いつもだったら玄関まで出迎えてくれるの姿はそこになく、代わりに「あら、玲王くん。こんにちは。だったら部屋にいるから上がってね」とタマを抱いたおばさんに言われたときから、いや、もっと言うと家を出るときに送ったメッセージに返信がないどころか既読すらもつかなかったときから、薄ら嫌な予感はしていた。
茹だるような暑さの七月の終わり。去年の夏休みは人目が気になるって言うんでデートらしいデートなんかほとんどできなかったから、今年こそはそれらしいことを、と思ってはいたものの、いざ蓋を開けてみれば高二の夏は互いに多忙を極めていて(は夏期講習、俺は勿論サッカーだ)、予定を組むのに互いの日程を摺り合わせるので手一杯だった。なんとか見つけた夏休み最初の「穴」はこの日の午後三時から五時っつーなんとも半端な時間帯で、それで俺はの家にお邪魔させてもらう約束になっていたんだけど――。
「…………寝てんのかよ」
俺がノックをしてから扉を開けたとき、は部屋のローテーブルに上半身を突っ伏して、完全に寝息を立てていた。
伸びたの右腕の先にある中身が半分ほど減ったグラスは大量の結露が滴っていて、起きたときに、いや、そうでなくてもふとした瞬間に零す未来しか見えなかったから、コースターごとテーブルの端の方にずらしてやる。
テスト前の勉強会のときも使うローテーブルは奥行きも幅も結構あったが、今はそこに雑誌や暗転したタブレット、化粧品やお菓子が雑多に散らばっていた。……いつも部屋をびしっと整えた状態で出迎えてくれるから、これはこれで新鮮だな、と頭の端で考える。まあ、こっちの方がっぽいけど。
の方は午後から空いていたはずだから、俺が来るまでの間をのんびり過ごしていたんだろう。で、のんびりしすぎて寝落ちな。昼飯も食べた後だろうし、仕方ねえか。外、死ぬほど暑いし、午前で体力も使い果たしたに違いない。
その時の左手に緩く握られていたスマホがぱっと閃くように点滅して、見ちゃ悪いって頭で思いながらもつい視線をやってしまう。――夏帆。……種山さんか。お笑い芸人のネタについて話しているのが見えて、垣間見えてしまった去年の同級生の意外な一面に、ちょっと笑いそうになった。へー、好きなんだ、意外。って。
――てか、手の中でスマホが振動しても起きないのかよ、こいつ。
起きる気配の一切ないの隣に腰を下ろして、ローテーブルに肘をつく。
もう何度も訪れたの部屋は相変わらず細かい飾りが多くてごちゃついているが、居心地は悪くなかった。前はしなかった甘ったるい匂いがするが、最近皆瀬からもらったとか話していたお香でも焚いたんだろうか。閉めきられた窓の向こうから飛んできた蝉が激突して、じっ、ってすげえ音がしたけど、は指先をぴくりと動かしただけだった。俺ですら今、結構ぎょっとしたのにな。
起こした方がいいんだろうけど、これ、ガチ寝だよな。寝息もしっかり聞こえるし。ベッドに寝かしてやったら夜まで爆睡しててもおかしくなさそうっつーか。
疲れてはいるんだろう。昨日も一日夏期講習でしごかれたって話していたし、今日の午前も授業があるって言っていたから。「目を閉じると関数のグラフが出てくる……」って話すはふわふわしていて、ちょっと可哀想なくらいだった。
フレンチスリーブの袖から伸びた生白い腕。手首には、最近ようやくコツが掴めて一人で外せるようになったと言っていた、俺のあげたブレスレットがあった。突っ伏されたまま微動だにしない頭は小さくて、普段は見えないうなじが流れる髪の隙間から覗いていた。ゆっくりした呼吸と共に揺れる肩は薄くて、ついまじまじと観察してしまう。崩された両足。内臓が詰まってんのか疑わしいくらい頼りない腹と、テーブルの淵に押し付けられた胸。
