学校指定の鞄にぶら下がったリスのマスコットは、尻尾のあたりの糸が解れている。
多分、私が普段から頻繁に触っていたせいだろう。学校で手持ち無沙汰になると――ホームルームとかで、先生が連絡事項を話しているときなんか、大抵そう――机の脇に引っかけた鞄で揺れる、リスのふっくらした尻尾を撫でてしまっていたから。その点を考慮すれば、目立った汚れもなく、チェーンが壊れもしないまま、ずっと鞄にくっついてくれていたっていうのは幸いだったのかもしれない。
ふわふわの尻尾に触れながら、私は窓際の席で突っ伏している男の子のやわらかな髪の毛に光の筋が差し込むのを眺めている。
「凪、聞いてるかー?」
先生が名指しで彼を怒っても、指の先すら動かさず、その子はいつまでもすやすや寝息を立てている。放っておくと(放っておかなくても)、彼は一日中ああして眠っている。授業はちっとも聞いてないし、体育も、ほとんど棒立ちだ。移動教室の時なんか、都度学級委員の男の子が彼を引きずっていかなければならない。中学三年生にしては発育の良い彼は背が高くて、最終的には三人がかりで引きずられたりもしたけれど、やっぱりほとんど眠ってた。凪くんは、変わった男の子だった。
私は彼の声も、目も、あまり知らない。三年間同じクラスにいたけれど、凪くんとの思い出は、薄くてさらさらした風合いの、やわらかい布みたいに頼りない。その布の奥にあるものを知っているのは、私とこのリスだけだ。
綿のたっぷり詰まったリスの尻尾を摘まむ。何も考えて無さそうなその黒い目が、私は一目見たときから好きだった。
中学三年生っていうのは、ほとんどの子にとって、初めての「選択」を迫られることになる時期らしい。
私たちの前には幾本もの道があって、その先にそれぞれの将来がある。道を選ぶのは自分だけれど、その道を閉ざしてしまうのもまた自分だ。明るい未来を引き寄せることができるかどうかは、中学三年生の今にかかっているんだ、って、担任の矢井野先生は常日頃から熱弁する。前から三番目の席に座る私は、先生の髭のそり残しに気付かないふりをしながら、一緒になって拳を握りしめている。
でも、薄々勘づいているのだ。私が選べる道っていうのはもう、今の時点でだいぶ水没したり崩落したりしているにちがいない、って。
学校行事に、テスト勉強、それから受験。要領の良いタイプの人は、全部そつなくこなしてしまうんだろうけれど、私は不器用で、いろんなことが大抵得意じゃなかった。運動会ではすっ転んで捻挫したし、文化祭では絵がなかなか完成しなくて、勉強そっちのけで一週間は居残った。秋、定期テストの勉強を頑張っていたら、周りの皆はもうそんなのとっくにしてなくて、校外模試を受けたり塾に行ったり、受験勉強に本腰を入れていた。それでもテストの順位が上がったわけじゃないんだから、本当に絶望してしまう。私は出遅れていた。何をするにしても要領が悪かった。中学三年生の攻略本があるんなら、誰か譲ってほしいくらいだった。
音楽の成績だけで入れる学校があったら良かったのに、って、ちょっと真剣に考える。歌とかリコーダーのテストだったら、私は結構自信があるんだけどな。だけど、残念ながら高校受験に必要なのは国数英、学校によっては理科と社会。例え通知表の音楽の欄が一年生から三年生までの三年間でオール5だったとしても、受験にはさして影響がないらしい。なんて勿体ない。私の唯一無二の「5」は、音楽科にでも行かない限り、あまり価値がないらしい。
つまり、こんな私が選べる道は、最早一本か二本しか残されていないのだ。そして左右どちらを選んでも、結果はさして変わらない。樹形図みたいににょきにょき伸びた道を持つのは、一部の優秀な、或いは平凡を努力で補った人たちだけである。
「なんか噂で聞いたんだけど、凪、東京の高校に行くらしいよ」
「えっ! そうなの!?」
「あれで案外頭よかったもんねー。意外だけどさ」
移動教室のとき、なんてことないように友達が話すから、私もなんてことないように、「そうだねえ」って言う。でも、本当は内心びっくりしていた。動揺が爪先から滲み出てしまっていたって、おかしくないくらいだった。
だって、そんな(平凡極まりない私から見て)有り得ない道を凪くんが選ぶなんて、考えてもみなかったのだ。他の教科よりも薄い音楽の教科書を、両手で抱きしめながら、そろりと視線を周囲に巡らせる。凪くんの姿は、どこにもない。
