカイザー選手の考えていることが、私にはちっとも理解できなかった。
「こ、これは、なんでしょうか」
「落書きにでも見えるか?」
「いえ、ちっとも……」
けれど多分、私は今日家に帰ったら、月額五百円を支払って、ブルーロックTVに加入するんだろう。それで、彼の試合を片っ端から観るのだ。それで呆気なく、ファンになる。簡単に想像がついたのに、後ずさりした。カイザー選手はテーブルに肘をついたまま、私の反応を見て笑っている。「これって、ドイツ流のジョークですか?」尋ねる私に、彼は微かに首を傾げた。
「だったらどうする?」
目を細めながらそう続けられて、どんな顔をしたらいいのかも分からなかった。信用できなすぎて、体の良い現地妻にされるんだろうか、と思ったけれど、流石に口にはできなくて、差し出されたカードを震える手で受け取った。
瞬間彼が見せた眦の奥の光を、私は今も覚えている。
騙されてるんだろうなあって思っていたはずなのに、数年後、彼を追いかけてドイツに行くことになるんだから、人生って何があるかわからない。
「馬鹿だと思ったんだ」
彼はいつか、言っていた。「壊れたイヤホンを前に涙ぐんだが、酷く愛情深い、愚かな人間に見えた」って。彼の「愛してる」は、酷く歪んでいた。けれど鈍い光を放つそれは、私の目には、酷く美しく見えていた。