「確かは絵を描くんだよな?」



 三階の教室で一人でぼんやりしていたときに突然そう話しかけられて、びっくりした。そんな話を東京団地の外でした覚えはなかったけれど、タイムリープしてきたと言う澄野くんがそれを知っているってことは、つまり未来の私が彼に話したのだろう。
 だけど、多分、私は彼とはそこまで仲良くはなっていなかったのだ。なんとなく会話の流れで絵を描くのが好き、って言ったに過ぎなかったに違いない。だって彼が私にプレゼントしてくれたのは単なる紙の束で、油絵を描くために必要なキャンバスとか絵筆じゃなかったから。



「なんか柄とかいっぱい描いてあるけど……裏とか白いし、使えるんじゃないかと思ってさ」

「おわー……すごいねえ」



 澄野くんは私の描く絵を、イラストのようなものだと思っているらしかった。授業中、ノートの端に絵を描いているくらいのイメージ。同じ絵には相違ない。未来の私が油彩と言わなかったのが悪い。
 澄野くんに悪気はないのだろう。むしろ、リーダーとしてどうにか皆と仲良くしようって考えているのが分かる。タイムリープをしてきたらしい彼には背負うものや考えることがたくさんあって、心がどこか別の方を向いているように見える時すらあった。そんな中でもこうして私に気を割いてくれるのだ。嬉しく思わないわけがない。――このすごい量の紙は、実を言うとちょっと困るけど。



「……ありがとう澄野くん、大事に使わせてもらうね!」



 例え扱いに困るものであったとしても、もらったからにはまずお礼だ。ちょっと不安そうだった澄野くんの顔が分かりやすく明るくなって、私までほっとした。
 でも、「そうか! そう言ってもらえてよかった。実は間違えて同じのをもう一個作っちゃったんだよな」って、全く同じ量の紙の束を隣に置かれるなんて、想像していなかったな。



「良かったらこれも使ってくれ」



 何に使うんだろう、これ。








 何となく数えてみたら、その紙の束は一つのセットで五百枚もあった。紙の厚さは薄くて、多分よくあるコピー用紙。澄野くんが話していたようにどの紙にもランダムで星とかお花とか動物のイラストが大きく印刷されていて、裏は白い。レターセットとして使うにはちょっと大きすぎるし、ノートにするには罫線もない。
 ……これ、本当に何に使うんだろう。
 人からもらったものを捨てるなんてことはしたくないし、かといって部屋に置いておくにも存在感がありすぎる。だって、五百枚が二セット――千枚もあるんだもん。
 千枚。そう思ったら、じわじわと「どうしよう」が増してきた。澄野くんは裏に絵でも描いたらいいと思っているみたいだけど、この薄さじゃ絵の具も乗せられない。どうすべきかな。考えるけれど、そもそもこれを部屋まで運ぶのが大変だ。まとめて持っていこうとしたら、絶対途中でバラバラにしてしまう。屋上に出た瞬間、風とやらに飛ばされて「わー!」って叫ぶ自分は容易に想像できた。
 悩みながら視線を落としたとき、床に転がる鉛筆を、その時初めて見つけた。誰かがここで使って、落としていったのだろうか。なんとはなしに拾い上げて、芯が折れていないのを確かめる。手に持ってみて、ちょっと考えて、それから紙の束の一番上にあったイチゴ模様の紙をひっくりかえした。薄く透けるイチゴの線を無視して、鉛筆を走らせようと意識をそこに集中させかけた、丁度その時――。



