中学生のときからの思い人に告白をしたのは、丁度一週間前のことだった。子供の時から知っている、隣の町内に住む男の子。彼はいつも諒子の傍にいた。関ヶ原瑛くんは、私の親友の、年下の幼馴染みだった。
初めて彼と出会ったのは、私が小学生になるかどうかの頃。一つ年下の男の子の手を、諒子は守るように握っていた。伏せられた涼しげな目元は、あまり怒ったり笑ったりしないせいで、どこか退屈そうに見えたのを、今でも覚えている。諒子曰く、ご両親が留守がちなんだって。諒子に手を握られた小さな男の子は、「そうなんだぁ」と頷く私とは言葉を交わそうとしなかった。自身の周囲に散らばる虚無に飲み込まれて、彼がそのまま消えてしまうんじゃないかと思った。
勉強ができるとか、足が速いとか、そういうのは知らない。私と彼は同じ学年じゃないし。私は、諒子の後を追いかけている彼の背が、いつの間にか諒子を追い抜くのを見ていただけ。だから、彼にとって私は「近所に住む大好きな諒子おねえちゃんのお友達」でしかない。あれから十年経った今でも。
分かっていて好きだと言ったのだ。人の少ない放課後の図書室で、偶々同じ棚を眺めていた彼に、「瑛くん、本、読むの?」と聞いたばかりのその口で。
「……はい、たまに」
親密な声色とは言い難い返答だった。そのまま会話が弾むようなことも、勿論なかった。
実際この図書室で瑛くんを見かけたのは初めてだった。ただの時間潰しか、気まぐれでやって来ただけなんだろう。だけどその目線が、壁際の本棚の前にいる非常勤講師の先生――井田先生だ。諒子のクラスの担任でもある――に向けられていることに気がついて、ああ、また諒子か、と思った。諒子は、どういうわけかあの先生のことが好きらしい。
中学のときにあの郷登くんと付き合った経験があり、他にも数え切れないほどの男子生徒から告白をされている諒子は、今、熱っぽい瞳で井田先生の着ているスーツの背を見つめている。瑛くんは、そんな諒子を苦々しい顔で見守っていたのだ。諒子と二人、何か揉めているのも見た事がある。幼馴染みの大事なお姉ちゃんが、ぽっと出の大人に夢中になっているのが面白くないんだろう。気持ちは分かる。井田先生って、ちょっと胡散臭いし。だけど、郷登くんのときもこんな感じだったっけ、覚えていないのは、私が瑛くんを好きだと認識する前のことだったせいかもしれない。
それでもいつも伏せられていただけの瑛くんの瞳が、彼自身も処理しきれない感情に彩られることに、私はもやもやしていた。つまり、面白くなかったのだ、私は。だって瑛くんは私にとって、朝の誰もいない湖で胸いっぱい吸い込んだときの空気みたいに、清廉な男の子だったから。いつまでも、素知らぬ顔をして、悠然と生きてほしかったのだ、なんて、押しつけだ。
好きだと言ったら、瑛くんの目は別の何かに変わるのかな、と確かにそのとき思ったけれど。
「え」
彼は短く言った。私よりも頭半分高い位置から、私を見下ろしていた。いつの間にか低くなった声、骨張った手、私にはない喉仏。丸く見開かれた彼の双眸の中で、私は呆然と彼を見つめている。それで、脳内で数秒前のことを反芻して、気がついた。顔に熱が籠もるのに、時間はかからなかった。
瑛くん、好き。
口にしてしまっていたのだ。一生しまい込んでおくつもりだった思いの丈を。「面白くない」なんて、そんな自分勝手な理由で。窓から赤い西日が差し込んでいる。視界の端で、一つ、長い影が揺れた。多分、私のものだった。
「わ、わた、わたし」
借りようと思っていた本を、いつの間にか抱きしめていた。強く、強く。表紙が悲鳴をあげるくらい。「ごめんなさい!」と叫んで、そのまま走って逃げ出した私は、瑛くんがこの時、初めて私の名前を呼んだのを、知らなかった。
