シルヴァンくんの周りには、常に何人もの女子生徒が取り巻くようにいる。
私はそれを輪の外から眺めて、光宛ら、と思う。シルヴァンくんは私たちにとって、光であり、花であり、甘いお菓子だ。
ゴーティエ家の子息で、紋章を持っている彼は、ゆくゆくはあの北の大地を継ぐ。身分は申し分ないどころか、弱小貴族の私や、それより大なり小なり見栄えする身分の彼女たちからしたら、彼は天上にいるようなものだった。その上顔立ちも整っていて人当たりも良く、女の子には特に優しい。それどころか、彼は分かりやすく私たちを口説いてくれる。簡単に「特別」にしてくれる。学級の内外の女の子が彼の視界に入りたがるのだって、無理のない話だ。
私たちは奇跡がほしい。
取り入って、気に入られ、恋人として愛され、ゆくゆくは彼の夫人という立場になりたい。紋章を持つ子供が産まれなければ意味がないと言うならば、いくらでも子を成そう。だから私の手を取って。そう誰もが思っている。
自分たちの家を生き長らえさせることを宿命としている私たちにとって、シルヴァン=ジョゼ=ゴーティエなる人は、私たちに奇跡をもたらしうる人だった。
彼は私たちの光そのものだった。
「あれっ」
書庫で本を選んでいたとき、不意に背後で声がした。
聞き覚えのある声にそれが誰かを瞬時に察しはしたけれど、それがまさか自分に向けられたものだとは思わなかったから、「じゃないか」って言われなければ、私はそのまま、振り向かずにいたかもしれない。
それでようやく首だけで振り返ったら、そこには想像通りシルヴァンくんがいて、私はたじらろいでしまった。借りるために抱えていた本に、思わず力を込めてしまう。この声はシルヴァンくんだ、って思っていたのに、彼が自分に話しかけてくれていると知った途端、息が詰まる。彼とは同じ学級だし、こうやって会話をすることは初めてではないけれど、さほど懇意にしているというわけではなかったから、その瞳が自分に向けられると、それだけで妙に緊張してしまうのだ。
「いやあ、偶然だな。たまには本でも読もうかと思ったんだけど、まさか君に会えるなんて」
シルヴァンくんは私の隣に立つと、本棚じゃなくて私の方を見て微笑む。だけど私が「ん、はい。そう、だね……」って、ちょっと言葉に詰まったら、彼は書庫に並ぶ本の背表紙に、自然な所作で視線を移した。距離を測るのが上手いのだ。相手の一挙手一投足を見て、詰めたり、離れたりする。多分、私は今の一瞬で、彼に「離れたほうがいい」って判断されたんだろう。そしてそれは、正しい。いつも。
本を眺める彼の横顔には、書庫の灯りが作る影が落ちていた。いつも人好きのする笑みが浮かんでいる口元は引き締められ、雄弁すぎるくらいだった瞳は書庫に並ぶ書物一冊ずつに語りかけでもしているかのように思慮深い。
たまには本を読んでみようと思って。そうシルヴァンくんは言ったけれど、シルヴァンくんは嘘吐きだ。
彼は本を読む。教室でも、大広間でも、食堂でも、女の子に囲まれて笑っている彼は、そういったところはおくびにも出さないし、それを知っている人も、多くはなさそうだけど。
細やかな沈黙の後、シルヴァンくんの指が一冊の本の背表紙にかかる。王国領の中でも最北に位置するゴーティエに生まれ育った彼の肌は日に焼けておらず、滑らかで、だけどその指はきちんと男の人のそれだった。その本の題名を記憶するため、私は一瞬、全ての五感を遮断する。だからシルヴァンくんの「が持っている本、今度どんな本だったか教えてくれないか?」に、返事をするのが遅れてしまったのだ。
「ん?」
「それ、借りるんだろ?」
「あ、うん、そう。……でも、私、読むのすごく遅いんだよ」
「へぇ、意外だな」
シルヴァンくんは、だけどそれで引き下がったりしなかった。「よかったら、で良いんだ」それは、触れたら弾けて消えてしまう泡を前にするような、静かな声だった。
私はそれに、小さく頷いた。濃い草色の表紙のそれは、帝国に生まれた女性の日々を描いた物語らしい。私は、彼がその内容ではなくて、私の抱いた感想を聞きたい、と言っているんだと考えた。だってシルヴァンくんは、私よりも先にこの本を借りていたから。……教室の、彼の座る机に、教本に混じって置かれていたのを、数週間前に見ていたのだ。それが今日、書庫に戻されていたから、手に取った。彼が見た世界を盗み見たかった。私はさっきシルヴァンくんに「が持っている本」と口にされたとき、親に隠し事がバレてしまった子供のような居心地の悪さを覚えていたけれど、彼は、私の湿った部分に、気付かずにいる。
シルヴァンくんは、そっとその眦を細めた。
「良かった。楽しみにしてるな」
じゃあ、シルヴァンくんが今日借りるその本、次に私が借りてもいい?