「あ? じゃねーか。こんなとこで何やってんだ?」

「ひゃっ!?」



 心臓が飛び出るかと思った。
 でも、それだけじゃない。急に声をかけられてびっくりしすぎて、腕を動かしてしまったのだ。
 あ、と思った。やばい、って。だって机の隅に置きっぱなしだった大量の紙の束に腕がぶつかったのは、自分でもわかったから。「あ」って、彼――厄師寺くんが短く言う。「わー!」って私の声と、「うおー!」って厄師寺くんの動揺したそれが重なった。そこからは、なんだかスローモーションみたいに見えた。大量の紙達が居場所を失って、白くひらめきながら落下していく。厄師寺くんも慌ててどうにかしようとしてくれたみたいだったけれど、紐で縛られてすらいなかったその紙は好き勝手に落ちて行って、結局私達二人が手を伸ばして掴めたのは、せいぜいそれぞれ一、二枚ってところだった。








「これで全部か?」

「多分……」



 机の上には、角の揃っていない紙が雑に重ねられている。千枚あるかと言われると分からないけれど、床に這いつくばって隅々探してももう見つからないってことは、これで全部ってことなんだろう。
 手伝ってくれてありがとう、とお礼を言ったら、厄師寺くんは薄く色づいたサングラスの下で、ちょっと変な顔をした。「いや、今のはどう考えても俺が原因だろ」って口にされて、「私もびっくりしすぎちゃったから」って慌てて首を振る。そうしながら、さっき「うおー!」って言っていた厄師寺くんの必死の形相を思い出して、笑ってしまいそうになった。彼は強面の不良だけど、不良っていうイメージが根底から覆されるくらい、人が好いのだ。



「つかコレなんなんだ? 何に使うんだよ、こんなアホみてぇな量の紙」

「澄野くんにもらったんだ。絵でも描いたらって」

「絵? にしたって多過ぎだろ……澄野のヤロー限度ってもん知らねーのか」

「うーん、でも私が喜ぶと思ってくれたみたいだからさ。気持ちはありがたいよ」

「ふーん……ま、わからねーでもねーけどな……。つかオメー、絵なんか描くのかよ」

「描くには描くよ。でも絵の具とか使うやつだから、こういう紙にはあんまり……」

「じゃー余計コレどうすんだよ」

「どうしようね……」

「…………」



 厄師寺くん、使う? 試しにそう尋ねてみたけど、厄師寺くんは「いや、悪ぃけど、使い道がねぇな……」って想像通りの答えをくれた。可愛いイラストが印刷されている紙を何らかの用途で使う厄師寺くんのイメージはひっくり返ったって一切湧かなかったから、そう言ってもらえてちょっと安心した。








 厄師寺くんが案外面倒見が良いっていうのは知っていたけれど、まさか大量の紙の使い道まで一緒に考えてくれるとは思わなかった(「優しいね」って言ったら照れたのか、「暇なだけだ」って眉を顰められたけれど)。
 メモ帳として使ってみるとか。日記でも書いてみるとか。千枚もあるんだから、いっそ皆で折り紙大会でもするとか。でも、そんな風に使ったら澄野くんはショックは受けないまでも、「ああ……」って思ってしまうだろう。「ああ……、喜んでくれたと思ったけど、こんな風に消費するってことは、実は迷惑だったんだな……」って。私に紙を渡して嬉しそうに去って行った彼を思い出すと、そんなことは非情に思えてできなかった。厄師寺くんは「気にする必要ねーだろ」って言ってくれたけれど。
 でも、折り紙っていう案は結構いいかもしれない。千枚もあるんだったら千羽鶴とか作れそうだし。折角澄野くんがくれた紙だって、鶴として生まれ変わったら素敵じゃないだろうか。白地に、それぞれ少しずつイラストのカラー部分が映える鶴なんて、絶対綺麗だもん。
 そう言ったら、厄師寺くんは「千羽って、んな簡単に折れるかよ」って呆れたように言った。



「鶴って難しいの?」

「あ? オメー折ったことねぇのかよ」

「ないなあ。そういえば折り方知らないもん」

「マジかよ……ガキんとき近所のジジイとかババアに教わらなかったのか?」

「あー、うちの近所は仕事に疲れ果てた独居おじさんばっか住んでたよ。いつも死んだ目で出勤してた……」

「どんなとこに住んでたんだよオメーは!」



 厄師寺くんは最後に大きな舌打ちをすると、「しゃーねーな」って、立ち上がった。どこに行くの、って尋ねた私に、彼は「鋏取ってくんだよ。長方形じゃ折れねーだろ、鶴」って言うと、大股で教室を出て行ってしまった。