最期まで。
今から百二十年前の戦時中、夜空に炸裂する爆弾を美しいと言った文豪がいた。
丁度、こんな感じだったのかな。米軍の爆撃機から降り注ぐそれとは、違うかもしれないけれど。瞬いては開き、色を落とすそれを、動かなくなった足を引きずって見ていた。痛い。は、と吐き出した喉が、震える。崩壊した建物の破片が直撃して、折れてしまったのだ。抱えて走ってくれるような人なんか、いない。みんな、自分の命を守るために必死だもの。だけど、死にゆく街は美しかった。その美しさが、私の抱いた恐怖心を飲み込んでくれたら良かった。
お父さん、お母さん。乾いた口で呟いた言葉が、誰かの怒号や悲鳴にかき消される。諒子。芽生。小百合。みんな無事でいるのかな。街が赤く、燃えているように見えるのは、極彩色の夕焼けのせいだろうか。
隕石の降り注いだ街は、怪獣としか形容できない、ビルほどの背丈のある大きな機械に襲われていた。ミサイルが空を飛び、街を薙ぎ倒していく。諒子と入った本屋も、いつか行こうと約束していたカフェも、瓦礫に潰されて見る影もない。夢でも嘘でもないのは、足の痛みが証明していた。今日、このままここで死ぬんだ。それだけは、きっと、間違いない。
こんなことになると知っていたら、せめて、無理にでも答えを聞いておけばよかった。何って、告白、そう、瑛くんの、私がした、あの、何も考えてない、馬鹿みたいな。だって万が一、億が一、オッケーをもらえていたら、私、最後の一週間をとびきりの幸福の中で過ごせたじゃない。なんて、酷いエゴ、でも、最期なんだからこれくらいの自分勝手、許してほしい。
瑛くんの、冷めた目が好きだった。年下なのに、世界中の、色んなものを恨んでいるように歪められた眉が好きだった。諒子のことしか見ていないところも、面白くなかったけれど好きだった。欠けた部分が盛り上がって、瑛くんを形成していくみたいで。目が覚めたばかりのベッドの上で、波打つだけの冷たいシーツの感触。それに触れたとき、いつも瑛くんを思い出していた。触ったことなんか、一度もなかったくせに。繋がれた諒子と瑛くんの無防備な、幼い手を、こんなときに思い出す。
ロケットが見慣れた空を切り裂いて飛んでいく。弾け飛ぶ光の粒を見ている。良かったと、心に一つ、小さな染みができるみたいに、思った。百二十年前の人だったとしても、街を破壊するあれを、美しいと感じたのが、自分だけではなくて。だから、瑛くんのことも、きっと、好きだと言う誰かはいるんだろう、諒子じゃなくても、私じゃなくても。ぜったいに。
避難のため、駆けていく人々の中に、瑛くんの姿はない。とうとう歩けなくなった私は、崩れた建物の影に身を滑り込ませた。それからどれくらい時間が経ったのかは、分からない。失血のせいだろう、徐々に遠のいていく意識の中で、何か、ロボットのような大きな機体の、足が見えた。それが目の前で止まったのが、瞼の裏に、鮮烈に残っている。点滅する赤い光は、きっと、夕陽。一週間前の図書室で見た空も、今日のものにとても良く似ていた。
「…………なんであんたがこんなところにいるんだよ、先輩」
引き攣るような、どこか切迫した声が聞こえたような気がした。私はそれが瑛くんのものであるように思えた。幻聴でも、それは、最大の幸福であった。朦朧とした私の見る、美しい夢だとしても。瑛くん。こんなときでも私、やっぱり、瑛くんが幸せであればいいと思うよ。薄い暗闇の中で、幻に縋るように手を伸ばす。けれど、もう声を出すこともできなくなった私は、次の瞬間、まるで何か、電源が引っこ抜かれるみたいに、意識ごと、途切れて消えた。