――背伸びをすれば届きそう。
古い紙と薄らとした墨の匂いの充満する、書庫の片隅だった。フォドラのありとあらゆる本が集められていると言うガルグ=マクの書庫は圧巻だ。入学から数節が経っても尚、足元から頭上までずらりと並ぶ本の数に圧倒されてしまって、思わず居住まいを正す。
歴史書に宗教史、あまたの物語。戦術の指南書や教本の類は詰所である騎士の間に収められていると考えれば、その蔵書量に益々目が眩む。ガルグ=マクってやっぱりすごい。これまで武芸中心の生活を送っていたために物語を読む機会はほとんどなかったけれど、士官学校にいる間になるべく多く触れてみたいと思っていた私からすれば、充分過ぎるくらいに恵まれた環境だった。
書庫には学生や信徒の人たちの微かな咳払いや足音が控えめに響くだけで、他とは違う静寂に包まれている。天井近くに填め込まれた玻璃硝子から差し込む柔らかな光は階段下までは届かなかったけれど、背表紙を確かめるくらいは易く、視界に引っかかった題名の本の前で足を止めた。
「キーフォンの剣」。この間イングリットちゃんとアッシュくんが面白かったって話していた本だ。以前勧められてから、ずっと気になっていた。いつか機会があったら読もうと、頭の端に置いていたものだった。
届くと思ったのだ。あれくらいの高さなら。
思いっきり背伸びをして、腕を伸ばす。けれど想像に反して私の指は空をかいたから、爪先に目一杯の力を入れて、腕だけじゃなくて身体全部を縦に伸ばした。ふくらはぎが吊る一歩手前。「うぐ……!」って声が口から漏れて、血が集まった頭が熱くなる。だけど無理をすれば本の下あたりに指をかけられないこともなくて、それが私に希望を与えてしまった。もっと明らかに届かない場所にあったら、踏み台とか梯子を持ってきたのに、面倒臭がってしまった。
どれだけ背伸びをしても、身体を捻っても、本が抜けない。どうにか本に指が届いても、ぎゅうぎゅうに詰め込まれているせいで指が差し込めないのだ。いっそ床を踏み込んで飛び上がればいけたりしないだろうか。だけどそれじゃあ貴重な本を傷めてしまうだろう。やっぱり踏み台になるものを持ってこなければ。――そんなことを考えていたときだ。私の身体に影が落ちたのは。
「え」
背中に何か当たる。人の体温だ、と気がついたときには、私の頭上でその影は動いていた。微かな息遣いがすぐ傍にあった。私が伸ばしていた手の先で、あれだけ頑なに動こうとしなかった本は、誰か別の人の手によって呆気なく引っ張り出されてしまう。びっくりして、その手の先を追った。
ファーガスでは、ダスカー地方以外であまり見かけない褐色の肌。右側で編まれたくせっ毛に、金の耳飾り。翡翠色の瞳。骨張った手。私の物とは形の違う爪。香のような、微かな香り。制服に羽織った、黄色の外套。――金鹿の学級の級長。
クロード=フォン=リーガン。
その時の衝撃を、私は多分生涯忘れないだろう。
学級が違う彼とはそれまで、話をしたことなんか愚か、目が合ったこともなかった。殿下と言葉を交わしているのを、時折遠巻きに見ていたくらいで。
時間が止まったのかと思った。私の背にあった温もりが離れて、それで、背に手を添えられていたんだって気がついた。耳の傍でキンって甲高い音がして、息が止まった。窓から差し込む穏やかな光が、彼の髪や輪郭を淡く滲ませていた。背の低い私より、頭一個分高い位置から、彼は私を見下ろしていた。逆光が、彼の表情を薄暗くしていた。私が取ろうとしていた「キーフォンの剣」の本を片手に、なんてことない顔で、彼は私を見て、その目を悪戯っぽく細めていた。緩く上がった口角は、一つの間違いもないみたいに、きれいだった。
「――これだろ?」
こんななんてことない一瞬で、人って恋に落ちるんだ、って、どこか冷静に考えている私も、その時確かにいたのだ。
「随分ぼんやりしていますが、考え事でも?」
「ひっ」
食事の手を止めて食堂の壁の一点を見つめていたら、突然背後から声をかけられてお尻が椅子から浮き上がりかけた。
顔だけで振り向けば、食事を手にしたイングリットちゃんがいる。彼女は「隣、空いていますか?」と尋ねると、私が頷くのを待ってから椅子に腰を下ろした。
「食事、進んでいませんね。……もしかして、どこか具合でも悪いのでは?」
「そんなことないよ。ぼーっとしてただけ! ぼーっとするの好きだから!」
「ぼーっと……。なら、いいのですが」
イングリットちゃんは王国領東部に位置するガラテア伯の御令嬢で、文武ともに優れた女の子だ。元々顔見知りではあったけれど、こうしてガルグ=マクで寝食を共にして、益々仲良くなれた気がする。訓練でも、課題でも、イングリットちゃんを頼りにさせてもらったことは数え切れいくらいあった。だけど、恋愛とか、そういう話は、なんだかしにくい。浮ついた話を私たちはこれまでしてきたことがなかったし、相手がクロードくん、っていうのも、言い出しにい理由の一つだった。相手が王国の子だったら兎も角、同盟領の、それもいずれは領主になる人相手の片思いなんて、叶いようがないってわかっていたから。
それに私には、名ばかりとは言え、婚約者がいるし。