「教えてやっから、待ってろよ!」



 廊下の方から、叫ぶようにそう言って。
 ――これって、要するに手伝ってくれるってことなんだろうか。
 あの厄師寺くんが、千羽鶴を作るのを手伝ってくれるって。
 申し訳なさとくすぐったさが合わさって、胸の内側がむずむずする。そのむず痒さにそっと視線を落とした。さっきまで悩みの種だった千枚もの紙は、窓からの光を燦々と受けて、薄く発光していた。その仄かな眩しさに目を細める。
 手元には、さっき唯一机から落ちなかった、イチゴの描かれた一枚の紙があった。もう一度ひっくり返して、鉛筆を握る。無意識に、微かな鼻歌を口ずさみながら、描きかけの線の上に小さな丸を一つ描く。光をなぞるように、優しい黒で。いくつも線を重ねていく。








 鶴は祈りの象徴。
 誰一人欠けることなく、この百日を終えられますように。そういう願いをこめていたことを、私は決して口にはしなかった。
 千枚もの紙を正方形に揃えるのは骨が折れて、百枚くらいまで頑張ったあたりで、駄目元で川奈さんに裁断機を作れたりしないかってお願いしたら、川奈さんはものの半日で作ってくれた(川奈さんは翌日第二防衛学園に向かうことになっているチームに組み込まれていたから、帰ってきたらでいいって言ってあったのに)。手動なのが気に入らないんだけどって難しそうな顔で話してくれる川奈さんには、いくら感謝してもし足りない。おかげで大量の紙は、あっという間に正方形へと形を変えた。
 鶴の折り方を懇切丁寧に教えてくれる厄師寺くんは、ちっとも不良には見えなかった。ここは最初に折り目をつけといた方がいいとか、ここは揃えておかないと顔の部分が潰れやすい、とか。最初は素直に聞いていたんだけど、慣れてくると面倒くさくなってしまって、折り目をつけるのをやめてしまった。厄師寺くんはそんな私を驚愕の目で見ながら、「オメー、正気か……!?」って言う。細かいなあって思ったけど、厄師寺くんが危惧する通り、やっぱり折り目をつけたり丁寧に揃えるってことをしておかないと、鶴は簡単に不細工な出来になってしまった。
 厄師寺くんの大きくてごつごつした指が、一心の集中力でもって鶴を折る。ちまちました細かい作業は嫌いだ、って話していたのを聞いたけど、彼の作る鶴は、私よりもよっぽど綺麗だ。専用に準備した箱にできあがったものを次々放り込んでも、どっちがどの鶴を作ったのか、すぐにわかる。歪な鶴と美しい鶴は、箱の中で、擦れあうような、細やかな音を立てている。



「二人で折っても、案外全然進まないんだね。まだまだある……」

「だから言ったろーが。千羽なんか無理だって」

「無理かなあ……いけないかなあ……」

「まあ、百日ありゃーいけんじゃねーの」



 少し掠れた、いつもよりもどこか優しい厄師寺くんの声。教室に差し込む陽光が、窮屈そうに丸めた厄師寺くんの背をやわく照らしていた。色素の薄い髪の輪郭が透けて、それがひどく優しいものに見えた。
 百日あれば、いけるかな。
 厄師寺くんは、百日目までつきあってくれるの?
 聞いたらいけない気がして、聞けなかった。このまま箱に入れて、今この瞬間を切り取ってしまえたらいいと思った。
 侵校生の侵入を報せる警報音が鳴ったのは、澄野くんたちが第二防衛学園へと向かった次の日の午後のことだった。