別に、そういうのが全然有り得ないわけじゃないっていうのは知っている。物凄く優秀だった吹奏楽部の先輩も、今は東京の私立高校に通っているし。でも、まさか凪くんが。彼が本当はとっても頭が良いってことは、クラスメイトなら誰だって知っている。でも凪くんはもっと省エネっていうか、受動的に生きる人だと思っていた。光合成だけをして過ごす植物みたいに。縁側でぼんやりしてるおじいちゃんみたいに。自分で選ぶことなく、提示されたものを受け取って、消費していくだけの人。
凪くん、東京に行っちゃうんだ。
そう思うと、胸の内側がかさかさと音を立てた。私はありがたいことに、家からちょっと遠い、あんまり偏差値の高くない私立の女子高に入学が決まっていた。こんな私でも通わせてもらえる学校があることにいたく感謝していたけれど、もしかしたら凪くんが受けるんじゃないかなってこっそり思っていた進学校と目と鼻の先にあるその校舎を思い出したとき、その佇まいが何となくくすんでしまったように思えて、自分の浅ましさに、何だか虚しくなった。
無性にリスの尻尾に触りたいけれど、今あの子はここにいない。
羽雲の伸びる卒業式の空は、よく晴れていた。
校長先生の長いお話も、毎年恒例の電報も、生徒会長の答辞も、卒業証書の授与も、全部型に填め込んだみたいなのに、私たちはその型からはみ出して、清々しさと、それから真反対の寂しさに包まれてしまう。
この野暮ったいブレザーを着るのも今日で終わりで、熱心に私たちひとりひとりの受験のことを考えてくれた矢井野先生ともお別れで、ほとんどの友達とはこれから同じ校舎で授業を受けることもなくなる。連絡先は知っている子がほとんどだし、会おうと思えばいくらでも会える。それに、私たちの帰る街はここだ。今生の別れなんかじゃない。まだ先のことになるしちっとも想像できないけど、成人式でだって、私たちはまた会える。同窓会だって、きっとあるだろう。でもどうしても、今日を区切りに、色んな物は変わってしまう。
卒業式の後、お世話になった両親や先生へ、お礼の歌をプレゼントした。私は伴奏を任されていて、とにかく間違えないようにしなくちゃってことに意識を割いていたんだけど、ステージに並んだ女の子達のすすり泣く声にちょっと動揺して、楽譜を捲るときに指先が引っかかってしまった(捲ってくれる人がいないから、ここ、っていうタイミングで上手く捲らないといけないのだ)。
どうにか無理矢理捲って事なきを得たけど、最後までヒヤヒヤしてしまって、感動どころじゃなかった。最後のアルペジオを弾き終えたとき、温かい拍手が体育館いっぱいに響き渡る。女の子どころか、男の子だって目を潤ませている人がいるくらいなのに、私は大きなミスなく終えることができたっていう安堵でいっぱいだった。感動の波に一人取り残されてしまったみたいだった。
「おい、凪、寝るな馬鹿」
そんな声が耳に届いたのは、直後、体育館を退場するときのことだ。
顔を向けると、限界が来たのだろう。凪くんが隣の男子にもたれ掛かっているのが視界に入った。周囲の子たちが何とか凪くんを立たせて、引きずるように歩き出す光景を、私は古びたグラウンドピアノの前から見送っていた。壁に間断なく貼られた紅白の幕の中、覚束ない足取りで歩く凪くんは、そのままもう、どこかに消えてしまいそうに見えた。
三年間、何度も見た姿だ。凪くんは私の視界の真ん中でいつも、ふらふら歩くか、うとうと眠っていた。何もかもに拘泥しない、仙人みたいに見えた。時折その目が開いているのを見たときは、いつも胸がほこほこした。正面から見据えることなんて一度もなかったけど、私にとって凪くんは横顔の人だったから、それで良かった。
もう絶対、二度と見られないんだろうなって思ったら、今日初めて、鼻の奥が痛んだ。立てかけたままの楽譜を取って、綺麗に折りたたむ。さっき無理矢理捲ったせいで、終盤の楽譜は、傷んで折れている。
凪くんが東京に行ってしまうなら、私たちは、もう会うことはないだろう。
東京の学校に通うんだったら、きっと先輩一家がそうしたみたいに凪くんは家族でこの街を出るだろうし、そうなれば春から高校の登下校で同じ電車に乗ることなんかない。街中でばったり会うこともきっとない。私と凪くんを繋いでいたクラスメイトっていう細い線は、卒業っていうイベントを経てしまえば、地面に落ちた雪みたいにあっという間に消えてしまう。