私たちの背中の方、教室側の入り口の方で、誰かが「あ、クロードくん!」と声をあげたけれど、振り向く勇気はない。目を閉じれば、だけど私のまなうらには、書庫の彼がいる。浅瀬の海を吸い込んで光る翡翠の目。陽光に透けた柔らかな毛。玻璃硝子の向こうの白んだ空。
いっときの自由を味わうのに丁度良いから、無意識に、叶いっこない恋をしたんだろうか。
だけど視界の端で、クロードくんはいつも、淡い光を放っている。私は彼に気付かれないよう、その光を目で追っている。
学級が違ったって、話くらいしようと思えばいくらでもできる。訓練や当番の類がかぶることもあるし、普段与えられる課題だって似通っているんだから、話題にだって事欠かない。実際私も、黒鷲の学級のドロテアちゃんやフェルディナントくんとは良く話をした。金鹿の学級に関して言うなら、ローレンツくんやレオニーちゃんなんかとも。彼らと話すときは緊張なんかしたことがなかったし、学級が違えど仲の良いひとたちだと、心の底から思っている。
だけど肝心のクロードくんの前では、私は平生通りではいられないのだ。顔は赤くなるし、どもってしまう。鷲獅子戦でうっかり前に出すぎてクロードくんの矢に肩を射られたとき、クロードくんは後で私に声をかけてくれた。「さっきは悪かったな。……痛かったか?」って。もしこれが殿下とかシルヴァンくん相手だったら私は素直に「痛かった! びっくりした!」って言えるのに、クロードくんだとそうもいかなくて、「だ、だだ、だいじょうぶ」って、大きく首を振って、そのまま走って逃げてしまった。
「――怯えられてんのか? 俺」
背後でそうヒルダちゃんに話す声が聞こえた。怯えてなんかなかったけど、言えなかった。好きだって感情が溢れて、抑えられなくなりそうだったから。
私は彼と自分の間に、太い太い線を引いていた。ここを越えたらいけないと定めて、彼の放つ光をこっそり見ていた。踊ってほしいとはついぞ言えなかった舞踏会の夜も、なんてことない普通の日も、彼が誰といても、笑っていても、難しい顔をしていても。
一方的な片思いだった。私はこの一年を大切に箱に収めて、大人しく領地に持ち帰るつもりでいた。私は恋愛に関してシルヴァンくんのように割り切ることはできなかったし、ドロテアちゃんほどの覚悟も信念も持ってはいなかった。偶像崇拝のような恋だったから、憧れと割り切るのも容易かった。「よ、」と声をかけられるたび、本当は、息ができなくなるほど苦しかったけど。
婚約者から届く手紙にはいつも一度だけ、さっと目を通した。だけどレオニーちゃんのように、手紙の裏の部分を勉強に使ったりまではできなかった。返事は書いたり書かなかったりした。なにもかも、私は中途半端だった。本当にどうにかなりたかったら、こんな風に距離を置かず、彼に近づいたらよかったのだ。婚約者の手紙なんか全部破いて、積極的にクロードくんに声をかけて、自分の話をたくさんして、私のことを知ってもらって、学級の移動だってなんだってすればよかった。好きだって言えばよかった。なんだってできた。
それらを全部選択肢から外して、クロードくんとの数少ない思い出だけを両手に抱えて生きると決めたのは私だ。
だから、後悔なんかしていいはずがない。
あの日クロードくんが発した言葉を、表情を、私だけが知っていた。それだけでよかった。
「」
クロードくんが私を呼んでくれたのは、片手で数えられるくらいだった。
霧の晴れたグロンダーズの川の向こうにクロードくんとベレト先生たちを見た。
恐ろしいことに、私が彼に恋をしたあの日からもう五年が経っていて、かつて彼らとこの場所で相まみえた鷲獅子戦も今となっては遥か昔のことだった。――五年前、一体この場にいた誰がこんな未来を予想していただろう。クロードくんは、だけど、分かっていたのだろうか。私たちが戦うことになるってこと。敵同士になること。フォドラが混迷の時代に突入すること。
あの頃もしも私にもっと勇気があれば、覚悟があれば、「今」は少し変わっていたかもしれない。だけどエーデルガルトさんへの呪詛を吐き出し続ける殿下の背はもう手の届かないところにあって、ここにいる、かつての青獅子の学級に所属していた私たちは、全員が何かを少しずつ間違えてしまった者同士だった。殿下の妄執に飲み込まれた王国軍は、軍としてなんの体裁もなしていなかった。グロンダーズに至るまでの間で、兵力も物資も食糧も、ほとんど尽きていた。そんな中で、クロードくんの放つ光は、瓦解しかけた王国軍にいても、よく見えたのだ。彼は淡く発光していた。私にはそれが見えていた。私には。私にだけは。
――「隣」だなんて贅沢は言わない。だけど、ほんとはあなたのそばにいたかった。
言えるわけがない。五年前この場所で、射られた肩が痛かったってことすら伝えられなかったんだから。後悔はしないって誓ったはずなのに、後悔ばかりだ。やり直せるならやり直したいのに、どこからやり直したらいいのかが、私たちにはわからない。
あの日交わした会話を、背に触れられた手の温度を、光の粒を、後生大事に抱えている。死地に赴く今ですら。クロードくんの翡翠の瞳が好きだった。その瞳はいつも、私ではないところを見ていた。