 澄野くん達の不在の中、よく戦った方だと思う。
 四方向から侵攻してきた敵の攻撃を残った私達がどう凌いだのか、本当のことを言うと、けれどあまり記憶がないのだ。
 圧倒的に人数が足りなかった。「次の襲撃は十七日目」――未来から来た澄野くんはそのつもりで行動していたのに、未来は変わってしまった。澄野くんに川奈さん、雫原さん、それから銀崎くん。四人がいないっていうのも勿論大きかったけれど、敵は無尽蔵にわいて出て、倒しても倒してもきりがなかったのだ。
 飴宮さんが敵の部隊長らしき人に殺された。彼女が狙われていたのは戦いのさなかでも分かっていたのに、助けに向かう余裕がなかった。夜はいつの間にか明けていた。それでも澄野くん達が帰ってくるって信じる他なかったのだ。
 彼が第二防衛学園の人達を連れて戻ってきてくれるのがあともう少し遅かったら、学園のバリア装置は壊されて、全て終わってしまっていてもおかしくなかった。








 鶴を折る。
 今回の柄は薄桃色のチューリップ。この位置だと、鶴の背中と頭あたりに柄が出るはずだ。――もう自分が何羽鶴を折ったのかは判然としないけれど、柄を見れば、どんな模様の鶴になるか、っていうのは、何となく予想がつくようになっていた。
 裁断してもらった正方形の紙を、三角に二回。それから袋になっているところを広げて、四角形に潰すように折る。折り目は、やっぱり面倒臭いから、いい。ちょっと不格好でも、鶴は鶴だし。手順を飛ばして四角形の内側を上に押し広げて折ろうとしたとき、「オメー、それやめろっつっただろ」って声をかけられて、心臓が跳ねた。
 顔を上げた先に、厄師寺くんがいた。



「…………び、びっくりしたー…………」

「おー、前みたいに紙ぶちまけられなくて良かったわ。また全部拾えなんて言われたら、シャレになんねーしな」



 いつもの私の隣の椅子に、厄師寺くんはどっかり腰を下ろす。「よこせ」って手を差し出されて、慌てて次の一枚を彼に手渡した。いつもだったら何となく、きちんと確認してから渡すのに、それがどんな柄の紙なのか、見る余裕もなかった。厄師寺くんのマメのある、厚くて大きい手。昨日侵校生との戦いで血だらけになっていたそれは、今はもう、すっかりきれいだ。
 ――もう来ないと思っていた。
 そう言ったら、厄師寺くんはどんな顔をするだろう。
 祈りのように鶴を折っていた。誰一人欠けずに百日を終えることができますようになんて、ありきたりな願いを込めて。なんて子供じみた、虚しく悲しい願いだったんだろう。私達のしていることは命がけの戦争だ。いくら蘇生マシーンがあるからって、絶対に死なない保証書をもらったわけじゃなかった。でも、だからこそ祈ったのだ。澄野くんが善意でくれた千枚の紙。全て鶴にしたら、誰も死なないって言って。
 でも飴宮さんは死んじゃった。
 いつの間にか視界がぼやけて、ぼたりと音を立てて、涙が作りかけの鶴に落ちた。鼻を啜ったらばれると思って、息を止めて必死に堪えていたのに、なのに、どうして厄師寺くんは全部わかってしまうんだろう。太股に爪を立てて必死で泣くのを堪えている私の頭に、厄師寺くんが触れた。触れた、っていうには、だけどそれは力強すぎた。ぐ、って頭が落ちて、鶴の、もう不格好になることが決定づけられているような、歪んだ尾が顔に近づく。それは少しずつ滲んで、机との境界線を曖昧にしていく。溶けていく。
 厄師寺くんは何も言わなかった。何も言わないで、ただ私の頭を何度か、軽く叩いた。泣けって言ってくれているような気がして、それだけで救われたような気がしていたのだ。
 涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった顔は例えひとしきり泣いた後だったとしても人に見せられたものではなくて、散々泣いて、泣き尽くして、ようやく落ち着いた頃、私は厄師寺くんに断ってトイレに顔を洗いに行った。涙の痕は頬にくっきり残っていて我ながら痛々しかったのに、それでも泣かずにいたときよりは、ずっと心が楽だった。
 トイレから戻った先、教室の扉を開ける直前だった。中で鉛筆が転がるような音を聞いたのは。だけど私を迎えた厄師寺くんが「目、まだ赤ぇな」って私の顔をじっと見て言ったのに心が乱されて、私はその音のことを、頭から消してしまったのだった。








