「日本サッカー界の宝」である吉良涼介は、校内どころか県内、いや、全国に女性ファンが大勢いて、試合での活躍の度、手紙もプレゼントも箱で届く。誇張なしで、本当に箱で。
学校の住所宛に届けられたそれらを見かけたのは、一回や二回じゃ済まなかった。サッカー部の広い部室のほとんどが箱で埋まる日もざらにあったらしいから、大変だったみたい、本当に。もらった本人はケロっとしていて、「こんな風に応援してもらえるなんて、ほんとありがたいよね」なんて笑っていたけれど。
サッカーの実力は当然のことながら、アイドルさながらの甘いルックスに良く通る理知的な声、インタビューを受ければ好青年然とした受け答えが反響を呼び、噂によると今度女性向けの雑誌で特集が組まれることになっているんだとか。そんな人が同じクラスにいるってなると、全然まったくの無関心、ってわけにもいかなくなる。普段ちっとも話す機会なんかなくても。スクールカーストのてっぺんにいる彼を教室の隅っこから見ているだけであっても。
サッカー部の一軍、美人すぎるマネージャー、スクールカースト上位に鎮座する少数精鋭に囲まれた吉良くんは、名前の通りいつだって燦然とキラキラ輝いていて、一般人の私が近づくことは敵わない。例え吉良くんが目の前でハンカチを落としてもそれを拾うのは彼の隣に寄り添うマネージャーだったし、吉良くんが忘れ物をしたときに代わりに他の教室に行って教科書なんかを借りてきてくれるのはサッカー部の仲間だった。吉良くんの囲いは文字通り吉良くんを守るバリア。吉良くんは汚されない。何者にも傷をつけられない。
吉良涼介はアイドルだ。
彼を知っていてそう思わない人なんて、誰一人いやしなかった。
だから、びっくりした。いや、びっくりなんて言葉じゃ済まない。天地がひっくり返ったら、だって皆、「びっくりした!」で終わらせないでしょ? 私にとってそれは、それくらいの出来事だったから。
その日は午後から雨が降っていて、放課後に先生に質問をしていた私が人気のなくなった昇降口に行ったとき、私の傘は誰かに盗まれた後だった。最悪、最悪、最悪すぎる。こんなことになるなら友達に待っていてもらえば良かった。それか質問に行くのは明日にすればよかった。傘に馬鹿みたいな顔でも描いておくべきだった。傘を持っていってしまった人が、盗む気がなくなるくらいの。
今泥棒の手にある私の傘、もういきなりバラバラになってほしい! それか泥棒の人、手を滑らせてスマホを水溜まりに落としてほしい! 許せないゆるせない! 思いつく限りの呪詛を脳内で並べるけれど、そんなことをしたって傘は戻って来ない。くそー、って思うしかないのだ、私は。だから、くそー、と思いながら、薄暗い外を見た。重たい色の空にたれこめるどんよりとした雲から雨は容赦なく降り注いでいて、走って駅まで行ったらそれだけで制服も髪も全部だめになることは目に見えていた。傘置き場には一本だけしっかりした傘が残されていたけれど、だからといって持って行っちゃおうと思うわけがなかった。人の物を持っていくなんて、ありえない。そんな心を持った人間が同じ学校にいるなんて、正直信じられなかった。
何故世の中フトドキモノが得をして、朝きちんと天気予報を見てきた人間が損をしなくてはならないのか。下駄箱の先まで歩いたところでスマホを取り出す。ほとんど物陰になるところに身体を寄せながら、小さくため息を吐いた。雨は全然、やみそうにない。
帰れなくなっちゃったよ、って、お母さんに連絡するか、いやでもまだパート中だったかも。お姉ちゃんはどうだろう。最近免許を取ったばかりのお姉ちゃんにこんな豪雨の中運転させるのは悪い気もするけれど、今日は大学は朝だけって言っていたからなんとかしてくれるかもしれない――なんて考え込んでいたら、背後の方からガタンって音がして、危うく声を出すところだった。でも、出しておけばよかったんだ、きっと。そうしたらその人は、物陰に私がいるって気がついたはずだった。そうしたら「彼」は迂闊な行動もしなくて済んだし、疲れた本音も吐き出さずにいたはずだった。
バサバサって、何か質量のある紙の束のようなものが落ちた音がした。下駄箱を開けたときに、中に入れられていたものが落ちてしまったような音だった。実際それは、本当にその通りだったのだろう。「はぁ?」って、彼は言った。
「さいっ……あく」
吐き捨てるようなその声に、今度こそ息が止まる。
だってその声は、私が今靴を履き替えたあたりから聞こえてきた。すぐそこの、二年生の下駄箱の付近。心臓がバクバクした。盛大なため息。舌打ち。それから聞こえた、「もらうほうの気持ちとか、絶対考えてないんだろうなあ、これ……」って、あんまり感情のない声。がさがさ、って音がして数秒後、ぐしゃぐしゃって、紙を潰して丸めたような音がした。なに、なに、なに? 逃げた方がいいかも、って思うのに、こういうときに限って雨足が馬鹿みたいに強くなって、逃げ場がない。
「あ」
だから、下駄箱の影から出てきたのが吉良くんだって分かったとき、その手に、明らかに女の子からの手紙だったんだろうなっていうぐしゃぐしゃの、まあまあ厚めの手紙が入っていると思しきピンクの封筒が丸められていたのを見て、私は、まずい、って思ったのだ。
