いや、それはどう考えたって人選をミスってるだろ。
そうは思っても口にはしない。したって意味なんかないしな。案の定、小走りで廊下を駆けていった女子生徒を見送った十郎は困ったように視線を彷徨わせ、やがて教室の端にいる俺に目を留めた。目が合った瞬間、その目元が僅かに和らいだのが分かる。あれは間違いなく、ほっとしてるな。次に十郎が口にする言葉はこんなもんだろう。ああ、柴くん。いつの間に来ていたの? 聞いてよ。今、知らない女子に頼み事をされちゃってさ。
「おはよう、柴くん。今の、もしかして見てた?」
惜しいな。
十郎の考えていることは何でも分かる、と言いたいところだが、まあ実際のところ的中率は七割から八割、ってところだ。何もかも全て思いのまま、そんなことが有り得ないってことくらい、俺にはもう分かってる。
始業五分前の朝の教室はいつもと変わらない、穏やかなもんだ。白っぽい光と、風で膨らむカーテン、新築の校舎は黴の匂いと縁がなく、しかし既についた床の黒っぽい傷が学生たちが過ごす日々を物語っている。均等になるよう並べられた机の間を縫うように歩きながら、十郎は俺の前で立ち止まった。白々しく感じられるくらい、穏やかな目をしている男だった。
「ああ、見てた見てた。やるじゃん十郎。今お前が女子からもらってたの、手紙だろ? ラブレターってやつだ」
人懐っこく見える笑顔に一匙ほどのいやらしさを混ぜるのが俺流。そうやって完全ではない人間くささを出した方が、十郎も心を許してくれるだろ? 実際、十郎は僅かに眉根を寄せて苦笑した。等身大の男子高校生・柴久太は、お前を安らかにする。
「うん、どうやらそうみたいだ。先輩だったみたい。知らない子だよ」
「で、返事はどうすんだよ。お前には冬坂もいるじゃないか」
「違うって。この手紙は僕宛てじゃないよ。頼まれたんだ。渡してくれって。……ていうか柴くん。冬坂さんと僕はそういうんじゃないって何回も言ってるよね」
「なんだよ。それ、照れ隠しじゃないのか?」
適当に会話を続けながら、十郎の手にある封筒を見る。味気ない茶封筒だ。どうやらラブレターであることは間違いないが、女子が好きそうなシールの一つもないし、これだけ見たらあれだな、保健室から貰う保健関係の書類。視力の低下が見込まれます、みたいなあれ。こんなんで喜ぶ男がいるのかよ。
ついさっき、教室の扉付近で十郎にこれを手渡していた女子生徒の顔を浮かべる。色素の薄い、ふわふわとした髪をした、目の大きな女だった。手足は細くて、胸はまあまあ。姿形だけ見たら、教室にいる冬坂五百里に似ていなくもない。だけど、冬坂だったらそれこそもっと女子っぽい、街の雑貨屋で売っていそうな封筒を使うだろう。間違ってもこんな、職員室に常備してありそうな地味な封筒で愛の告白をする女じゃあない。「冬坂」はな。
まあギャップっていうところを考慮したら、こういうのは嫌いじゃない。世界中の全ての悪意から守られるために存在するような愛らしい顔立ちをしたくせに、誰よりも芯の強い女子っていうのは存在していて、実際、俺はそういう女を好きだったことがある。記憶に残る「彼女」を思い出したら、もうないはずの内臓が痛んだ気がした。
少しばかり昔に思いを馳せていたら、茶封筒がひらりと俺の前に差し出された。おいおい、宛名も差し出し人の名前もないのかよ、これなら書類の方が、宛名が書いてあるだけマシだ。そう考えるのも束の間、十郎はあろうことか「はい、柴くん」と続けるもんだから、「は?」と素で驚いてしまう。なんで、その手紙を俺に寄越してるんだよ。
「柴くん宛てなんだと思うよ、これ」
そんなはずあるわけがない。
近くの席の女子生徒が、何とも言えない表情で十郎の顔を盗み見ているのを、お前は知らないだろうな。俺は大袈裟に手を振って、「んなわけないだろ」と否定するのに、当の十郎本人は本気できょとんとしているんだ。だけどおかしいのは、お前だ。お前なんだぞ、十郎。
「だって、いつも一緒に居る男の子に渡してほしいって言われたんだ」
「いや、だけどそれはどう考えても俺じゃないだろ」
「どうして? 僕といつも一緒にいるのは君だろ」
「そういう条件なら、網口だってそうだ。な? これは俺じゃなくて網口宛てだよ、ほら、あいつ、モテるしさ。金持ちだし」
「お金持ちは関係ないでしょ。……でも、やっぱりいつも一緒にいるって言ったら、君だよ、柴くん」
とりつく島もないとはこのことか。十郎はこう見えて、思い込みが激しいと言うか、案外頑固なところがある。
「俺のはずがない」と確信を持って俺は言っているのに、十郎の目は淀みがなく、真っ直ぐだった。結局十郎から茶封筒を受け取ってしまったのは、予鈴が鳴ってしまったせいもあるし、十郎を説き伏せられなかったせいもある。あとは、さっきの、この手紙を十郎に渡した女子生徒の横顔がちらついて離れなかったせいも、多少はあるな。
柔らかな癖のある髪、丸い瞳に、女性らしい丸みを帯びた体。どことなく冬坂五百里に似ている少女だった。封筒の、独特な紙の匂いに、郷愁めいたものを覚える。嗅覚は過去を思い起こさせるのだ。そういう意味で言えば、あれは冬坂ではなかった。彼女はほとんど、「森村千尋」だった。俺にとって。
手紙を開けば、恐らくそこには、十中八九、「鞍部十郎といつも一緒に居る網口愁」への恋心が綴られているんだろう。そう思うと、どうしてか笑えてくる。いっそこれが、本当に冬坂五百里からの手紙であれば、声をあげて笑ってやれたのに。そうでないから、あとの一押しが足りないから、俺にはもうどうしようもない。
網口にはどうにかしてこの手紙が届くようにしてやろうとは思っていたが、結局俺は茶封筒に入っていた便箋を隅から隅まで読んだ後、それを破いて捨てた。時折寂しい目をするあなたのことが気になって、ずっと見ていました。なんて、センスねえの。文末にひっそりと記されたという知らない女の名前は、1985年のすみれ橋で散り散りになって、俺の手の中から呆気なく消えた。