東雲諒子は美しい少女だった。
陶器のような白い肌に、しっとりと濡れた瞳は物憂げで、柔らかな癖のある黒髪のシルエットは時折私たちの年よりも大人びて見えた。神さまが、髪の毛の先や爪の一つ一つまで丹精込めて作ったお人形みたい。初めて彼女を見たときは到底、私と同じ年の女の子だなんて信じられなかった。
そういえば、小学生のときの遠足で行ったあやめ公園の花壇に咲いていたひなげしを、諒子のためにって摘んでしまった子がいた。結局その子は先生にこっぴどく叱られて、後で反省文をたっぷり二枚も書かされたんだけど。あの時の赤いひなげしは、だけど、色の白い諒子にとても良く似合った。諒子には、何か特定の人を惹きつける、魔法のようなものがかけられているみたいだった。東雲諒子は美しく、そして浮世離れした少女だった。
そんな諒子だったから、中学の終わり、何かの気まぐれみたいにあの郷登くんと付き合っても、誰も文句を言ったりしなかった。裏ではどうかは分からないけど、少なくとも、東雲諒子を呼び出して、直接嫌味を言う女の子なんか誰一人いなかったのだ。二人がまるで、ドラマの中から抜け出してきたみたいにお似合いだったこともあるんだろうけれど。
どれくらいの人が予想したかは分からないけれど、諒子と郷登くんは半年で別れた。諒子から告白したのに、諒子からフッたらしい。私はそれを、風の噂で聞いた。
登下校を共にしたり、買い物に付き合ったり、付き合ってもらったり、そういう関係を続けているっていうのに、私は諒子の個人的な話を、ほとんど彼女の口から聞かされることはない。諒子は、何となく私と一緒にいるだけで、特別私に興味なんかないのだ。他人に媚びを売ることをしない彼女は、どこに行くにも、何をするにも、本当は一人で良いんだと思う。好きな音楽を共有することも、本の貸し借りをすることも、今度人気のカフェに行こうって約束することも、東雲諒子には必要ない。完璧な彼氏も、美しい年下の幼馴染みも、腐れ縁の友人も、本当は彼女にはいらない。
だって望めば何でも手に入る。
それは諒子が魔法使いだからなんじゃなくて、神さまその人だからなのかもしれなかった。
「井田先生」
諒子の担任の先生が産休に入って、代わりにやって来た非常勤講師の名前を、諒子は世の中のあちこちに、平然と転がっているような感情に塗れた声音で呼んだ。郷登くんの隣を歩いているときは伏せられているだけだったその双眸は熱っぽく潤んで、そうしているだけで、私の知る東雲諒子が端から剥がされていくみたいに思えた。
諒子は井田先生が好きらしい。
知らなかった。諒子って、年上趣味なんだ。なんてからかえるはずもなく、私は諒子の居ない放課後を、漫然と過ごしている。諒子はここ最近、私を置いて学校を出るようになってしまったから。図書室で本を選びながら、私は諒子のことを考える。手足の先まで美しい諒子。欲しいものなんて何でも手に入れてしまえる彼女は、今、人間みたいに恋している。
諒子が井田先生を手に入れたら、どうなるだろう。案外ころっと元の諒子に戻るかもしれないし、少女のように、いつまでも大人な井田先生に夢中でいるかもしれない。そう考えると、どうしてももやもやする。諒子が恋を成就させた方が、彼女のことを幼い頃から追いかけている瑛くんに片思いをしている私にとっては都合が良いはずなのに。
図書室に並ぶ本の背表紙、急にそれらの文字に責められているように思えて、目を逸らした。下校する学生達の声が窓の外から聞こえて、何となく視線をやったその時、私の視界の真ん中に諒子はいた。
「……諒子」
正門の手前、井田先生を呼び止めた彼女は、恋に恋した目をしている。どこにでもいる少女の顔をしている。
東雲諒子は美しい少女だった。赤いひなげしの似合う永遠の少女だった。かつて私の差し出した花を見て諒子は何も言わずにいた。笑みを零すこともないまま私を見ていた。他の生徒に指を差されて、先生を呼ばれても、諒子はひなげしを抱いたままいた。遠足を終えたある日の放課後、原稿用紙に向かい余所行きの文章を並べただけの反省文をしたためる私に、しかし諒子は初めて薄く笑ったのだ。その細い指が汚れるのも構わず、鉛筆で書かれたばかりの文字をなぞる諒子は、私の名をそっと口にする。
「の字って、綺麗ね」
飴色の教室の中で、諒子の柔らかな声だけが響いていた。街の人たちのために花を育ててくれていた人に、申し訳ないです。なんて、思ってもいないことを適当に書き連ねた字に、目線を落とす。
「…………私、のそういうところ、好きよ」
「…………なあに? 字?」
「ううん。字だけじゃないわ。そういうところよ」
「ええ?」
そういうところって、どこ?
尋ねた私に、諒子は何も答えてくれなかったけれど。
あの頃より幾分か大人びた声で、諒子はあの講師の名前を呼ぶ。
処理しきれない感情で頬が熱くなっていることに気がついて、慌てて窓の向こうにいる二人から目を逸らした。空っぽの手で、耳を押さえる。人間になんかならないで、諒子、なんて、どうして思っちゃったんだろう。井田先生なんかやめなよ。って。だってその人は、諒子をつまらない人にしてしまう。瑛くんだって、嫌がるよ。
瑛くん。そう。諒子を守るために存在しているような、あの男の子。私の好きな。
じくじくと毒のように浸食する胸の痛みを自覚する。高校二年生。私たちはきっと、子どもではなくなろうとしている。
「いやだな」
東雲諒子がこうしてつまらない何かに変貌していくならば、私はいつまでも、あの頃の教室に囚われたままでいたかった。何度でも彼女のためにひなげしを差し出したかった。そのためなら、いっそこの十六年を何度繰り返したって、構わなかったのだ。
そんなことを考える私はただ、きっと、さみしいだけだった。