芋ブス眼鏡は、いつまでも芋ブス眼鏡だ。
 かけると目の横の輪郭が屈折してへこんで見えるくらい度の強い眼鏡は、コンタクトにしたいって言いづらくて、今もそのまま使ってる。ブスに磨きがかかるから、授業中だけだけどね。野暮ったい長いだけの髪は親に「暑苦しいから切れ」っていつも言われているけれど、伸ばした前髪を切るわけにはいかない。だって芋ブスが堂々と歩いていたら、皆もいやでしょ?
 昔から他の子たちより骨太で背が高かったから、小学生の頃わざとぶつかってきた男子は悲鳴をあげながら大袈裟に吹っ飛んでみせていた。「芋ブス眼鏡」って言われたのも、そのときだ。「芋ブス眼鏡のパワーすげーんだけど」って。「あんなん相撲取りじゃん。でかすぎ」って。そういうひとつひとつが澱のように積み重なって今の私を形成しているんだから、猫背で歩くなって言われたって、土台無理な話だよね。
 明るくなれって言われても、自信を持てって言われても、結局私は芋ブス眼鏡。すれ違った男子に「今の女子デカ」って笑われて、ますます背中を丸めて、一体いつになったらこの地獄から解放されるんだろう。
 近眼の私は眼鏡がなければ人の顔もわからないくらいだったけれど、別に、平気だった。高校では友達もできなかったし、体育のバスケなんかボールがまわってこないから試合をやってるふりをするのに皆と同じ方向にコートを移動するだけでよかったから。家から徒歩五分ってだけで選んだ高校だったおかげで、登下校で困ることもなかったしね。
 友達なし、趣味もなし。彼氏どころか好きな人すら、きっと生涯できないんだろう。私は芋ブス眼鏡の称号を孤独に抱えたまま、この小さな街で地味に生きて、両親の介護をしながら働いて、さいごは一人でひっそり死んでいく。
 そう思っていたから、図書委員会の仕事中、貸し出しカウンターの隣に座っていた男の人――多分一つ上の先輩だ。顔は見えなかったけど、堂々とした仕草とか発しているオーラが同い年には思えなかったから――が私に「食う?」ってこっそり飴をくれたとき、殴られたような衝撃を受けた。
 天気の悪い放課後だった。勉強をしている人ばかりで、本の貸し借りのための図書委員なんか絶対二人もいらないな、って、ぼんやりしていた私の目の前に突然置かれた飴と、名前も知らない先輩の顔とを、私はだから、二度見したのだ。あげる相手間違ってませんか、って。眼鏡がないせいで、先輩の顔も、飴の包みも、はっきりとはわからなかった。薄暗い視界では、いろんなものが曖昧だった。でも間違いなくその飴は、私の身体の前のテーブルに、ぽつんと転がっていたのだ。
 ほとんど声を出さない私が瞬時にお礼を言うのは難しくて、苔むしたような口を開けるのは億劫だった。それで会釈だけした。ありがとうございます、って念だけこめて。先輩はもう、何も言わなかった。
 顔も名前も知らない人をこれで好きになるなんて、いくらなんでもキモすぎるね。