聞けたら良かったのに、口にできなかった。そういうところが、私のきもちわるい、だめなところだ。
放っておいたら「その日」がくるのかっていったら、きっと、来ないんだと思う。
シルヴァンくんはいつも、誰かと一緒に居た。学級内外の女の子に囲まれて、幼馴染みのイングリットちゃんに引きずられて、殿下やフェリクスくんと何か話をして。城郭都市の、明らかに私たちよりも年上の女性と歩いているのも見たことがある。そういうとき、彼はあの日の書庫で見せた面影をすっかり影に隠して、光そのものになる。ゴーティエ家の子息として、紋章を持つ者として、彼はそれに相応しい、言い換えるならば、彼だからこそ許される振る舞いをする。私はそれを、草色の表紙を持つ本の隙間から、ひっそりと眺めている。
私はシルヴァンくんと違って、所構わず、他者の視線など気にすることなく、どんな場所でも本を読んだ。寮の部屋は勿論、授業の合間の教室で、外の長椅子で、食堂の隅で、どこにだってその本を連れていった。私はいちいち文章を映像にしてから読んでしまうせいか、本を捲るのがとても遅くて、どれだけ読んでいても、全然進まなかった。以前金鹿の学級のリシテアちゃんに「あんた、それ前も読んでませんでした?」って言われたけれど、前も、じゃなくて、まだ読み終わってないのだ、とは言えなかった。
「よっぽど好きなんですね、それ」
そう言うリシテアちゃんは、いつも難しい本を読んでいた。彼女の捲る速度と私のそれは、もう比べることもできないくらい、圧倒的な差があった。
この本は、帝国に生まれた女性の半生が描かれている。彼女は歌劇団――物語の中では別の名称になっているけれど、私はかのミッテルフランク歌劇団に置き換えて読んだ――の衣装係だった。衣装係は、舞台に立つ女性たちのために針を持ち、一心不乱に衣装を縫う。自分が一度も着ることのない、美しく華美な衣装。だけど、そのどれもが真新しく、舞台のために作られたもののようであってはならない。舞台袖のその先に彼女たちの暮らす世界があるのだと観客に思わせねばならない。持てる技術の全てを持って、彼女は命をすり減らすように、何百何千の衣装を縫う。布に命を吹き込む。
誰も彼女を見てはくれないのに。
ある日のことだった。その日はしとしとと雨が降っていて、窓の外には厚い雲が重なっていた。
授業は休みで、特別な課外活動もなかったから、私は自室に籠もって本の続きを読んでいた。シルヴァンくんと約束をしてから、一節は経ったけれど、まだ半分も読み進められていなかった。夏が終わるまで読み終わることができるかどうかすら、怪しい。だけど、だからと言って読み飛ばすなんてできなかったし、急いで捲ることもできなかった。私は衣装係の悲喜交々に最大限寄り添った。衣装小屋が火事になったときは一緒に泣いたし、そのうちのいくつかを舞台に立つ女性達が救い出してくれたことには感動した。腕に火傷を負ってしまった歌姫が引退することになったとき、衣装係は彼女と共に劇団を去ろうとするのだけど「あなたが火事を起こしたの? 違うでしょう」と叱咤激励され、再び針を持つ。衣装係の女性が奮起する様子には、胸が熱くなった。そうやって集中していたから、その時、部屋の扉が叩かれたのに、私は椅子から飛び跳ねてしまった。
「はいっ?」
上擦った声で返事をしてから、慌てて扉を開ける。こんな休日の昼間に、なんだろう、って。だけど、開けてみて、びっくりした。そこにはシルヴァンくんが立っていたのだ。部屋を間違えたのかもしれない。自分の部屋じゃなくても、誰かの部屋と。だけどシルヴァンくんは私を見ても、全然驚かなかった。その瞳に映る私だけが、驚嘆に目を見開いていた。彼はそうとわからないくらい薄く笑うと、「ちょっとだけ、ここにいさせてもらえないか」と、掠れた声で言った。彼はいつもの十倍くらい、疲れた目をしていた。