吉良くんは、目を丸くして私を見ていた。人がいるって全然知らなかった、って顔だった。封筒、隠そうとしたのかもしれない。背中に隠すとか鞄に入れるとかじゃなくて、よりいっそう握りしめようとしたのが、吉良くんの混乱を如実に表していた。
「えっと――」
吉良くんが気まずそうに笑う。アイドルみたいな、いつもの笑顔で。
「…………これ、君が書いたやつ……じゃないよね?」
「……………………ではない、ですね…………」
「だよね……。よかった……」
よくはないんじゃないかな。
あからさまにほっとしたように胸を撫で下ろした吉良涼介くんは、私が困った顔をしているのを見て、「ごめん、今の内緒にしてて」って、ちょっとだけ眉を下げて笑った。「は、はい……わかりました……勿論……」って、私の返答が明らかに引いていたせいだろうか。吉良くんも困ったような顔になって、それから私と外の様子とを交互に見る。
沈黙は、どれくらい続いただろう。
「いや、ごめん、ちょっと君に勘違いされてそうだから……弁明の時間もらえないかな?」
その表情も、声も、さっき溜めて溜めて「さいっ……あく」って言ったのと同じ人物であるようには、到底思えなかった。
君、君、って呼ばれたものだから、もしかしたら吉良くんは私が同じクラスだってことを知らないのかなって思ったけれど、靴を履き替えて教室に戻る道中、吉良くんはちゃんと私のことを「さん」って呼んだ。
「帰るとこだったのに、ごめんねさん…………って、どうしたのそんな顔して」
「名前知ってるんだって思って、びっくりしちゃいました……」
「え? 知ってるよ。同じクラスなんだから。――さん、でしょ?」
「えー! すごい。正解です。話したことないのに……!」
「正解って。普通だよ。それに、それだったらさんが俺の名前知ってるのもすごいってことになるじゃない」
「それとこれとは別ですよ、この学校で吉良くんのことを知らない人、いないと思う」
「そうかな? そんなことないと思うけど」
吉良くんは、耳に馴染む柔らかい声で言う。こんなに穏やかで落ち着いた人だっていうのに、一体どうしてさっきはあんな風に、別の人みたいに尖った感情を露わにしていたんだろう。窓をたたく雨の音は激しくて、真っ直ぐに伸びた廊下の先はどこまでも薄暗かった。絶対にそんなことないはずなのに、もう校内には私たち以外、誰もいないみたいに思えた。
吉良くんは、サッカーに関することで色々先生とお話があったらしい。日本フットボール連合から手紙がきていて、学校に相談しなければいけないことがあって、それでこんな時間まで残っていたんだって言っていたけれど、「ごめん、つまんないよね。こんな話されたって」って笑った吉良くんは、その話をそこでやめた。そんなことない、って首を振っても、でも、吉良くんはやっぱりそれ以上私に話す気はなかったみたいだ。「雨やばいね」って、窓の外を見やって呟いただけだったから。
「弁明」って吉良くんは言ったけど、いいのに、って思う。そんなことしなくても、言いふらしたりしない。まあ、びっくりはしたし、多分向こう数年忘れられないと思うけど。吉良くんがもらった手紙をぐちゃぐちゃにしていたこと。――でも、吉良くんからしたら念押ししたいか。私に弱みを握られてしまったようなものなんだから。
吉良くんの色素の薄い髪は、薄暗い窓の外からの、茫洋とした光に照らされて微かに透けていた。真っ白い学ランは、やっぱり彼をアイドルとか、王子様とか、そういった類の特別な存在に仕立て上げるためにあるように思えた。窓硝子につく無数の水滴までキラキラ輝いて見えた。見とれていた意識はなかったけれど、見すぎていたのか、吉良くんが不意に私に視線を寄越す。ドキ、として、ちょっとだけ目を見開く。
「…………てか、敬語やめない?」
「同じクラスなんだから」って、細められた目が、きれいだった。
それがあんまりにも優しい声だったから、きれいな顔だったから、うっかり恋に落ちそうだったなんて言ったら、吉良くんはさっきみたいに、「最悪」って思うのかな。
そう思ったら、なんだか勝手に胸が痛んだ。
世の中悪い人なんてそんなにいないって思って生きていたから、私は自分の思う「普通」から逸脱している人とか行動を見ると、びっくりしてしまう。びっくりして、なんで? って思う。それから、それが自分に災いをふりかけるものだったりしたら、くそー、って思う。くそー、なんか相応の罰を受ければいいのに! って。丁度さっきの傘のときみたいに。
そんな私でも、吉良くんが私に見せてくれた手紙を見たときは、びっくりを通り越して恐怖してしまった。こんな人、いるの? って。きれいな女の子の字で綴られた、行き過ぎた吉良くんへの、どろどろの愛。最初はただのラブレターだと思って、いや、こんなの私に読ませるなんてだめですよ、って思っていたのに、というか実際言ったのに、吉良くんは「いいから読んでみてくれる?」って言った。最後は怖くて泣きそうになってしまった。だって、写真まで入っていたのだ。顔は映っていないけれど、差出人のものと思われる、半裸の、ちょっとエッチなやつが何枚も。
セクハラじゃん!
