私みたいな平凡極まりない女が、郷登先輩の恋人になれるなんて本気で思っていたわけじゃない。私の気持ちの程度なんて、郷登先輩を見かける度きゃあきゃあ言ってる隣のクラスの、沢渡さんと同程度だ。沢渡さんが本気で先輩のことを好きなんだとしたら、こんな風に彼女を引き合いに出すのは申し訳ないけれど。
かっこいい男の子なんて、多少のことに目を瞑りさえいればいくらでもいる。同じクラスの網口くんは軽薄だけどアイドルに似た甘い顔立ちをしているし、緒方くんだって喧嘩さえしなければ硬派でかっこいい。彼は案外優しいところもあるしね。あと、目立たないけど、隣のクラスの鞍部くんも物憂げな横顔がミステリアスで素敵。こうして考えてみると、やっぱり私ってミーハーだ。
そりゃあ私だって十六歳。男の子には興味があるし、恋人がほしくないわけがない。週末に買い物に行ったり、テスト前は一緒に勉強会をしたり、オススメの本を紹介しあったり、バイクの後ろに乗せて貰ったりしてみたいじゃない。
寝る前の「もしも私に恋人がいたら」妄想は尽きることがなくて、その相手は白状すると、大概が郷登先輩だった。こういうのは「現実には絶対ありえない人」の方が良いっていうのは私の持論。買い物や勉強会は兎も角、郷登先輩がバイクに乗るかって? 私の脳内でなら、彼は戦闘用ロボットにだって乗っちゃうのだ。なんて、年の離れた弟と一緒に観たアニメの影響だけど。
いつも自分の周囲、半径数メートル先に薄い膜を張っているように思える郷登先輩も、私にだけは優しかった。勿論、こんなの頭の中での話。郷登先輩は常に、誰からの影響も受けませんって言わんばかりに冷めた目をしているから。脳内で美化された私は、雑誌で見た花柄の、派手な顔立ちでなければ到底似合わないようなワンピースを纏って、郷登先輩の腕を取る。彼の愛情を一身に受ける私は、周りの女の子の羨望を集めながら、「郷登先輩の恋人」という特権を手に入れて無敵の女の子になる。
そういう妄想は、だけど昼にしてはいけないな。
「……今日の授業中、化学の先生が何を言っているか分からないせいで妄想が捗った結果気がついてしまったんだけど、それって結局、私がほしいのは先輩ではなくてただの承認欲求なんじゃないかな……?」
「ほう。…………承認……欲求」
「こう……ほら……周りから『あの郷登蓮也と付き合ってるなんてすごい!』って思われたいだけなんじゃないのかっていう……」
「そうなのか?」
「わかんない……っていうか、そもそも郷登先輩と付き合える予定があるわけでもないのにこんなことを考えていること自体がおかしい……」
放課後の人気がない自動販売機前とは言え、誰かにこんな会話を聞かれたら困る。「郷登蓮也」の部分の声量を落として、隣のベンチに座る比治山さんにだけ届くよう彼の耳目掛けて囁いたとき、丁度強めの風が吹いて、びゅう、と私たちの髪の毛が舞った。「おわ」と、どちらからともなく声が漏れて、何だか気恥ずかしい。声が揃ってしまった。
しかしこの藤棚の下、休憩所も兼ねているなら、もう少し風を遮るものを置いてほしいものだ。新校舎と一緒に最近作られたばかりの場所だっていうのに、ちょっと気が利かない。
比治山さんは日に焼けた長い髪を鬱陶しげにかき上げる。「すごい風だった」骨張った手首が制服の――これは咲良のものではないけれど、気付かないふりをしている――袖からちらりと覗いて、どきりとする。なんだ、私って本当に見境がないみたいだ。
「俺はその男を直接知らんが、どうも……その、さんの話を聞く限り、そもそもその郷登蓮也とか言う男は随分女々しくはないか? 自身が困るほど女性に纏わり付かれて、迷惑だの一言も言えないなど……」
「比治山さんはそういうの、言える人?」
「それは……無論だ。己の成すべきことがある以上、婦女子にかまけている暇などない」