 右膝前十字靱帯断裂。
 去年サッカー選手としては致命的な怪我をして以降、俺の周囲は漣が引くように静かになった。
 リハビリをして日常生活を再び送れるようになってから季節がいくつか巡って、医者から復帰の許可が出た今もサッカー部に戻る気にはなれないのは、自分が元のように走れなくなったのを知ってしまったからだ。俺はだめになってしまった。サッカーができなくなってしまった。これ以上それを知らしめられれば、きっと俺は、「俺」ではなくなってしまう。それは俺にとって、耐えがたいほどの苦痛で、恐怖だった。――口にはしないけれど。
 今でも夢に見る。足が地面についた瞬間聞こえた、大凡人体から発せられるとは思えない断裂音、頭が真っ白になったこと。あの日から、ずっと自分の一部だった足が、まるで自分のものとは思えない。
 サッカーから目を逸らして逃げ出した俺は、一人だった。去年のように部員から一目置かれることはなくなったし、あれだけ応援してくれていたファンもマスコミも、今はもうどこにもいない。「天才じゃなくなった」から。なんて、皮肉だよな。でも、この静けさは心地よかった。この孤独感は、今の俺に必要なものであるような気がしていた。
 「彼女」の姿を見かけたのは、俺が部活に行かなくなって久しい、五月の終わりだった。
 ――なんだっけ。下の名前は忘れたけれど、隣のクラスの女子だ。誰かとつるむことなく、いつも一人でいるから、彼女はそういう意味で妙に目立った。女子で一人のやつなんか、他にいなかったのだ。そのが一人、誰もいない放課後の教室で何かを真剣に読み込んでいる。
 委員会の仕事の帰りだったから、校内にはもうほとんど人の姿はなかった。本なのは間違いなかったけれど、文庫とか参考書とか、そういうのには見えなかった。それは彼女が顔を近づけていても尚表紙が反り返るくらいに薄っぺらく、でかかったから。雑誌だ、多分。灯りもつけず、窓からの陽光のみでそれを眺めているらしいは、俺が大股で教室に入ってもちっとも気付かなかった。丸まった背中に流れる重たい髪、他の女子みたいにごてごてした飾りなんか一個もないバッグを机に置いたの背後に立つ。



「お前、それ、何読んでんの?」



 尋ねたとき、が「わひゃっ!?」と悲鳴をあげたのを聞いた。
 の声を、俺はこのとき初めて聞いた。








 すいません、ほんとに、ほんとにごめんなさい、勝手に読むなんてキモいですよね。弁償します。
 もしこの雑誌の持ち主に見つかったらそう言い訳しようと思っていたのに、実際誰かから声をかけられた瞬間、準備していた謝罪の言葉は全部吹き飛んでしまった。あまりにも「陰」だ、私って。
 だっていくら教室に無造作に落ちていたからって、本来はこれ、クラスの誰かのものだ。勝手に開いて読むなんて、友達じゃなくちゃ許されない。それこそとびきり仲の良い子じゃなくちゃ。そんな相手一人もいない私がこれを読むなんてあっていいわけないのに、私は誘惑に負けて、勝手に雑誌を開いてしまった。「夏まで痩せたい! 水着の似合う身体作り」って書かれた特集が、どうしても気になって。別に水着を着る予定があるわけじゃないけれど、それでも芋ブス眼鏡だって、痩せたら何か変わるかもしれないって思って。心持ちとか、そういうやつが。



「――ダイエット?」



 でも、そこに彼は現れた。
 目鼻立ちの細部は眼鏡がないから分からない。多分うちのクラスの子じゃないってことだけはかろうじてわかったけど、それだけだ。怪訝そうな声をあげるその人は、だけど「、別に痩せなくてもよくね?」って、言った。なんで私の名前を知っているんだろう、っていう疑問は、この時の私には浮かばない。だって私、物凄く混乱していたのだ。勝手に雑誌を読んでいることを見られてしまった罪悪感と、知らない人に話しかけられている恐怖と、ダイエット特集を真剣に読んでいることがバレてしまった羞恥心でぐちゃぐちゃになって、お腹の底から悲鳴をあげてしまった。



「わー!?」



 自分がこんなに大きな声を出せるなんて、知らなかった。
 それが私と千切くんの出会いだった。少なくとも、私にとっては。








 は俺が去年学校を騒がせたサッカー部の千切豹馬だってことを知らなかった。
 や、ショックとかはないよ。そもそも名前や顔が知れ渡っていたことで自己肯定感を満たしていたわけじゃなかったし。怪我をして以来手の平返すみたいに周りから人がいなくなってことだって、俺は別にどうだってよかったんだから。むしろ、何の色眼鏡もかけずに俺を見てくれる存在がいることが、うれしかった。だって今の俺はどこにいても、栄光を失った価値のない人間、って目で見られていたから。がそれを知らずにいてくれるのは、救いだった。居心地が良かったのだ。偶々声をかけただけの、隣のクラスの女子の横、ってやつが。たとえ一時の逃避でしかなくてもさ。
 今の俺も似たようなもんだが、は所謂「ぼっち」だった。仲の良い友達もいなければ、部活もやっていないせいで先輩後輩の付き合いの一切もない。昼は堂々と教室の自分の席でぼっち飯をし、移動教室のときだけ少し背を丸めて歩いていた。背中伸ばして歩きゃいいのに。