シルヴァンくんは、本当に「ちょっといた」だけだった。
お茶を淹れようかと言っても首を振り、お菓子を食べるかと尋ねても断った。ただ、机の上に置かれた、栞の挟まれた本を見て、「続き、読んでてくれよ」って言った。構わないでくれ、ってことらしい。私はどうしたらいいか分からなくて、仕方なく、本を開いた。シルヴァンくんは私の視界に入らない部屋の隅で、じっと座っていた。そういうとき、シルヴァンくんの存在感は極端に薄くなった。
たまに、シルヴァンくんは女の人に怒られて、追いかけらていれることがある。多分、その子は本気で彼の「唯一無二の特別」だと信じてたんだろう。匿ってくれ、って他の人の部屋に飛び込んでいるのを見かけたのだって、一度や二度じゃない。だから、今日もそういうのなのかな、って思った。なんで私の部屋に? っていうのは、勿論疑問としてあるけれど、もしかしたら、男の子たちに呆れられて、断られたのかも。彼に好意を持っている女の子の部屋に行っちゃったら、それはそれでまた問題になってくるし、イングリットちゃんなんか彼からしたらもっての外、だろうし。
私は、多分そういう点に関してのみ言えば、都合が良い。シルヴァンくんの取り巻きには含まれないし――だけどそれは、そもそも私がそういう積極性に欠けているせいだ――彼を叱り飛ばせるような間柄では勿論ない。私は、彼にとって恐らく毒にも薬にもならない人間で、だから、避難先に選ばれた。たぶん。
あまり集中できなくて、シルヴァンくんが居る間、本の頁を捲ったのは二回だけだった。視線だけは、気のせいでないならば、ずっと私の横顔に温く刺さっていた。雨の音だけが、しとしと、しとしと、響いていた。膜の張られた球体の内側で、私たちは互いの存在を意識しながら、ひっそりと息をしていた。私は彼が「ありがとう、じゃあ、行くな」って部屋を出て行った後、とりあえず、彼が来る前のところから本を読み直した。蜃気楼みたいに揺れていた像は、一人になって、やっと明確な輪郭を描いた。私は、緊張していたらしかった。
その日から、シルヴァンくんは休みの日、私の部屋をふらりと訪れた。何をするでもなく、彼は私に本を読むように言い、自分は部屋の隅で、じっとしていた。
シルヴァンくんが最後に私の部屋を訪れたのは、翠雨の節の、おわりの日だった。その日は、ベレト先生が担任を務める金鹿の学級の生徒たちが、賊の討伐のために王国領に出向いていた。天気は前日から崩れていて、強い雨が降っていたけれど、私たちはもう、前日に課題を終わらせていたから、部屋に閉じこもっていられた。
物語はようやく佳境へと突入していて、衣装係の女性はとある男性に恋をしていた。観客の、貴族だった。彼は新しい歌姫に熱を上げていて、毎日のように劇場に通い詰めていた。一度だけ「衣装がすばらしいんだ」と話していたのを聞いた。「あの衣装があるから、彼女はあの舞台のその先にも、役者ではなく、そこで暮らす人物として生きているように見えるんだよ」と。衣装係は馬鹿ではないから、彼が自分の縫った衣装よりも、それを纏った歌姫を見ているのだということを知っている。けれど日に日に思いは募り、衣装係は自分の中に芽生え始めた羨望が、嫉妬に色を変えていることを自覚する。
シルヴァンくんは、じっと息を潜めていた。私は彼がそこにいることも、ほとんど忘れて物語にのめりこんでいた。嫉妬に狂う衣装係は、舞台に立つ女性たちの着替えを手伝う際、小道具の短剣を本物にすり替える。物語の中で、歌姫の胸に突き立てられるものだ。そして衣装係は、そのまま劇場を飛び出す。その歌劇を最後まで見届けることなく、長く働いていた劇団に別れを告げて、そのまま都の雑踏に消えていく――。
