テストが終わったら玲王くんのおんぶ。テストが終わったら玲王くんのおんぶ。って呪文みたいに頭の中で繰り返していた私は、舞い上がりすぎてそれがどういうことかをちゃんと想像していなかったのかもしれない。皆瀬さんに「おんぶ!?」ってびっくりされて、それでようやく冷静になったくらいだったから。
「待って待って、おんぶって何?」
「え、お、おんぶだけど……!」
「そういうブランドがあるとかじゃなくて本当におんぶ? あの、背負うやつ?」
「そのおんぶだよ……! ジュエリーブランドONBUとかじゃないよ……!」
おんぶおんぶって言い過ぎて、段々頭がおかしくなってきた。なんだっけこういうの。そう、ゲシュタルト崩壊、ってやつだ。
テスト前の体育の授業って、先生の優しさなのか、結構楽だ。いつもはバレーの試合とか地獄のダンスとかさせられるのに、今日は柔軟と軽いランニングだけでいいんだって。前屈する皆瀬さんの背中を手の平でそっと押しながら(でもそんなことしなくても身体の柔らかい皆瀬さんは平気で額まで床につけられるのだ。かたすぎて上半身が微動だにしない私からしたら驚愕なんだけど)私は「え、ヘンかな……!?」って、皆瀬さんに尋ねる。
「テストのご褒美におんぶはまあ、言っちゃ悪いけど普通じゃないかな……」
「で、でも凪くんはおんぶされてるんだよ……!? 彼女の私がされてないのに……! こんなときじゃなくていつしてもらうの……!?」
「ふ、それ何回聞いても面白いけどさ、何もご褒美になんてしなくても折角だからもっと別なものをおねだりすればよかったのに」
「別のもの……!?」
「デートの約束とか。――ほら、玲王ってずっと部活ばっかで全然出かけたりとかしないんでしょ? 折角人の目を気にしなくても良くなったんだから、今まで行けなかったところとか、行けるじゃない。そういうときじゃないとさん、自分からデートの誘いなんかできないでしょ」
「あ! 確かにそれはそう……! 皆瀬さん天才かも……」
そういえば、玲王くんと行ってみたいお店とかいっぱいあった。人の目を気にしなくていいなら遊園地も行きたかったし、公園にいるリスも見たかった。気になっている映画も三つくらいあった。玲王くんの歌も聞きたかったし(私は聞く専門で)、久しぶりに玲王くんのおうちにもお邪魔させてもらいたかった。それらの選択肢を全部考慮に入れることすらなく選んだのが「おんぶ」って、確かに普通じゃない。しかも冷静に考えたら、おんぶって、めちゃくちゃ密着しない? 体温とか、最悪汗とかもわかっちゃうんじゃない? 体重だって。
――間違えたかもしれない。
今からでも取り返しは聞くだろうか。やっぱりご褒美変えても良い?って聞いてもいいものだろうか。でもなんだかどうにも言い出しにくくて、というのも、玲王くんが妙に私の申し出が面白かったみたいで度々「おんぶな?」って確認してくるから、やっぱりやめてもいいですか、なんて言うのは、空気の読めない人間のすることであるように思えて、できる気がしなかった。そうやって玲王くんに責任を押し付けてはいるものの、だけど実際私自身も、心の底では「玲王くんのおんぶ」がどれだけレアかを分かっているから、撤回するのに二の足を踏んでいたのだ。
だっておんぶされるなんて、玲王くんの前で足を捻るとか怪我をするとかじゃなきゃ叶わない夢だもん。これから先生きててそんな状況に陥ること、そうそうない。
そんな状況でもないのにしょっちゅうおんぶされているらしい凪くんを思うと、やっぱりちょっと、嫉妬めいたものを覚えてしまう。体育の次の授業、隣の席の凪くんをじ、と粘っこい視線で見つめるけど、凪くんは相変わらず気持ちよさそうに眠っているだけだった。
別にもう周りには恋人だってバレてんだから、最悪おんぶくらい誰かに見られたって良いだろって思ってたけど、の方はそうもいかないらしい。「今度一緒に帰るとき、お部屋にあがってください……! 約束のアレはそのときに……」と神妙な顔で言われて、思わず笑った。その言い方だと、なんかいかがわしいことでもするみたいじゃん、とは流石に口にはしなかったけど。
テスト最終日は、部活も軽い練習に留めておいた。別にを待たせてるから、例の約束があるから、とかじゃなくて、部員の負担を考えてではあったんだけどな。俺を待っていてくれたと並んで帰りながら、がいつもと明らかに違う雰囲気を放っているのを察する。リュックサックの肩紐を両手でぎっちり掴むは、歩き方が酷くぎこちないし口数も少なかった。この後のことを想像して身構えているのは、直接聞かなくても分かった。
――にしても、ご褒美が「おんぶ」って。
凪に嫉妬するのまではギリ分かるし、自分にもやってほしい、って思うのもわかる。でもわざわざ日を改めてするってのは発想として面白いよな。しかもそういう肉体的接触を伴うご褒美って、普通男から頼むもんじゃねえの?