「姿勢わるいぞ」



 すれ違い様に言ってやったら、まさか俺だとは思ってなかったんだろう。怪訝そうに顔をじっと見られて、それから「千切くん?」って、疑問符つきで呼ばれてしまった。そこまで見えてないなら普段から眼鏡かけろよ。でもは、「私の眼鏡ダサいんだ」って首を振る。
 一人でも平気で生きてるくせに、人からの評価は気にするなんて変なやつ。でもそういう一筋縄ではいかない、人間くさいところが面白かった。
 五月に雑誌を読んでいるところを見かけて、声をかけて以来、とはこうして時折話をする。ストレッチの方法、ウォーキングの、効率の良い歩幅、飲みやすいプロテイン。昔ちょっと運動してたから、そういうのは分かるよ。そんな風に濁して教えたものだから、は何でも俺に聞いてきた。他人との関わりを断って生きていたの中で、俺は天才FW千切豹馬ではない。それがただ、ありがたかった。








「姿勢気を付けるだけでだいぶ印象変わると思うけどな」



 千切くんは私によくそう言う。
 七月の期末テストが終わる頃には私はもう千切くんに片思いをしている相手がいることを話していたし、ダイエットが全然うまくいかないことも、せめて少しは自信が持ちたいってことも話していた。前までサッカーをしていたらしい千切くんは私をじろじろ見て、「でかく見える骨格なんだろ。ダイエットが必要なほど太ってねえよ。全然普通じゃん」って、優しい言葉をかけてくれる。言い方は優しいどころか、ちょっとぶっきらぼうだけど。でもだからこそ、それは本音だったのかもしれない。だったら、うれしいな。そんなことを、ちらっと考える。



、折角人より身長あるんだから背筋伸ばして歩けよ」

「でもそんなことしたら益々デカ女だよ」

「デカ女ぁ? なんだそれ、んなこと言われんの?」

「に、似たようなことは……」

「いや、平均より高いっつってもデカ女とか言われるほどでかくねえじゃん。俺の方がお前より背高いし。どうせ言ってるやつらが小さいだけだろ?」



 次言われたらうっせーチビども、って言っとけ、って笑われて、つられて笑ってしまった。「うっせーチビども?」って真似をする私に、千切くんは声をあげて笑う。「それそれ、いい感じじゃん」って。
 千切くんは話しやすい。言葉はキツいときがあるけれど良い人だし、私の心を軽くしてくれる。顔を見たら緊張してしまうから、彼といるときは勿論眼鏡もかけないし、彼の方をあまり見ないで話をするようにしているせいで、実は彼の顔もよくわかってないんだけれど。それでも居心地がいい。
 千切豹馬くん。高校で唯一の、私のともだち。








 は好きな先輩がいるらしい。いつどこで好きになって、どんな男なのか。そういうことは絶対に教えてくれなかったけれど、そのためにちょっとでも垢抜けたいそうなのだ。だったら髪も切った方がいいんじゃね、って言ったら、は少し長すぎる前髪を摘まみながら、「でも切ったら芋ブスが陽の下に晒されちゃうよ」って神妙な顔で口にした。それも小学生のとき、同級生に言われた言葉なんだそうだ。信じらんねえ。そんなん今から殴りにいっても許されるだろ、デリカシーなさすぎ、って言ったら、は困ったように「そっか」って笑った。「なんかもう、それだけで今、すごい救われたかも」って。
 は自覚がないみたいだけど、笑うと特に可愛い。
 夏休み、美容院を一緒に選んでほしいと言われて、俺が行っている店を教えてやった。スキンケアの動画を見てるって言われたときは、聞かれてもないのにおすすめの化粧水を教えた。コンタクトも作っちゃえばいーじゃん、って言ったけど、それはまだ嫌なんだってさ。野暮ったくてダサくてしょうがないっていうの眼鏡姿を、俺はまだ一度も見たことがない。俺のいないサッカー部は、今日もきっと練習している。