 私達が三階の教室で鶴を折っていることは、いつの間にか周知の事実になっていた。
 第二防衛学園からやって来た皆のように、私達は戦闘に役立つ薬や兵器、防衛装置なんかを作っているわけじゃない。澄野くんたちのように、今後の戦いを有利に運ぶための作戦を話し合っているわけでもない。傍から見れば遊んでいるようなものだ。勿論、やらなきゃいけないことはやった。雑用や掃除も引き受けたし、探索に誘われれば一日がかりでもついていった。空いた時間、あの教室にいただけ。二人で並んで、鶴を折っていただけ。
 澄野くんが一度、「千羽鶴つくってんだって? オレも何羽か折るよ」って厄師寺くんに声をかけていたのを見かけたことがある。
 てっきりお願いするのかと思った。何羽かどころか百羽折れやって、教室に連行でもするのかと思った。だけど厄師寺くんは「あ~……」って苦虫を噛み潰したような顔をした後、「気持ちだけもらっとくわ」と言ったのだ。「あんがとな、澄野」って。



と二人でやるって、決めてんだ」



 祈りをこめていたのかもしれない。
 私とは違う願いをかけていた。飴宮さんが死んでしまってから。ちまちましたのは性に合わないと言っていたのに、私よりよっぽど慣れた手で厄師寺くんは鶴を折り、そうして願掛けをした。
 どっちが先に五羽作れるか競争した。良く分からない柄の紙を前に、一体それが何なのかを言い合った。最初はなんとなく始めた、お遊びだった。二人で千羽。だけどそれができれば大したもんだろ。だったらこれ以上誰も死なないようにって願いくらい、叶えさせてくれよ、って、きっと彼はそう思っていた。