と付き合い始めて早一年。手は繋いだし、キスも何度もしている。でもそれ以上のことはまだだ。それが明らかに周りと比べて「遅い」ってのは、勿論理解していた。密室で二人きりになる機会が勉強会以外ではほとんどない、ってのもあったが(の家じゃ下におばさんもいたし、「勉強会」と銘打っている以上、の邪魔をするわけにもいかなかったしな)、だけどそれ以前に、に手を出す気にならなかったのだ。本人にそういう魅力がないってことじゃない。そういうのに疎そうなを俺の欲に付き合わせるのが、どうしても嫌だった。
まあ、つっても今回もそういうことにはならないだろう。の部屋で二人きりつっても、所詮おんぶだ。ちょっと背負ってやって、が満足したらさっさと下ろす。おばさんもいるだろうし、万が一にもそういう空気にはならないだろう。そう思っていたのに。
「あ、そういえば今日お母さんお出かけで、夜までいないんだ」
の家の門扉のあたりで明かされた事実に、「はあ?」って声が出た。おばさんがいないって、結構重要だろ。そんな家に俺をあげて、お前、平気なわけ? 流石に無防備すぎだろ。
でも、こういうのも俺の考えすぎなんだろうな。なんでそんな声を出されたのか分からない、そんな顔でが俺を見上げてくれたことだけが、多分唯一の救いだった。
まあ、ただのおんぶだし、変な空気になることもねえだろ。多分。
お母さんの姿はやっぱりなく、タマはリビングのソファでお昼寝をしていて声をかけても反応がなかったから、今私の部屋は、私と玲王くんの二人きりだ。
リュックサックを下ろして、冷房を入れて、「お茶淹れてくるね」って玲王くんの顔も見ずに部屋を飛び出す。一年もお付き合いしていて、玲王くんが部屋に来るのなんてもう慣れたものでなくちゃおかしいのに、この後のことを考えるとドキドキして仕方なかった。
だって、おんぶ!