 最近の私は、去年までの自分からじゃ想像もできないくらいに前向きだ。
 夏休み、絶対切りたくないって思っていた髪をばっさり切ったら、視界が開けて息がしやすくなった。過度なダイエットはやめて、千切くんの言う通り運動習慣を取り入れつつ、常に姿勢を意識して過ごした。千切くんが教えてくれた化粧水は肌に馴染んだし(実はいつも裸眼の私は未だに千切くんの顔がはっきりわかっていないんだけれど、彼は美容男子なのかもしれない。でも私よりも綺麗な顔でいられたら多分ショックと動揺で口がきけなくなると思うから、コンタクトは後回し)、夏休みの間、メイクの練習もしてみた。鏡の前の自分は、体重なんかずっと変わっていないはずなのにスッキリして、なんだか垢抜けて見えた。
 憑きものが落ちたような顔をしていた。芋ブス眼鏡の呪縛から、私は間違いなく解放されていた。私とその言葉を断ち切ってくれたのは、千切くんだった。千切くんの「いいじゃん」は、私をぬるい水に浸してくれた。私の代わりに怒ってくれる千切くんは、小学生の頃の、ぼろぼろだった私に絆創膏を貼ってくれた。私は自分の引いた線の内側から、一歩も二歩も大きく踏み出していた。



「これだったら先輩とやらにも告白できるんじゃねえの?」



 九月、千切くんは私の姿を見て感心したようにそう言った。だけどあれ以降、図書委員は一人で仕事をすることになっていて、私は先輩とは一度も会えていない。
 でも別に、告白する気なんか最初からなかったから、いいのだ。千切くんには言わなかったけれど。








 人間って単純なもんで、夏休み明け、すっかり垢抜けたはあっという間に女子に囲まれていた。どこで髪切ったの? なんか痩せたんじゃない? 前から思ってたけど背高くてかっこいいよね。実はずっと声かけたかったんだ。いつも一人だったは、移動教室も、昼飯も、女子のグループに入れられるようになる。そうなってくるとなかなか、前みたいに気安く声をかけるわけにもいかない。校内で見かけるはいつも笑っていた。春に見かけた、世界を恨んででもいるような目を、はもうしていなかった。
 女子と連れ立って歩くは、やっぱり目が悪いんだろうな。廊下ですれ違う俺の存在に、ちっとも気がつかない。








 同じクラスの女の子達にグループに入れてもらえるようになったのは、夏休みが明けてすぐのことだった。
 垢抜けってすごいんだな、って、他人事みたいに思う。中身が変わっていなくても、周りが私を受け入れてくれるんだから。
 教室に居場所ができた私は、少しずつ千切くんと疎遠になっていった。色々相談に乗ってもらってはいたけれど、元々共通点なんか一個もなかった者同士だ。選択授業も違えば、部活で関わることもない。もしも私たちが同性同士だったら、でも、違ったのかな。どうなんだろう。わからない。
 私は千切くんと話がしたくて、でも、こうして一度距離を置いてしまうと、私たちの間には何もないことに気がついてしまう。すっかり垢抜けたと言ってもらえるようになった私はもう過去の心ない言葉に傷ついている子供ではなく、千切くんからの慰めだって最早必要としていなかったのに、どうして千切くんのことばかり気になってしまうんだろう。



「ねえ、さんは彼氏とか好きな人っていないの?」



 仲良くなった子たちに尋ねられて、私はぼんやりとした輪郭の、鮮やかな色をした髪の男の子を思い出す。でも、私が好きだったのは、あの日図書室で、私に飴をくれた先輩。ひとりだった私を、あの先輩だけが見つけてくれた。あの頃の私はずっと芋でブスで、どうしようもなかったのに。
 でも、そんなの千切くんだってそう。
 あの日もらった飴は勿体なくて、食べられなかった。肩に担いだ、鞄のポケットに入れて置いたまま夏を越した飴玉の存在を思い出す。不格好に笑って、その問いかけを誤魔化しながら、いつかの「食う?」を反芻させている。