郷登先輩が女子生徒に捕まっている図は珍しくなくて、だけど先輩は優しいから、はっきり拒絶せず、解放されるまで足を止めている――。先輩を褒めるエピソードのつもりで彼に話したのだけど、比治山さんからすれば、優柔不断で情けない、ってことになるみたいだ。視点が違うと色々変わってくるものだな。
比治山さんは、どことなく古風な男性だ。良く見ずとも精悍な顔立ちをしていて、制服の上からでも分かるくらいに鍛えた体つきをしている。一方で考え方や口調がお父さんよりちょっと上の世代の人みたいで、こうして隣にいても、なんだかちぐはぐな印象を受ける。
このベンチでうたた寝していた彼を見かけたのはつい最近のことで、いくら春とは言え風邪をひいてしまうのではないかと気になって声をかけた。それから、校内で彼を見かける度に、こうして会話をしている。制服が他校のものだと気がついたのは、もっと最近。ほとんど毎日学校の敷地内をうろついて、誰かに用事があるのかと思えば、待ち合わせをしている風でもなくて、私の退屈な話に耳を傾けてくれる。
私は彼がどこに住んでいて、家族構成がどんなで、どんなことを考えて生きているのかを知らない。知っているのは比治山隆俊っていう名前と、焼きそばパンが好きなこと、放課後どころか昼前から校内をうろついていて、時折教員を呼ばれては逃げていること。
比治山さんの顔をじっと見る。比治山さんは、私の視線に気がつくと、ちょっと困った目をして見つめ返してくれる。茶色がかった、綺麗な瞳だ。いつもお日様の下にいるせいで、髪と同じで、焼けちゃったのかな。「じゃあ、これから婦女子にかまけている暇がなくなれば、比治山さんはいなくなっちゃう?」口にできないから、心の中でだけでその目にじっと問いかけてみるけれど、比治山さんは微かに首を傾げたような素振りをするだけだった。本当に念を送れる、エスパーだったら良かった。
「…………この藤も見頃を終えたな」
空を覆う藤棚を見上げ呟く比治山さんの横顔の陰影は薄い。初めて会ったとき、垂れ下がる藤の花が、比治山さんの頭を隠していたのを思い出して、何だか唐突に、お腹の脇あたりを深く刺されたような気になった。どうしてだろう。それがなんだか、彼なりの私への、お別れの言葉のように響いた気がして。
「……うん、そうだね。終わっちゃったねえ」
女の直感っていうのは、案外当たる。彼は実際、私の前から消えるだろう。だったら郷登先輩の話で場を繋げなくても、もっと踏み込んだお話をさせてもらえば良かった。比治山さんはここで何をしてるの? 学校は行かなくてもいいの? 本当に、その苦工の制服は比治山さんのもの? すごく身体を鍛えているのはどうして? 時々どこか遠くを見ているような眼で旧校舎を見るその横顔に、一つずつ尋ねられたら良かった。
本当に本当は、郷登先輩なんかもうとうの昔にどうだってよくて、網口くんも緒方くんも鞍部くんも視界の端に追いやっていた。身近な人にはできない相談に見せかけて、私は彼の隣に座りたかっただけだった。まるで何かの極秘任務のために咲良高校に潜入しているようにすら見える比治山さんの懐に、私ごと入れてほしかった。この前旧校舎に続く渡り廊下で親しげに話をしていた、あの三つ編みの女の子みたいに。そういう私の本音なんか、結局一度も話せなかったな。
ベンチに座る私たちの間には子供が一人収まるくらいの隙間が空いていて、さっきその自販機で買ったHEY−Cももうすぐ飲み終わってしまう。ストローを強く吸ったら、紙パックが潰れて、もう立ち去らなくちゃいけなくなるから、口をつけたふりだけして、すぐ離した。
盛りを終えた藤棚の隙間から、白んだ空が見える。比治山さん。口の中で彼の名前を呼んでみる。多分、そう遠くない未来、私の妄想の相手は比治山さんになるのだろう。だって、やっぱり、「ありえない人」の方が想像しやすいから。
目を瞑れば、私をバイクに乗せてくれる比治山さんの背中がある。だのに現実には対岸にいるあなたは私をどこにも連れていってはくれないし、私は最後まで、あなたの何者にもなれはしない。