息を切らして無人の教室に飛び込んだ。バス停から走り続けたせいで、動悸と汗がすごい。もう肌寒い季節だっていうのに、額はじっとり汗ばんでいた。本当はお茶を飲みたいけど。一回座らせてほしいけれど。でもそれどころじゃない。急がなくちゃ。今からだったら、きっとまだなんとかなる。
誰もいないのを良いことに勢いそのままにその場で制服を脱ぎ、被ったジャージから頭を出したその瞬間。だけど、不意に「お」って声が耳に入って、心臓が止まるかと思った。ほとんど悲鳴をあげる寸前だった。だって私、自分のことでいっぱいいっぱいだったから。
壁の時計は朝の九時。隣の教室からは先生の声が漏れ聞こえていて、学校全体が授業中の、ある種独特な空気に包まれているのに、この教室だけはそうじゃない。天井の蛍光灯は消えていて、窓から差し込む光だけが室内を照らしていた。壁一枚隔てた先から聞こえる、英文を読み上げる先生の声や、誰かのくしゃみや咳払いの音だけがそこにあるはずだった。私たちのクラスは一時間目のこの時間、体育の授業中だったから。
私が体育館の近くにある更衣室じゃなくて教室で着替えを済ませていたのは、時間を節約するためだった。だって、更衣室に立ち寄る時間すら惜しかったのだ。授業が終わるまで、この教室は無人だって思い込んでいたから。――だけど、そうじゃなかったから、私は今肝を冷やしている。話をしたことがない男子よりも、二人きりにさせられるとずっと困ってしまう相手を目の前に、はっきりと動揺している。
今やってきたと思われる制服姿のその人は教室の入り口で、真っ直ぐ私のことを見ていた。
昔から変わらない、目付きの良くない、大きな瞳で。
「珍しいな。も遅刻か?」
奇遇、奇遇。
表情を変えずに教室に足を踏み入れたのは、黒名蘭世。彼は私の、幼馴染みだった。
「ら」
蘭くん。
そう言いかけて、空気ごと大きく息を吸い込む。それから誤魔化すように、咳払いをした。瞬間、彼が担いでいた肩掛けの大きなスポーツバッグが、どさりと音を立てて机に置かれる。いつの頃からか結んでいる、顔の左側に垂れ下がった三つ編みが、微かに揺れていた。
――危なかった。あと十秒遅かったら、思いっきりお腹を見られるところだった。ヒヤヒヤしながら、「お、おはよう」とだけ口にする私に、蘭くん、いや、黒名くん、は、「ん、はよ」と短く言う。私と違って、あんまり急いでいないみたいで、私は益々どうしたらいいか分からなくなる。
同じ高校に入学が決まった、ってだけならまだしも、クラスまで一緒って知ったときは、びっくりするよりも、ちょっと困った。だって私は中学のときから既に、黒名くんとの関係性を持て余していたのだ。異性の幼馴染みって、どうしても難しい。蘭くん、って呼んだだけで、クラスの男子にからかわれるくらいだったんだもん。私が距離を置いても、だけど、黒名くんはあんまり変わらなかった。昔のように私をって呼んだし、私みたいに、分かりやすく距離を置こうともしなかった。
だから私は、余計に困ってしまうのだ。聞きたいことを言葉にすることにすら、迷ってしまって。
そしてそれは実際、現在進行形で「そう」だった。どうしてのんびりしているんだろう。私は黒名くんが、全然急ぐ様子がないことに、ちょっと動揺している。だって、私は今、一分一秒でも惜しいから。
もしかして、男子は体育、あんまり厳しくないのだろうか。
女子の体育の先生は鬼教官みたいな人で、休んだ授業数、遅刻した時間に比例して、長期休暇に特別授業をするようなタイプだった。だから寝坊で遅刻が確定したとき、世界の終わりみたいな気持ちになってしまったのだ。
せめてちょっとでも抗おうと、着替えを済ませたらさっさと体育館に行くつもりだった。実際黒名くんが来るのがあと一分遅くて、私の着替えが完了していたら、私はもう「先に行ってるね!」って教室を出ていたはずだ。けれど私はまだ、下半身は制服のスカートのままだった。先にジャージを穿いて、それからスカートを脱いでしまえば問題ないとは言え、流石に黒名くんと二人きりの教室で着替えるには抵抗がある。いくら、昔は子供用のプールに一緒に放り込まれていたとしても。一緒にお昼寝をした仲だったとしても。
だって私たちはもう、高校生なんだから。
「――さっき自転車のチェーンがいきなり外れてさ。惨事、惨事」
そうなると、やっぱり更衣室まで行っちゃった方が良いのかもしれない。そんなことを考えていたときに言われたものだから、「へぁ、そうなんだ!」って、変な相槌が口から出てしまった。誤魔化すように、「大変だったねぇ……!」って続ける。ジャージの下を抱えて、教室の出入り口をちらりと見る。
兎に角、一分でも一秒でも惜しい。さっさと着替えて、早く体育館に行かなくちゃ。この格好のまま校内を歩くのは(自業自得とは言え)恥ずかしいけれど。ああ、それと着替えたら、髪も結ばなくちゃいけない――そう考えて、はっとした。
「髪!」
そうだ、今日、櫛をちょっと通したくらいで、そのままで来ちゃったんだ!