 トラウマを克服して、は前に進んだ。自分の殻を打ち破ったは格好良かった。初めてあいつを見たときのぼんやりした横顔を、もうは浮かべないだろう。自分を傷つけた過去を後ろに放り投げて、彼女は未来に向かって行く。そこにこれまであったはずの苦悩は、きっとない。――まあ、もう一緒に話すこともそうそうないだろうから、わかんないけどな。
 放課後、サッカーコートが視界に入らない裏門から学校を出たのに、ホイッスルの幻聴が聞こえた気がしてかぶりを振った。ボールの感触が足の裏にある気がした。ついた足が変にねじれた感覚を思い出して、ぞっとした。俺がサッカーから背を向けて、もう半年が経とうとしていた。
 いつまでもこうして逃げ続けるわけにはいかない、分かっているのだ。俺はサッカーといずれ向き合って、終わりを決めなくてはいけない。俺は「俺」をこの手で終わらせなくてはいけない。諦めなくてはいけない。その時残されるものが何なのか、俺にはちっともわからないのに。
 傷痕の残る膝に痛みが走った気がした。のせいだ、というと、ちょっと恨みがましいか。だけど俺と違って真っ直ぐ進むの、なんと美しいことか。それに羨望の念を抱かないなんて、嘘でも言えなかった。



「――畜生」



 そう口にした瞬間だった。



「――千切くん!」



 聞き慣れた声が、俺の背後っていうか、ほとんど頭上から響いていた。








「あれ千切じゃない?」

「あ、ほんとだうける。裏門から帰るとか、絶対サッカー部に見つからないようにしてんじゃん」

「ね、負け犬っぽい」



 放課後、同じグループではないクラスの女の子たちがそう言いながら校門に続く窓の向こうを見下ろしているのを見かけたとき、私は彼女らの言っていることの半分以上が理解できずにいた。そもそも裸眼でよく見えなかったから、本当に彼女たちが言っているのが「千切くん」だって、分からなかったのだ。だけど窓から覗き込んだとき、そこには一際目を引く赤い髪が、どうにか見えた。
 サッカー部に見つからないように、とか、負け犬、とか、一体何のことだろう。千切って、やっぱり千切くんのことだよね。なんだか胸のあたりがざわざわして、嫌な気持ちになった。だって今のは明らかに悪口だったから。「私ファンだったのになー」「わかる、私もだよ。だって顔良いんだもん」「でもインタビューとか今見ると笑えるよね。調子良いこと言っちゃってさ」心臓が間違って耳の隣にできてしまったみたいに大袈裟な鼓動音が響いているのに、それとは別のところで脳がぐるぐる動いているみたいだった。サッカー部、ファン、インタビュー。
 ――千切豹馬。
 それでやっと、千切くんが去年うちの学校を騒がせていたサッカー部の男の子だって気がついたんだって言ったら、千切くんはどんな顔をするのかな。
 人の雑誌を読んでいるところを背後から声かけられて、悲鳴をあげた。学校からの帰り道、黒猫を見かけて追いかけた私を、千切くんは「そいつ気難しいから、無理だぞ」って笑った。私の凝り固まったコンプレックスを千切くんは蹴飛ばしてくれた。口が悪かった。たくさん相談に乗ってもらったのに、私は千切くんのこと、全然、何にも知らなかった。千切くんは私の話を聞くばかりで、決して私に自分の過去を打ち明けたりはしなかった。
 考えるよりも早く、身体が動く。
 窓を開けて、身を乗り出す。短くなった前髪が、額に張り付いた。まだ夏の匂いの残った九月の空気が、前までは髪で隠れていた皮膚を撫でていた。「千切くん!」声の出し方を忘れていた私が、初めて大声を出せた人。



「一緒にかえろ!」



 あなたへのこの感情が一体なんなのか、私はまだちゃんとは理解できていないけど。








 俺の名前を呼んだそいつは――は、三階の廊下から俺のことを見下ろしていた。窓を開けて、俺に手を振って、「一緒にかえろ!」って、柄にもない大声で叫ぶもんだから、近くにいた女子に目を見開かれている。あとであいつ、後悔するんだろうな。目立っちゃったって頭抱えて、折角の長身を折り曲げて。目に浮かぶから困るんだ。