最後なんだ、って思った。
卒業式の後、教室で最後の、短いホームルームがあった。矢井野先生が声を震わせながらお別れの挨拶をするのに、やっぱり皆、つられて泣いてしまう。でも、私は窓際の席に座る凪くんのことを見ていた。凪くんは珍しく身体を起こして、窓の外を見ていた。薄く伸びた白い雲。その奥に広がる、私たちの生まれた街。その目が不意に、前方に戻されたとき、私は、凪くんだ、って、当たり前のことを思った。長い前髪、ぼんやりした目元、きれいな鼻筋。凪くんだ。同じクラスの、凪誠士郎くんだ。三年前にも思ったことを、また、巻き戻すみたいに思う。
机の脇にぶらさがったリスのマスコットに、祈るみたいに触った。ふわふわの尻尾。何も考えていなそうな、ぼんやりした目。この子に一目惚れしたのは、三年前、街の片隅にある、ゲームセンターだった。
小さなクレーンゲームの筐体に寝っ転がるこの子は、世界中のどのぬいぐるみよりも可愛く見えた。綿でぱんぱんになった尻尾に触ってみたかった。遠くを見るその目が、何よりも愛らしかった。どうしても欲しくて、どれだけお金をつぎ込んだだろう。粘って粘って、だけど小銭はあっという間になくなった。中学生のなけなしのお小遣いは、吸い込まれるみたいに消えて行くだけだった。
財布の中身を見て、お札が一枚だけ残っているのを確認した。迷って、だけどもうちょっとで取れるような気がして、それで思いきって両替をしに行ったのだ。まさか戻って来たときに、そのクレーンゲームをやっている人がいるなんて思わなくて。
「あっ」
短く声をあげたのは、それが、同じクラスの男の子だったからだし、何回挑戦しても、持ち上げたタイミングで爪からぽろりと落ちてしまっていたリスのマスコットが、そのままがっしりホールドされているのを見たからでもあった。
あ、ああ、ああ……!
それが声に出ていたのか、どうにか抑えることができていたのかは、全然わからない。でも、果たしてリスのマスコットは、そのまま落下口まで丁寧に運ばれた。ころんと転がりでてきたそれは見るからに健康そうに太っていて、目はやっぱり、何も考えていないみたいに黒々としていた。やっぱりすごく可愛い! って気持ちと、そんな……! って気持ちが交互に襲ってきて、私はそのとき、酷い顔をしていたと思う。でも、男の子は――凪くんは、それを私の前に差し出して言ったのだ。
「さっきからずっとやってるからどんだけ難しいのかと思ったけど、別に難しくもないじゃん」
凪くんの声は、ゲームセンターのけばけばした光と雑音に飲み込まれることもないまま、真っ直ぐ私に届いた。
「全然いらないし、あげる」
手の平に転がったリスは、私が思っていたのの五倍はふわふわで、私はそれを眺めながら、「え」って、短く口にする。ぽかんと口を開けたまま、その時私は思考した。私が決して踏み込むことのない、オンライン対戦のできるゲーム機がある方に向かおうとする凪くんに、我に返って「お金ッ!」と声をかけられたのは、及第点だったと思う。でも凪くんは首をちょこっとだけ振り向かせて、「いらない。取りたかっただけだし。取れたし」って言うと、そのまま行ってしまった。いつも授業中、ほとんど机に突っ伏しているその人の声を、私は初めてちゃんと聞いたなって、その背を見送りながら思った。
中学一年生の、五月のことだった。
以来私の鞄には、ずっとリスがぶら下がっている。事あるごとにその手触りを確認するから、尻尾の糸は解れているし、目立った汚れはなくても、さすがにちょっと草臥れている。結構存在感があるから、皆の鞄をひとまとめにしていても、私のがどれかすぐに見分けることができた。リスはいつも、ぼんやりした顔で私の隣にいてくれた。
「――よし! それじゃあ、お前達、元気でな!」
最後のホームルームを先生が締めた直後、皆が一斉に席を立つ。先生のところに行く人、卒業アルバムの白紙のところに寄せ書きを書いて貰おうと周囲に声をかける人、写真を撮る人。長引くのが分かっているから、おうちの人たちは皆、式の後には帰っていたし、実際にすぐに教室を出ようなんて人はいなかった。凪くん以外は。
凪くんは学校指定の――私のと違って、何もぶら下がってない――鞄に卒業証書の筒を押し込んで、そのまま一人、廊下に向かって歩いて行く。友達に名前を呼ばれていたのに、凪くんのその背を追いかけてしまったのは、私がもう、二度と凪くんと会えなくなるって知っていたからだ。