胸。
「………………」
――いや、だめだろ。
何か考えそうになる自分を制するように、そう思う。
この部屋が悪い、ってのもあるのだ。ついこの間、テストのご褒美におんぶをしてくれと頼まれた俺が、実際にをおぶった部屋。その後キスをしたのは、悪戯っつーか出来心っつーか、意地悪みたいなもんだった。まさかあんな顔で続きをせがまれるなんて思ってなくて。
そう、続きをしてくれって言われたのだ。
そんでそのまま、のベッドで。
「ん……」
その先の回想を止めたのは、が僅かに身動ぎをしたからだ。
一瞬息が止まって、の動きをじっと見守る。起きるかと思ったが、はちょっと頭の位置を変えただけで、まだ目を覚ます気はないらしかった。――ほっとしたんだかがっかりしたんだか、わかりゃしねえ。でも、起きてくれないとまずいってことだけは確かだった。この前のことを思い出しかけたせいで、若干妙な気になっていたのだ。
別にこの間だって、勢いのままに最後までやっちまったわけじゃない。でもおばさんが予定よりも早く帰ってこなかったら、どうしていたかわからなかった。や、多分止まんなかったな。そのせいか最近といると、これまでは極力意識しないようにしていた部分がどうにも浮き上がって見えて、結構キツい。頭とか手とか背とか、やっぱ小さいな、とか、いい匂いするなとか、こんなニコニコしてるけど、この前俺に胸触られてたとき耳まで赤かったよな、とか。その度俺がかぶりを振って別のことを考えるようにしてんの、多分、は分かってないだろう。
我ながらその浅ましさには嫌気が差すが、そういう日々を送っていた中迎えたこの状態で何も反応するな、意識するなって方が無理な話だ。が身動ぎしたことでさっきまで見えていなかった頬から耳にかけてのラインが露わになっていて、その無防備さに喉が鳴る。手を伸ばせば届く距離にいる恋人が一切の警戒のないままに寝顔を曝け出している、って、健全な男子高校生にはどう考えても酷だ。あーでも、凪だったら気にしないのかもしんない。「じゃー俺も寝よー、おやすみー」って、全然気にせず寝そうじゃね? でも俺は凪じゃねえし、結局良いところでオアズケ、ってなった相手がこうしてすやすや寝こけていたら、そりゃあやっぱ、平生ではいられない。
「…………おーい」
テーブルに片肘をついたままの方に身体を向けて、右手を伸ばす。
ノック音にも俺の声にも果てはスマホの振動にも反応しなかったが今更「おーい」くらいで目を覚ますはずもなく、は音とも声とも判別のつかないものを唇から漏らしただけだ。その吐息のようなものにすら背筋が粟立ちそうになって、無意識に頬杖していた指先に力を込めた。やべー、って腹の中だけで思いながら。
つか、今何時だ? 自戒を込めて、時計をちらりと見る。今日はが行きたいって言っていた花火とか、プールの予定とかを詰める予定でいたから、このまま夕方まで放っておけば「なんで起こしてくれなかったのー!?」と泣きつかれることは想像がついた。そろそろ起こさなきゃな、とは思う。そうじゃないと俺だって、まずいことしそうだし。
「……―、起きろー」
とりあえず頬を指でついたら、想像していたよりずっともちもちしていて、ビビった。思わず指の腹で感触を確かめるようになぞる。うわ、やわらけ。そりゃ俺もケアはしてるけどさ、男と女の肌って、そもそも作りが違うよな。確かめるように指に力を入れても全然起きる気配がないのはどうかと思うけど。つい笑ってしまうが、でもここまで無防備だと逆に心配にもなる。――これ、俺じゃなかったらどーすんだよ?
