ボクとガルグ=マクに戻ってから数節が経って、ゴネリルで長く使用人として働いていたは、六年前と別人……とまでは言わないけれど、従士として、それなりに仕事ができるようになっていた。
 勿論、ゴネリルではやらされていなかったのだと言う馬の世話なんかはボクから見たらやっぱり効率が悪くて、相変わらず彼女が一度に運べる飼い葉には限りがあった。温室の水やりもこの六年の間にすっかりやり方を忘れてしまったみたいで、手を加えず放っておいたほうが育つ植物にまでたっぷり水をあげてしまい、管理人さんに苦言を呈されたりもしていたし。あと薪なんかもボクが手伝うか、他の従士に任せた方が何倍も早いし、何でもかんでも安心して任せられるようになったかっていうと、そういうわけじゃない。
 でも、洗濯と掃除に関して言えば、もう彼女の右に出る人間はいなかった。ゴネリル領主の屋敷でよっぽど鍛えられたんだと思う。寝室を調えさせれば一分の隙もなかったし、彼女の手が入った後の部屋はいつも清潔に保たれていた。長く風雨に晒されていた硝子を磨き上げてかつての輝きを取り戻させ、ボクの衣類の解れなんかにも目敏く気がついて、手早く繕ってくれることもあった。



「随分見違えた」



 大司教に感心され、「そ、そうですか?」と面映ゆげにしているところなんかは、実にらしかったけれど、だけどボクはなんていうか、彼女の変化というか、成長に、少し戸惑っていたのだ。
 色んなことができるようになったはかつての彼女よりも余裕があって、どこか大人びた女性に見えなくもなかったから。
 が男の人に話しかけられることが増えたのだって、なんら不思議じゃない。有り体に言ってしまえば、戸惑うというよりも、ボクはそれが気にくわなかった。








「………………」



 また話しかけられてる。自然と寄ってしまう眉根を、意識して平生に戻す。
 こういうとき、目が良いっていうのも考え物だ。
 フォドラの人たちって、ボクほどに遠く離れたものの細部までは見えないらしい。離れた敵兵が矢筒に手を伸ばす瞬間だとか、視線の動き、兵士に指示を出すその指や口元。そういうのが見えているのと見えていないのとでは、自分が次に取る選択肢も変わってくるものだけど、戦況を有利に運ぶために欠かせなかったそれは、平時では不要になるどころか、邪魔、って言っても良いかもしれない。勿論、ないと困るよ。ボクは一応、今は士官学校の学生っていう立場だし、卒業したらセイロス騎士団に戻るつもりでいるから。
 でも、騎士の間を出たところから、厩舎にいる二人のやりとりを見るには、普通の視力じゃ足りないって知ってしまうと、今だけは不必要だな、と思ってしまう。もし見えてなかったら、いちいちこんな風に感情を動かされる必要だってなかったわけだし。ボクには何もかもが見えてしまう。その二人が誰かっていうのは勿論のこと、目の動きや微細な表情の変化に至るまで、事細かに。
 そこにいたのは、一人はで、一人はこの春、士官学校に入ったばかりの男性生徒だった。ボクと学級は違うけれど、貴族の出であるという彼の顔は覚えがある。先日の野外活動のときに、少し話をしたし。
 厩舎の当番なのだろうか。何か分からないことがあって、仕事をしていたに質問をしているのかもしれない。そういうの、ボクも昔は、たまにだけど、あった。だから何も不思議なことではないんだけど。
 でも、ちょっと距離が近いんじゃないかな。
 って元々人好きする雰囲気っていうか、脇が甘いっていうか、隙がある。だから多分、誰からしたって声はかけやすいんだと思う。そうでなくてもゴネリルで仕込まれた使用人としての心構えのせいか、戻って来てからは所作に……その、女性らしさ? が出ているように思うし。本質は言ってしまえば真逆だし、口を開けば、年齢を疑ってしまうくらいには幼いところが露呈するのに。
 きちんと彼の目を見て話すは、頷きながら、時折はにかんだように笑う。口元を手で隠して、その眦を細めて。対する彼の表情はボクからは丁度見えなくなってしまったけれど、遠目から見て二人の纏う雰囲気は良かった。でも、別に邪魔をしようと思ったわけじゃないのだ。そりゃあ自分の恋人が他の男の人と話していたら面白くないけれど、それを許さないのって、余裕がなさ過ぎるし、狭量だ。
 ボクが二人の方へ向かって歩いたのは、元々自分がそっちに行くつもりだったからで他意はない。けれど、彼の体越しにボクを見つけたらしいが、ぱっと目を見開いてボクを見てくれたとき、ボクは、ちゃんと嬉しかった。彼に頭を下げて、会話を終わらせたらしいことだって。偶々そのときに会話が終わっただけかもしれなかったとは言え、それでもボクを優先してくれたように思えたし。
 は木桶を片手にボクに手を振ると、ちょっとだけ小走りになってボクの元へ駆けてきた。その笑顔は、つい今し方彼女がしていたものよりもずっと自然で、柔らかい。そうして頭で比べてみると、さっきのが、やっぱりちょっと気を遣っていたというか、余所行きだったんだなって思える。ボクは今自分が抱いている感情の名前が、優越感と呼ばれるものであることを、知っている。