絶句する私に、吉良くんは「ごめん、やっぱり見せなきゃよかったかも」って、ちょっと困ったような顔で言った。でも見せてもらえなかったら私、多分吉良くんのことずっと「受け取ったラブレターを最悪って言ってぐちゃぐちゃに丸める人」って思っていたと思う。言いふらしたりはしないまでも。だから、真実を教えてもらえてよかったのだ、きっと。
「…………この手の手紙、実はこれで三通目なんだよね」
「え、ええ、だ、誰がこんなことを……!」
「それが分かればね。直接注意できるんだけど」
「え……直接は、怖くない?」
「まあ相手は女の子だから、怖くはないかな。……こっちに正当性があるわけだしね」
「正当性……そっかぁ……。でも、モテるっていうのも大変だね……」
「うーん……好いてくれるのはありがたいことなんだけどね」
苦笑いする吉良くんは、でも、本当に本気でそう思っているのだろうか。
薄暗い教室で、吉良くんは一度私に読ませるために丁寧に伸ばしてくれた手紙を、鞄に押し込む。彼はもう、それをぐちゃぐちゃにしたりしなかった。恐らく家に帰ってから処分はするんだろうけれど。「ごめんね、俺の保身のために変なの見せちゃって」って私を気遣う吉良くんは、どこまでも優しかった。
――好いてくれるのはありがたいって、吉良くんは言った。でも、本当に吉良くんは、ありがたいって思ってるのかな。こんな、同性からみてもとんでもないひとに好かれて、嬉しいわけない。最悪、って言ったのが、本心だったんじゃないだろうか。あのとき下駄箱の前で、彼は一体、どんな顔をしていたんだろう。
吉良くんの真意は、どうにも読み取りにくい。いつも浮かべている完璧な笑顔は翳りも隙もなくて、私は今それが自分の前にあることが、なんだか不思議だった。いつも一緒にいる彼の友達やサッカー部の女子マネージャーが、彼を守る壁。そう思っていたけれど、でも吉良くん本人も大概だ。こうして二人でいても、あんまり近くにいる気がしない。5メートルくらい遠くにいる人と話しているみたい。
「吉良くん」。確かめたくて、名前を呼んだ。吉良くんの双眸がこちらを向く。右目の下の泣きぼくろ。セクシーでだいすき、って、手紙の人が書いていた。ずっと見てる。ずっと見てるよ。わたしの涼介くん。あなたがどこに行こうとも。――呪いみたいな、ラブレター。ぐちゃぐちゃに丸めても、消えてなくなったりしないそれ。
「…………こんなの、疲れちゃうねえ」
でもそんなこと、言うつもりはなかったのだ、本当は。
吉良くんは多分、これからもそうして、色んな人の感情に晒されて生きていくんだと思う。サッカーでも、それとは関係ない場所でも。勝手に期待されて、吉良涼介としての正しい像を押し付けられて、彼自身はそれに応えるため、きれいな笑顔を貼り付けて。なんでも持っている人の宿命っていうと、突き放したようでよくないのかもしれないけれど。
吉良くんは丸くした目から、そうとわからないくらい、徐々に力を抜いた。「そんなことないよ」って言ってくれたら、多分私はそのまま今日のことをなかったことにして、明日からも彼を、うちの学校のアイドルとして見守るつもりでいた。あの手紙のことも、彼が「最悪」って言ったことも、全部忘れて。でも、吉良くんはその瞬間、多分、完全に「吉良涼介」であることをやめたんだろう。遠くを見るように目を細めて、彼は言った。「そうだね」って。いつもよりずっと低い声で。
「結構疲れるね」
その声の掠れた感じは、いつまでも私の耳に残っていた。ばたばたと音を立てて窓を叩く雨を背負いながら、吉良くんの表情は逆光で、よく見えなくなっていた。
そのときの吉良くんが纏った全部が、好きだと思った。恋に落ちそうだったと思った、さっきよりもずっと、私は今、このときの吉良くんが好きだと思った。吉良くんが見せた綻びを、でも好きだって言ったら、やっぱり彼は迷惑に思うのだろう。分かっていたから労うように「ね」とだけ言った。相手を苦しめるかもしれない「好き」だったら、自分の中に閉じ込めて、小さくしてなくしてしまうほうが、ずっと良いと思ったのだ。
雨だけが、いつまでも降り続いていた。それはもうずっと、やみそうもないくらいに強い雨だった。