俺の目の届かない場所で、こいつがこんな隙だらけの状態でいたらと思うと気が気じゃない。そりゃ、自分の部屋だからこんな風に寝落ちしてるんだろうけどさ、でもって、電車の中とか教室とか、そういうとこでもうっかり寝ちまいそうなところがあるんだよな。そう考えたらどうにもならない感情がむくむく湧いてきて、気がついたら頬に伸ばしていた指を剥き出しの耳朶に這わせていた。一応、「触っちまうぞ」とは呟いてから。
ピアスホールなんか一個も空いていない生来のままのそこは柔らかくて、薄い。指で緩く挟んでなぞれば、くすぐったいのか、が初めて微かに眉を寄せて「……う」って唸った。――耳、弱いのか? 確かめるように指の腹で柔く擦る。は緩慢な仕草で首を動かす素振りを見せるけど、ほとんど寝ているわけだから完全には逃げられない。
「ん、うぅ……」
ふわふわした柔らかい声に、つい喉の奥で笑う。嗜虐心の混じった悪戯心が抑えられなくて、つい無意識ながらも逃げようとするに身体を寄せた。いや、大丈夫、まだな。まだ我慢できる。けっこーギリギリだけど。でもだからこそ、にはそろそろ起きてもらわないと困るのだ。いくら彼女とは言え、寝ているの身体の、もっと直接的な部分に触るってのは流石にナシだから。
でも、ちょっとくらいなら意地悪してもいいか。
の耳元に唇を寄せて、わざと吐息混じりにした声で名前を呼ぶ。「」って。
「――起きてくんねえと悪戯するけど、いいの?」
駄目押しとばかりに耳朶に唇を落としてから軽く歯を立てたら、の身体が跳ねた。「んわっ?」と悲鳴をあげて顔を持ち上げて、俺に齧られた耳を左手で押さえる一方で、テーブルの上で緩く曲げられていた右腕がピンと伸びて、俺が隅に寄せといたグラスを掠める。……やっぱアレ、先に避けといて良かったな。そうじゃなきゃ、倒れて悲惨なことになっていただろう。
俺が声をかけてもスマホの振動でも目を覚まさなかったくせに、やっぱり耳は弱いらしい。ばっちり目を開けたと目が合った。寝起きの良いは目覚めた直後でもしっかり頭が働くらしく、「えっ、えっ、玲王くん、あれ!?」って、俺と時計とを見比べて慌てている。その反応が面白くて、どうしようもなく可愛くて、つい笑った。
「え、あれ、い、いつからいたの? わ、私寝てた……!?」
「あー、ちょっと前から? 来たら寝てたから、どーすっかなーって、寝顔見てた」
「寝顔……!? 待って待って、私、よだれ垂らしてないよね? 寝言言ってなかった……!?」
「ふは、大丈夫だよ、そんなん」
よだれ垂れてても寝言言ってても、別に気にしねえし。そう言いながらの頬に手を伸ばす。指先で撫でてから落ちた髪の一房をその耳にかけてやってその耳朶にわざと触れると、はびくりと身体を竦めて、それから一気に熱を持ったその顔で俺をじっと見た。「私はだいじょうぶじゃ、ないもん」と、初めて警戒するように座り直すもんだから、笑ってしまう。
俺に歯を立てられた感覚が残っているんだろう。不思議そうに耳に触りながら、はそろりと俺を見上げる。
「……あの、玲王くん、私が寝てる間になにかした?」
みみ、とか。
そうぽつりと続けたときの困惑と羞恥の混ざった顔が妙に可愛く見えて、つい余計な意地悪をしたくなって、困った。笑いながら首を傾げて「さあ?」って言った俺には益々眉を寄せたけど、でもな、無防備に寝ていたの耳を甘噛みしたことなんて、わざわざ言わなくても良いだろ。
は何か言いたげに俺を見つめていたけど、最後は小さく唸って、言葉を飲み込んでいた。それにすらちょっとムラッとくるけど、もし今ここでキスしたら、また止まらなくなりそうなんだよな。下におばさんがいる状況でそれはまずいから(――というか、夏休みの予定を決めるって約束をしていた日にそうなったら困るから、今日だってこうしてのうちに来たのだ)、頭を撫でるだけにしておく。
この前のとの諸々を思い起こさないよう、「ほら、予定決めんだろ?」とベッドを視界の外に置きながら口にしたら、はぱっと顔を明るくした。切り替え早。でもそういう単純なとこも可愛いのだ。
「そうそう! あのね、私、寝ちゃう前にいろいろ調べてたんだけど……」
テーブルの上に置かれていたタブレットに手を伸ばすの手元を「どれどれ?」って覗き込んだ。はもう、俺に身構えたりしない。そういうところ、好きだな、って思う。この無防備さが俺にだけであってほしいな、とも。
一生手放さないって決めている以上、別に急ぐ必要はないのだ。頭から爪の先まで全部自分のものにしちまいたいって思いがあるのも、嘘じゃないけど。窓の外でじりじりと鳴き続ける蝉の音と、照りつける陽の鮮烈すぎる光の強さに一度目を閉じてから、もう一度の方に身を乗り出した。瞬間が緊張したように身を硬くしたのが、ちょっと笑えた。