嫌な予感に、焦って両手の手首を探る。運良くゴムがつけっぱなしのままだったりしないかと思ったけれど、そんなことはなかった。鞄を探して、ポーチを開く。リップとか、絆創膏とか、ヘアピンとかハンドクリームとか痛み止めの薬は出てくるのに、肝心のゴムがない。
さあっと血の気が引いていく。遅刻して、その上髪まで下ろしていったら、皆の前で怒鳴られちゃうかもしれない。鬼教官先生は、そういうのにも物凄く厳しいのだ。今時珍しいくらい。動揺とショックで、思考が停止してしまった。黒名くんがいることも、その時ばかりはすっかり忘れてしまっていたくらいだった。
「――髪?」
だから、尋ねられたとき、心臓が物凄く大きな音を立てたのだ。
視線を上げる。黒名くんは、不思議そうな顔で私を見つめている。説明しようか、誤魔化そうか、少し考えて、私は結局「ゴム、忘れちゃった……」って、小さく呟いた。ああ、って、黒名くんが短く呟く。返事と独り言の、丁度あわいのような声音でもって。
「そういえば女子って、皆髪結んでたな。体育の時」
「うん、そうなの。先生がすごく厳しくて……。髪の毛の長い子は結ばないといけないの」
遅刻もして、髪もこのままで行っちゃったら、怒られそう……。
半分諦めながらもそう説明する。もういっそ、一時間目は諦めようかなあ。どうせ怒られるんだったら、最初から行かない方がまだいいかも。でも、朝起きてからここまで、すっごくすっごく頑張ったのに。それに今からだったら半分以上は授業を受けられるし、それだったら少なくとも出席扱いにはしてもらえる。怒られることは間違いなくても。
「もう仕方ないから、遅刻と髪の毛、二つとも怒られてくる……」
私がそう言い終わるか終わらないかのときだった。黒名くんが、顔の横で結んでいた三つ編みのゴムを、逡巡もなくその指で取ったのは。
私たちの席は、壁側と窓側で、丁度対角線を成していた。今は無人の席を、黒名くんは迷うことない足取りで進む。窓から伸びた光を、黒名くんの爪先が踏む。
「これ使え」
そう言って、黒名くんはゴムを私に差し出す。私が手の平を向けるまで、ずっとそのままでいる。
考えるよりも先に、ほとんど反射で手を出した私に、黒名くんはゴムを落とした。指先が手の平に少しだけ触れて、びっくりした。昔よりもずっと、冷たい指だったから。
「あんまでかいゴムじゃないし、それでの髪、まとめきれるかわからんけど」
「あ、あの気持ちは嬉しいけど……でもそれじゃ……黒名くん、の髪が」
「俺のはいらん、いらん。後で返してもらえたら、それで良い」
「ほ、ほんとに……?」
「ん、ほんとに」
そろりと視線を上げる。黒名くんの髪は、解いた所がまだ、三つ編みの名残を残すように、微かにうねっていた。今もずっとサッカーを続けている彼は、極端に髪を伸ばしているわけじゃない。解かれた、いつもは三つ編みにされている部分の髪だけが、他と比べて長く耳のあたりに垂れていた。微かに伏せられた睫毛が、私の背中から注ぐ光を受けて、瞬いていた。それがすごく、綺麗だった。
呆けた私に、黒名くんは緩く笑う。「結ばないのか? 髪」冗談交じりに、口にする。
「――三つ編みだったら、俺、してやれるけど」
細められたそれに、ひ、って悲鳴を漏らさないで、どうしていられただろう。
ぎゅ、って胸が締め付けられて、頬が一気に熱を持つ。いつもよりも近いその目に、昔を思い出す。三軒隣の幼馴染み、いつもボールを蹴っていた、蘭くん。近所の子供たちの中で私を相手にするときだけ、加減してボールを蹴っていてくれていたのを、私は今も覚えている。
「い、いいよ、自分で結べるもん、なんでそんなへんなこと言うの、蘭くん」
びっくりしすぎて、そう口にしてしまった。それはもう、ほとんど無意識だった。十余年の、私にできた染みのようなものだった。蘭くん、って、口から滑った言葉は、私たち以外無人の教室に、滲むように溶けていく。
思わず口を手で押さえた。だけど、それよりも、ふは、って、彼が笑う方が早い。顔を上げる。前髪の下、蘭くんの短い眉尻が、微かに下がる。ギザギザの尖った歯が、その口から覗く。
「久しぶりににそう呼ばれた」
蘭くんが、昔みたいに緩く口角を上げる。くすぐったそうに。「なつい、なつい」って。
殴られた、っていうよりは、もっとずっと柔らかい衝撃だった。色んな音とか、空気の匂い、手の平にあるゴムの感触が全部遠くなって、私は目の前の蘭くんに、ありとあらゆる五感を奪われしまったような気すらしている。胸の鼓動だけが私の耳を支配している。
細められた蘭くんの目が、ゆっくり開く。「でも、誰もいないからって、女子が教室で着替えるもんじゃないぞ。……危険、危険」目線が私の、まだ制服のままの下半身に落ちたのを見て、私は今度こそ泣きたくなってしまったけれど。
上手く息ができなくて、困る。蘭くんの、昔よりもごつごつした指は、もうすっかり男の人のものだった。どうしたらいいのかわからなくて、蘭くんがくれたゴムを手の平で包む。私はかつて、蘭くんが好きだったことを思い出していた。胸に灯った仄かな熱は、それが本当は、今もずっと続く思いだったっていうのを、私に思い知らせているみたいだった。