本当は、矢井野先生にお礼を言いたかった。友達と卒業の余韻に浸ったまま話をしたかったし、春休みに買い物に行く予定についても詰めたかった。仲の良いグループで写真も撮りたかった。寄せ書き、したかったし、してほしかった。その全てを丁寧に天秤に乗せて測った上でこれを選択したわけじゃない。でも、動いてしまったのだ。もう、行くしかない。
赤いリノリウムの廊下は、つやつやしていた。埃にもならない塵が、光の粒みたいに舞っていた。私たちの教室は階段に一番近くて、だから、凪くんの姿はそのまま、階段の方に消えてしまう。いつも重たい身体を引きずるみたいに歩いているのに、帰るときだけ、凪くんはびっくりするくらいに俊敏だ。
「まっ……」
待って、って声が、喉に引っかかる。私の背の方では、色んなクラスのざわめきが、一塊になって押し寄せてくるみたいだった。隣の教室からだろう。泣き虫な誰かの号泣、ひょうきんな男の子の公開告白、囃し立てる声、そういうの、全部、私とは切り離された別の世界のことみたい。足がもつれて、転びそうになる。手に抱えたままの卒業証書の筒に力を入れて、手すりから身を乗り出す。凪くんだけが今、私の世界にいる。
「凪くん!」
階段の下の方で、凪くんが、足を止めた。
首が持ち上げられて、眠たげな双眸が私を捉える。「あ」って、意図したものというよりは、ほとんど無意識に漏れたみたいな、掠れた声がその口から漏れる。
心臓が口から出てしまいそうだった。物凄い勢いで血が身体中を巡って、手足が震えた。色素の薄い髪が、窓から入ってくる風にふわふわと揺れている。そのふわふわを視界の端に入れながら、「帰るなら、一緒に、帰りませんか」って、どうにか振り絞るみたいに声にした。こんな大胆なことができたのは、今日が最後だからだ。もし断られたり、嫌な顔をされたりしたら、忘れれば良いだけの話だから。もう私たちは、これで二度と会うことはないだろうから、って。――本当に傷を残さないままでいられるかは、別として。
凪くんは眉の一つも動かさなかった。首を振るでも、顔を顰めるでもなく、沈黙と呼ぶには短すぎる間をあけて、「別にいいけど」って、微かに首を傾げて、抑揚のない声で言うだけだった。
凪くんの家と私の家は、途中までは方向が一緒だ。学校から街の大通りに出たら、左右に分かれるだけ。でも、そこまでが案外距離があるのだ。よく手入れのされた並木が、風に吹かれてかさかさ音を立てている。外観からだけではどういった業種なのか分からない小さな会社に、車が一台入っていく。いつもは気にならないいろんなことが、思考に浅い傷をつけるみたいに、私の前に落ちていく。
鞄を背負いながら、私は凪くんの隣を、肩身を狭くして歩いている。最後に話がしたくて勇気を出して誘ったっていうのに、私は凪くんと過ごす時間を、ただ徒に垂れ流しているだけだ。
卒業式に相応しい、あたたかな陽光の、長閑な日だった。私たちの影は短くて、実際の身長差を如実には表さない。このリスを取って貰ったときは、もっと目線が近かった気がするのに。
凪くんは、これからまだ背が伸びるのかな。私はもう止まっちゃったけど。東京に行って、いろんなものを見て、私の知らないところで勉強をして、友達を作って、でもやっぱり、どこか仙人みたいに暮らすのかな。知らない間に私たちの目線の高さは、もっともっと離れていくのかな。全然想像がつかないや。
ちらりと隣を見て、ぎょっとした。凪くんはスマホを弄りながら歩いていたのだ。何となく視界に入った画面から察するに、ゲームをしているみたいだった。ショック、って言うほどのショックはない。ただどちらかというと、気が抜けた。緊張しているのが馬鹿みたいって思えたから。
「あの」って、私がずっと胸の奥で丸め続けていた言葉を口にできたのは、だからだ。
「……凪くん、東京に行くんだよね」
凪くんの瞳は、こちらに向かない。目線はスマホに落ちているのに、電柱も、郵便ポストも通行人も、彼は器用に避けていく。
「――ん、そう。東京。寮に入る予定」
「え、寮なんだ! じゃあたまに帰ってきたり……」
「しない。めんどくさい」