そこまで読んだとき、シルヴァンくんが、「ふ」って息を吐いたのが聞こえた。
びっくりして顔をあげて横を見ると、彼は、笑いを噛み殺して私を見ている。
「悪い、の顔がころころ変わるのが、面白くて」
そう言われて、顔が熱くなってしまった。確かに、言われてみれば眉間に皺を寄せていたかもしれない。その前は涙ぐんでいたし、今だって短剣のくだりは息を飲んでいた。「ひどい」と口にすれば、それは思いのほか細く、頼りなく響いてしまった。
びっくりしたのだ、本当に。
だってこれまで、シルヴァンくんが私の読書を邪魔したことは一度もなかったから。何だか悔しくなって、私は栞を挟んで本を閉じた。「今日はもう終わり?」って笑いながら微かに頭を傾けられて、「終わり!」って言う。シルヴァンくんは、声をあげて笑った。そんな風に彼が私の前で相好を崩すのは珍しくて、落ち着かなくなる。やめてよ、って、思うのだ。線を引いておいて、って。
私は恋をしたばかりの衣装係のように、弁えている(さらに言えば、彼女のように嫉妬に狂い、暴走することはない、恐らく)。私はシルヴァンくんの特別ではなく、ただの空気。彼が何か嫌なこととか、つらいことがあったとき、幼馴染みである殿下やイングリットちゃんには見せられない感情を、彼はここで粉々に砕いている。女の人を吸い寄せる光たる彼は、苦悩に苛まれている。今日だって、そう。私はそれに触れずにいることが正しくて、だから、同情もしない。私がそうすることを、シルヴァンくんも望んでいるから。
彼のお兄さんが今、教団の討伐対象になっていること、ベレト先生やクロードくんが、今この瞬間、その息の根を止めているかもしれないこと、そういうのを、私は知らないふりをする。
シルヴァンくんは、だってそれを望んでいる。
シルヴァンくんの顔から、静かに笑みが消えた。私を見る彼は、途方に暮れた子供のような顔をしている。「読んでくれよ」って、すかすかの声で、彼は言う。君のことをずっと見てた、って。教室で、長椅子で、食堂の片隅で、果てはこの部屋で。分かりやすく表情を変えて物語にのめりこむ君を。彼は、そう続けた。
「君が本を読んでいるところを見るのが、好きなんだ」
縋るようなそれは私の耳から、じわりと体の内側へと浸食していく。
けれど、それは決して愛の告白ではないのだ。私は彼の双眸をじっと見た。端正な、美しい顔をしていた。女性ならば、誰もが放っておかないような。紋章を宿し、ゴーティエ家の後継たる彼は、私たち弱小貴族にとって、どこまでも眩しい。彼は私たちに愛をばらまきながら、その実深層に呪いのようなものを隠している。本の隙間から窺っていた私だから気がついたのか、誰しもがそれを察しているのか、私には分からない。ただ、この人は、今この瞬間に限っては、迷子のようなものなのかもしれなかった。
彼が私にこの本を読ませてどうしたいのかを、私は知らない。これはふりではなくて、本当に。彼がこの物語の誰かに実在する周囲の人間を当てはめていたとしても、私がそれを理解することはきっと、これから先も無いのだ。
「私が本を読んでたら、シルヴァンくんは、笑ってくれる?」
そう口にした瞬間、遠いどこかに雷が落ちた。
シルヴァンくんは、私の問いには答えない。ただずっと、窓の外、王国領に続くその空を、彼はじっと、息を潜めて見つめている。瞬間、私はその横顔が、空想の中の、短剣を突きつけられる歌姫のそれと被って見えた。私はどうなんだろう。願わくば、燃えさかる炎の中生き残った、歌姫が最後に着た一着の衣装でありたい。なんて、でも、それすらきっと、傲慢だ。