「ツィリルくん!」



 のボクの名前を呼ぶ声は、いつだって角がない。「偶然だね」と顔を綻ばせるは、ボクの正面に立つ。竪琴の節の白っぽい光に、眩しそうに目を細める。



「なにしてたの? どこに行くの? こっちに用事? 授業まだあるよね?」

「……一気に聞かれても、困るけど」



 に声をかけられて嬉しいのに、ボクは自分の感情を、素直に表には出せないのだ。ボクを見つめてににこにこしているは、「私はねえ、これを片付けたらちょっとだけ休憩」と木桶を指し示して言う。用具入れはこっちじゃなくて、彼女の背にある厩舎の方だ。ボクと話すためにわざわざこっちに来てくれたんだと思うと、やっぱり、嬉しい。
 ふと視線を感じて顔をあげると、こちらを見ていたらしい先の生徒が視線を逸らしたところだった。「……彼はもう良いの?」ってに尋ねると、「彼?」と首を傾げたはボクの視線の先を一瞥して「ああ」と小さく頷く。



「黒鷲の学級の新入生さんなんでしょう? 厩舎の当番が初めてだって言うから、色々教えてたの」



 飼い葉の場所とか、掃除の仕方とか。指を折りながらそう続ける彼女の様子を見るに、本当にそれだけなんだろう。彼の方は、もしかしたら、ちょっとだけのことを気に入った、という可能性もあったのかもしれないけれど。
 とうにこちらに背を向けて歩き出している彼の後ろ姿を、じっと見つめる。怨嗟、とまではいかなくても、ちょっとだけ粘ついた感情を込めて。でも、は「は〜」と、感慨深げにため息を吐くのだ。まるでボクの抱えた負の感情に、ちっとも気がつかないとでも言うみたいに。



「今までは、ずっと私が教えてもらう側だったから、なんだかドキドキしちゃった」



 微かに紅潮したその頬に、だけど彼女の言葉以上の意味はないんだろう。
 ボクの顔をじっと見つめるは、「ね、ね、私、成長したかな?」って嬉しそうに首を傾げるから、ボクはなんだか、自分が勝手にやきもきしてしまっていたことすらも馬鹿馬鹿しくなってくる。褒めて、って、を形作るありとあらゆるものが主張していて、ボクはその額を指の腹で撫でたい衝動に駆られるんだけど、ぐっと我慢した。植樹された低木の向こうから聞こえてくる生徒たちの笑い声に、我に返ったのだ。
 の目は、いつだってボクしか見ていなかった。自分に好意的に接してくる相手が貴族だろうと、背が高かろうと、面立ちが整っていようと、彼女はちっとも意に介さない。ボクを視界の端に見つけると、こうして嬉しそうに駆け寄ってくる。ボクが従士だったときから、それはちっとも変わらない。それで独占欲を抱くなんて、ボクの方が馬鹿みたいだ。
 返事はしなかったし、褒めてやることもしなかった。代わりに、木桶をの手から取る。反対の手で彼女の空になった手を握って、軽く引くと、は引き攣ったような声を喉の奥から漏らす。



「え、え?」



 は明らかに狼狽していたけれど、ボクだって、一応周囲の目は気にしていた。人目を憚らずに仲睦まじい様子を見せる男女っていうのもガルグ=マクにはいたけれど、ボクはそういうことを好まないし、それは彼女もそうだから。見える範囲には誰もいないって判断したから、彼女の手を取ったのだ。……今日に限って言えば、例え誰かがいても、そうしたかもしれないけれど。
 ボクの手の中でわかりやすく慌てる彼女のそれに、ほんの少しだけ力を込める。の顔が、分かりやすく赤くなって、ボクはどんな顔をしたら良いのか、分からなくなってしまう。



「……この木桶を片付けたら、の休憩が終わるまで、一緒に居て」



 さっき彼女に聞かれたときは答えなかったけれど、騎士の間でしたかった調べ物が一通り済んだ今、次の授業までは時間があった。
 の手はボクのものと比べたら、ひんやりして柔らかく、頼りない。傷の一つも無いつるつるとしたそれが、ボクは好きだ。だけど同時に、ちょっと力を入れたら壊れてしまいそうで、怖くなる。
 ほとんど無意識に指を絡めたら、は困ったようにボクの顔を見た。昔は見下ろされてたのに、それはとうに逆転していて、はちょっとだけ、首を持ち上げなくちゃならない。それが嬉しいなんて言ったら、を困らせてしまうかもしれないけれど。



「い、います。いま……しょう」



 動揺を隠せないの返答に、ボクは堪えられなくて、ちょっと笑った。
 振り払われないように、繋いだ手にそっと力を込める。用具置き場までのほんの少しの距離だけど、この子は自分のものだ、って主張することくらい、ゆるしてほしい。


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