そう言ってから、凪くんは初めてこちらを、ううん、私の制服の胸元にあるネームプレートを一瞥した。どうやら私の名前に自信が持てなかったらしい。なんて凪くんらしいんだろう。帰ってこない、ってことと、三年間クラスが一緒だったのに、名前も覚えてもらっていないのか、ってことに分かりやすくショックを受けてしまったけれど、「さん――は、高校どこ」って、初めて発音する言葉みたいに、たどたどしく口にする凪くんに、ちょっとだけ笑いそうになってしまった。
「私は、東咲だよ」
「あー、東咲……ヒガジョ……? だっけ」
「そうそう、ヒガジョ」
「ふーん。さんは音楽科とかそういうとこに行くんだと思ってた」
鸚鵡返しのしあいっことはいえ、会話が続いていることにちょっと安堵した瞬間だったから、凪くんが顔をあげて言ったそれに、私は弾かれたように顔をあげた。
「え」って声が漏れる。スマホに目線を戻した凪くんが「あ、死んだ」って言うのとそれはほとんど同時で、私は飲み込まれてしまったその声に、なんて続けたらいいのか分からない。
凪くんは、スマホをポケットにしまう。車の排気音が耳につく。大通りはもう、目の前だ。
スマホを手放した凪くんは、今度こそきちんと私の顔を見た。私にリスをくれたときみたいに、踏み込むのに何の躊躇もない目だった。
「ピアノ弾けるし」
なんか、うまいじゃん。
って。
私はそれに、今度こそ殴られたみたいに思ったのだ。
制服に縫い付けられたネームプレートを見なければ私の名前に確証が持てないくらいだったのに、彼の中で私は、音楽科に進んでもおかしくないくらいにピアノが弾ける人らしい。でも本当は、全然そんなことない。うちの学年が偶々ピアノを弾ける人が私以外にいないから、だから私が伴奏を引き受けているだけ。ピアノなんかもうずっと前に辞めているし、音楽科に行くっていう道も、だからとうに土砂に埋もれていた。
「……そう、かなあ」
でも、凪くんが言ってくれるんだったら、それもありだったのかもしれないなって思ってしまうのだ。私は、びっくりするくらい単純だから。
胸の内側が、妙にほこほこしていた。自分でも理由はよくわからなかった。けれどこんなにふわふわした気持ちになっていても、大通りに出れば、私と凪くんは、左右に分かれて家路につくことになる。その先で会うことは、きっともうないんだろう。あと50メートル、30メートル、10メートル。「あの」って、口を開いたのは、あの日言えなかったお礼を言わなければって気がついたからだ。私は今ここで、凪くんと、後悔のないお別れをしなくてはならなかった。前髪の下で、凪くんの瞳がゆっくりと瞬く。
背負っていた鞄を傾けた。凪くんの位置からよく見えるように角度を変えて、三年間ここにぶら下がっていたリスを示す。
「凪くん。これ、ありがとう。昔凪くんに取って貰ったこの子、宝物だよ。……これからも、ずっと大事にする」
凪くんは、そう言う私に、表情を少しも変えなかった。どこか眠たげな目をしたまま、その唇を微かに動かしたくらいで。
私は凪くんが何か口にするよりも早く、「じゃあ、ばいばい。元気でね」って、手を振って、踵を返した。凪くんは私を呼び止めなかったし、私も振り返らなかった。急に人通りの多くなった歩道を歩きながら、私は顎を持ち上げる。電線に、名前の知らない鳥がたくさん止まっているのを見る。何羽いるのか、もう全然数えられる気がしない。
凪くんは多分、三年前のことなんて覚えてない。ゲームセンターで私がこの子をなかなか取れずにいたことも、見かねた凪くんが一回でこれを取ってくれたことだって、覚えてない。
色んな事を、そして凪くんは忘れるんだろう。今さっき口にした私の名前も、こうして一緒に帰ったことも、私のピアノをうまいなって思っていてくれたことも、全部忘れて、私は凪くんの一部にも残らないまま、水みたいに流れて消えていく。でも、それが当たり前だった。後生大事にリスを抱えて、その尻尾に触れて、いつまでもあの日の凪くんの横顔を大事にしている私の方が、圧倒的に不健全だった。
一歩を大きく踏み出せば、鞄の脇で、リスが揺れる。高校で使う鞄には、私は何か、別の目印をつけるだろう。この子は私以外の誰の目にも触れさせることなく、私の部屋の片隅に置いておく。
「凪くん」
真横を通り過ぎるバイクの音に紛れるように、彼の名前を呼ぶ。春の陽に目を閉じる。瞼の裏には、いつも凪くんの影がある。私は多分、凪くんのことが好きだった。もう会えなくなる男の子のことを好きになるのは、なんだかどうしようもないことみたいだったけど、それでも私は、私から遠い凪くんが好きだった。