「そこにいてね、今から行くから!」



 そう言い切るとはすぐに踵を返して駆けだして、それで息を切らせながら、俺のところにやってきた。
 長かった前髪は眉のあたりで切り揃えられていた。以前より少し短くなった気がするスカートから伸びた足は、生来からなのだろう、運動部ではない女子にしては筋肉質だった。本人は気にしていたみたいだけど、俺は案外好きだった。何もついてなかったはずの鞄には俺の知らないこの数週間のうちに流行りのうさぎのぬいぐるみがぶら下がっていて、そういう意味では強烈だった彼女の個性はもうない。でもそれがの求めたものだった。が求め、欲したものだった。



「私、千切くんとお話、したくて」



 呼吸を整えながら、は言う。その短い言葉に隠された気遣いとか、意図のようなものを感じ取った気になってしまうのは、俺の自意識過剰によるものか。



「…………でも、とりあえず、ちゃんと顔を見るところから初めてもいい?」



 今更なんだけど、って。そう言いながらは肩にかけた鞄のポケットの、わかりやすくふくらんでいるところから眼鏡ケースを取り出してみせた。ごつごつしてでかい、お世辞にもセンスがあるとは言えない、古臭い眼鏡ケース。一緒に飴玉が落ちて地面に転がったのを、きっとは気がついていない。
 は、細く長い息を吐いた後、ケースから取り出した眼鏡をどこか恭しい手つきでかけてみせた。べっこう色の、細すぎるフレーム。レンズの形も洗練されているとは言い難かった。野暮ったくてダサいから。そう言って俺の前では決してかけようとしなかった眼鏡は、度が極端に強いのか、そうしてみるとの目はいつもよりずっと小さく見えた。がずっと嫌がって、絶対に俺の前では見せてくれなかったもの。
 でも、綺麗だった。
 はそのレンズの向こうで俺をじっと見た後、びっくりしたようにその双眸を見開く。



「ほんとだ、顔がいい!」



 馬鹿みたいなことを言うもんだから、そんなつもりなかったのに、「なんだよそれ」って、声をあげて笑ってしまった。







 千切くんのことを、私はまだちっとも知らない。サッカーを辞めなくちゃならないほどの怪我が一体どんなものだったのかも、どれだけサッカーを愛していたかも、この現状を、彼が、本当の意味で受け入れられているのかどうかも。
 話してくれないなら、でも、それでいいんだとも思う。まだ自分の中で整理がついていないのだとしたら、それでもいい。悩みを打ち明けてほしいと思っているわけでもない。千切くんが私にしてくれたみたいに、力になりたいなんて押しつけがましいことを思っているわけでもない。
 でも、悩んでいる千切くんの傍にいるくらいはしたいから。
 顔がいい、って思わず口にした私に千切くんは声をあげて笑って、それから、私の足元に落ちていた何かを屈んで拾った。「てかさ」私のよく知る千切くんの声がする。彼の手の平の中にあるもの。私が鞄から落としていたらしい、それ。
 息が止まった。



「この飴、まだ持ってたのかよ。――さっさと食えよ、馬鹿」



 手渡されたそれは、私が春、図書委員の先輩からもらったまま鞄に入れっぱなしになっていた、飴玉だった。
 あの雨の日、薄暗かった図書室で輪郭をぼやけさせていた先輩と今目の前にいる千切くんが、急にはっきりした像で結ばれた。








「…………千切くんてさぁ、図書委員だっけ?」

「は? 今更何言ってんだよ。委員会で何回も顔合わせてたじゃん。一回、一緒に仕事もしてるし」

「だ、だから最初から私の名前知ってたんだぁ……」

「あ、そういえば、告白した? 例の先輩とやらに」

「してない。してないし、もうしない。……でもまって……! 飲み込むのに一週間かかりそうだから」

「いや、何をだよ」



 顔を青くしながら考え込むに笑う。「まあ、諦めてくれたんならいいや。そのままやめろよ、告白」そう零したとき、びっくりしたように見上げられた。「そ、それはどういう……」分かりやすく狼狽えて赤くなるが、俺は好きだった。
 あの日の図書室で、死にそうな顔で虚空を見つめていた女の子が今、俺の隣でこんなにも表情を変えてくれているのが、今は何だか、妙に嬉しい。