 死んでしまうなんて嘘だ。








 三階の教室は昼間でも薄暗く、私の体温を奪っていく。
 箱の中の折り鶴は、少しずつかさを増して、今日一日で、不細工な鶴の割合が増えていた。ほとんどの鶴の羽が折れ、尾は曲がり、首は傾いていた。折り目をつけないから。手順を飛ばすから。叱ってくれる人は、もういない。
 灯りをつけていないせいで手元は暗かった。誰かが屋上から階段を下りてくる気配があったけれど、こっちには来なかった。いつもは聞こえてくる誰かの声は、しなかった。飴宮さんが死んだ日と似ていた。
 厄師寺くんが死んだのは、私達を守るためだった。
 私は彼の死を見届けていない。私含め、ほとんどの特防隊員が敵の攻撃で意識を失っていたから。敵の総大将を倒すため、誰かがやらなければならなかった特攻を、彼がやった。選んだのは、澄野くんだった。私達のために彼の死を決めたのは、澄野くんだった。死体も残らない死だった。何も残らなかった。
 鶴を折る。ただただ無心で折っていく。意味なんかどこにもないのに。こんなの折ったって、仕方ないのに。
 厄師寺くんは、強い人だった。曲がったことが嫌いで、情に脆い。責任感があって、一度傍に置いた人間の面倒を、最後まで見ようとする。だからいってしまった。私をおいていってしまった。
 全然噛み殺す気のないおっきな欠伸が好きだった。近所のおじいちゃんが用水路に落ちた話をするときの、真剣な横顔が好きだった。短く切り揃えられた爪が好きだった。目が疲れたときサングラスを押し上げて、眉間を揉む仕草も。プリンに目がないところも。何だか気恥ずかしくて言えなかったけれど、実は私、プリンを作るの結構うまいんだよって、話したらよかった。侵校生との戦いのとき、つい一人で突出してしまう私をバイクで追いかけてきてくれるのが、うれしかった。ぶちまけた紙を拾ってくれた。好きなだけ泣かせてくれた。彼が内に秘める不器用で真っ直ぐな優しさが好きだった。どうして私はあれくらいの幸せで満足しようとしたのだろう。
 鶴なんか、もう意味がない。一番死なせたくなかったひとを死なせてしまったのだから。願いなんか届かないのに、なのにどうして私は今も縋り付くみたいにこの教室から離れられないのか。
 また一つ鶴を折り終えて、次の紙に手を伸ばす。ふと視線を落としたそれがイチゴ柄だと気がついたとき、息が止まった。澄野くんに千枚もの紙をもらった日、私が試しに絵を描こうとしていたもの。鉛筆を走らせようとした瞬間に厄師寺くんに声をかけられて、びっくりして、これ以外の全ての紙をこの教室にぶちまけた。
 千羽鶴を作ってみたいっていうのは、半分くらい冗談だった。この紙をどう消費すべきか考えた上での、苦肉の策だったから。あんなに面倒臭い状況だったのに、厄師寺くんは、私を放り出したりしなかった。正方形にするのに鋏を持ってくるから待ってろって。鶴の折り方を知らないなら教えてやるって。そう言って。
 嬉しくて、くすぐったくて、それで私、厄師寺くんが戻ってくるまでの間に、このイチゴ柄の紙を裏返したの。どうしようもなく絵が描きたくなってしまって。この学園のプレゼントマシーンには油彩に使う道具がなかった。ただの趣味だし、絵を描かなきゃ死んでしまうなんていうような繊細な人間でもなかったのに、その時だけはどうしても、描きたかった。
 睫毛の少ない、重たい瞼をしたつり目がちの瞳。眼球は小さくて、だけどその分そこには意思の強さが宿っていた。光に透けると黒目の部分が僅かに薄くなって穏やかに見えていたってことを、本人は知っていただろうか。サングラスの奥の双眸は、いつも優しかった。
 私から見た、厄師寺くんの目。
 裁断されるか、そうでなくても気付かれることはないと思っていたのに。
 それを見た瞬間、今度こそ本当に呼吸が止まった。脳の奥のあたりが大きく引き攣れて痛んだ。「もう誰も死なせるな」と言う実に彼らしい遺言を聞いても泣けなかった。何も残っていなかったから、実感がなかった。帰ってくる気がした。私は彼が光に包まれたのを見ていないから。
 だけど、今初めて私は、彼がもういないことを知ったのだ。
 だっていたら、厄師寺くんは絶対私にこれを見せない。私がこの紙を手に取った瞬間に取り上げて、自分が鶴にしてしまう。
 思い出していた。私が飴宮さんの死に泣いたあの日、私は珍しく、彼に表の柄を確かめることなく紙を手渡したこと。顔を洗うために向かったトイレから戻って来た時に鉛筆が転がる音を聞いたこと。彼がこれを描いたとすれば、あの時だ。
 私が描いた厄師寺くんの瞳の隣にあったのは、筆圧が妙に強い、お世辞にも上手とは言えない絵だった。左右の目の大きさはバラバラで、瞳の形も歪んでいる。だけど睫毛の量が多くて、きれいな二重だった。
 私だ、って思った。これは私だ。ここまではっきりとした二重じゃないし、睫毛だってこんなにはないけれど、それでも、絵なんか描き慣れてなかっただろう厄師寺くんが描いた、私の目。右下に小さく書かれた私の名前と、それから「好きだ」って、たった三文字に、今度こそ声をあげて泣く。
 両の目から、涙が音を立てて落ちていく。私はどんどん透明になる。この教室で、二人、世界から隔離されたみたいに鶴を折っていた。誰よりも優しいあなたが死なないようにと。本当はそれだけを祈っていた。