自分から所望したはずなのに、あれだけウキウキしていたのに、撤回するタイミングだって本当は何回だってあったのを知っていながらそうしなかったのに、今私ははっきりと怖じ気づいている。だって手を繋ぐのですら未だにドキドキしているのに、おんぶなんていくらなんでも接着面積が大きすぎる。悶々と考えながら冷蔵庫から出したお茶をグラスに注いでいたせいで、なみなみになってしまった。びっくりして、ちょっと流しに捨てた。
玲王くんはでも、全然なんとも思ってないんだろうな。私がこんなに緊張してるなんて知らないんだろう。きっとこの後もいつもと変わらない様子で私に背中を向けて、「ほら、おんぶだろ? 乗れよ」って言う。私は多分まごついて、やっぱりやめる、なんて言い出して、玲王くんは「なんでだよ」って笑うんだ。「御影玲王のおんぶなんて、お前と凪くらいしか味わえねーぞ」って口にして。
私の予想は、概ねその通りだった。「お待たせしました……!」って部屋に戻って、お茶の入ったグラスをテーブルに置いて、それから玲王くんの隣にそろりと腰を下ろした私に、玲王くんは「しねーの? おんぶ」って、何てこと無い風に尋ねたのだ。
「お、おんぶ……?」
「いやなんだよその反応。ご褒美なんだろ? ほら、どーぞ」
「……ッ!」
玲王くんはそう言うと、しゃがんだ状態で私に背中を向けてみせる。その攻撃力の高さといったら、ない。半袖のシャツから伸びた腕は血管が浮き出ていて、太くて、びっくりするくらい逞しかったし、私に向けられた手の平は大きくて、背中なんかタマが十匹は乗れるくらい広かった。「タマ十匹乗れちゃうよ……!」って思わず口にした私に、玲王くんは「いや流石に十匹は無理だろ」って言ったけど。
心臓がバクバクして、頭がぐらぐらする。冷房がついているはずなのに身体がものすごく熱くて、汗でびしゃびしゃになった。
「まって、心の準備ができてません……」
「は? 乗るだけだろ」
「今汗だくなのでシャワー浴びてきてからでいいですか……!」
「馬鹿。ダメ。良いから早くしろって」
「う、うぅ~……! し、失礼します……!」
急かされて、半分自棄になりながら玲王くんの背中に身体をくっつける。でも、ドキドキしすぎて立てなかったから、背中に寄り掛かっただけになってしまった。玲王くんの背中はびっくりするくらい広くて、厚くて、わあ、って思う。わあ、なにこれ。がっしりしてる。こっそり手を添えたら、想像の三倍硬くてびっくりした。男の人の背中だった。
「…………おーい、それだとおんぶできねえけど」
「ま、待って、自分からお願いしてなんなんだけど、ちょっと刺激が強すぎる……」
「はぁ?」
「い、一分待って……!! 色々整えるから……!!」
「はー、じゃあ一分な?」
なんでおんぶ程度でこんなになってしまうんだろう。世の中の恋人たちはもっと色んなことをしているらしいのに。一年も付き合っていて牛歩みたいな進み方しかしてないなんて、リサちゃんが聞いたら卒倒しそう。でも、こんな私にペースを合わせてくれる恋人がいるっていうのは、本当にしあわせだ。それが玲王くんで、すごく、すごくしあわせだ。
玲王くんの背中にそっと手を伸ばして、「ありがとう」って小さく呟いたら、玲王くんが笑いを噛み殺したような声で「はいはい、どういたしまして?」って言った。それだけで私は、どんな魔法を使われるよりも幸福だって思ったのだ。
おんぶされたことは、正直ちゃんと記憶には残ってない。あまりの視界の高さに叫んでしまったのと、あんまり身体がくっつかないように変な姿勢でいたせいで、ちょっと筋が痛かったこと。きゃあきゃあ叫ぶ私を玲王くんが面白がっていたこと。
玲王くんの頭よりも高い位置から見る私の部屋は全部が遠くて、玲王くんの体幹はしっかりしていて絶対そんなことは起きないって分かっていても、落っこちそうで怖かった。「こわいこわいこわい」って連呼する私がうるさかったのか、玲王くんは「はいはい」って私の膝の裏にくっついていた腕の力を緩める。
おんぶしてもらっていたときの記憶は、曖昧だった。背中から下ろしてもらったベッドの上で、「じゃあ俺にもご褒美な」って、玲王くんが私のぐちゃぐちゃになった髪の毛を梳きながら、噛みつくみたいにキスしてくれたことの方が、馬鹿みたいにこびりついていた。
ありありと覚えている。その時の玲王くんの目が、ちゃんと男の人のそれだったのも。びっくりしすぎてベッドにそのまま倒れちゃいそうだった私の背を、玲王くんの腕が支えたことも。いつもはあるお母さんの気配が、全然なかったのも。