その日私は酷くくさくさしていた。
 落ち込みと苛立ちが混ざり合ってどうにもならなくて、昇降口まで続く階段を、一段飛ばしで駆け下りた。私が今し方威勢良く閉めた扉の奥からは、誰も追いかけてくる様子がなかった。今の私にはそれが救いだったかどうかも、わからなかった。
 夏休みの校舎は人気が少なくて、遠く離れた体育館の方角からは笑い声が聞こえていた。のっぺりとしたリノリウムの廊下は私の足音をちっとも吸い込んではくれず、笑い声は私の靴の裏に踏み潰されていった。それでもイライラは収まらなかった。色んなことが許せなくなっていたのだ。爪の間に挟まったまま固まって一向に取れない絵の具も、口出しばっかりしてくる先生も、むっとするような夏の暑さも、首筋にかく汗も、乾いた口の中も、私よりずっと才能のある後輩も、晴れてばっかりの空も、あの子の目の先にある絵も、何もかも。日々の細やかな鬱憤がいつの間にか堆く積み上がって、私はそれをもう、上手く処理できなくなっていた。もうちょっと子供だったら、声をあげて泣いていたかもしれないくらいには。
 自分がやっていることは無駄なのかもしれないと薄々思っていたのに蓋をして、キャンバスだけを見ていたのに、焦りが芽生えはじめたのはいつからだっただろう。絵の具を出すときにどうしても視界に映る私よりもずっと汚れた手が引力を持って、私の目をそこに導いてしまう。あの子は紺碧の空に散りばめられた星そのものだ。天才の存在は、凡人の閉めた蓋を開け、心を簡単に折る。
 才能があったってどうにもならない世界で、才能がないと知りながらもプライドだけで泳ぎ切ろうとする私は傍から見たら滑稽だ。辞めるなら今だ。文字通り筆を折るなら、今だ。もう辞めますって、それに、私言ってきちゃったじゃない。
 やっぱり終わりにしよう。帰りに本屋さんに寄って、封筒を買おう。形だけは立派な退部届を出そう。二度とあの美しい色をみなくてすむように。今だったらまだやり直しがきく。なにって、そう、人生の。
 蟻生くんの後ろ姿を見たのは、そんな日の、昇降口だった。革靴(合皮ではなく本物の皮のように見えるのは、彼が全体的に洗練されているせいだろうか。刻まれた皺は、骨董品みたいに品がある)に履き替えていた彼は、ガツガツと大股で歩いてきた私を、そんなことしなければいいのに、首だけで振り返った。
 それで、目がバッチリ合ってしまったのだ。
 びっくりした。夏休みの直中である今、頻繁に学校に来ても、顔を合わせるのはうちの部活の子とか、吹奏楽部の子とか、運動部の――体育館で活動するような子とか、決まったメンバーだけだったから。サッカー部の蟻生くんの姿は、美術室の窓からしか見たことなかった。私にとって彼は、今ここにいるわけがない人だったのだ。



「――あっ」



 口から漏れたそれは、本当は「蟻生くん」の「あ」だったんだけど、残りの全部(りゅうくん)を飲み込む。今の「あ」は感嘆詞、ってことにどうにかなってほしくて、慌てて会釈をした。蟻生くんはその形の良い切れ長の目を私の方に向けたまま、微かに首を傾げるような仕草をする。
 蟻生くんの長い手足は、いつもの制服に包まれていた。部活じゃなくて、学校に用事があったんだろう。教室に取りに来たいものでもあったのか、先生に用事があったのか。そういうのをさらっと尋ねることができるほど、私は彼と親しくはしていなかった。
 蟻生くんは同じクラスの、サッカー部の男の子だ。背がすらっと高くて、手入れされた長い髪も顔立ちも美しい。言葉選びが独特なせいもあってか何をするにも目立つ人で、いつだってクラスの中心に居て、私とは住む世界の違う男の子。偶々交わった唯一の接点がここで、卒業したら、二度と関わりにならないだろう人。だって彼にこの地は似合わない。
 嫌な汗を背中に感じながら、蟻生くんのものとは違って悪い意味で草臥れているローファーを下駄箱から取り出して、丁寧に床に置く。気まずい。すごく気まずい。だって私、誰もいないと思って、そこの角を曲がる直前に「あーッ!」って叫ぶみたいに唸っちゃったし。大股で、ガツガツ大きな音を立ててここまで歩いて来ちゃったし。まさか夏休みの、こんな中途半端な時間に誰かいるなんて、思うわけない。しかもそれが同じクラスの蟻生くんだなんて。――なんて運が悪いんだろう。
 靴を履き替えて、後は蟻生くんの横を「じゃあ……」っておざなりな挨拶をして通り過ぎるだけの予定だった。それで、後で悶えるつもりだったのだ。どうか蟻生くんが忘れてくれますように、なかったことにしてくれますように、って、居もしない神様に祈るつもりだった。だけど。



「――美術部の帰りか? 



 でも、蟻生くんはいきなり、私の名前を呼んでそう尋ねたのだ。
 びっくりして、「えっ」って声をあげてしまった。だって、話をしたことは愚か、名前を呼ばれたのも初めてだったから。美術部に入っているなんてこと、彼に知られているわけないって思っていたから。
 見上げた蟻生くんは、真っ直ぐ私を見下ろしていた。足を止めてしまったのだ。適当に返事をして、そうだよって言えばよかったのに。だけど、もう辞めますって、さっき口にしたばかりの言葉が、まだ舌の上に乗っていた。消化しきれていなかったそれは、呼吸をしようとした私の喉から、喘ぐような音になって漏れてしまう。それがあんまりにも醜い音だったから、慌てて口を押さえた。その結果涙がぼろって落ちてくるなんて、想定していなかったのだ。



「うえ」



 ああ、ごめん。ごめんね蟻生くん。うっかり私に声をかけたばっかりに、困惑させる形になってしまって。タイミングが悪かった。私にとっても、蟻生くんにとっても。そうじゃなかったら私たち、きっと一度も関わり合うことのないまま、来年の春にはこの細い線を断ち切れただろうに。
 もう少し子供だったらきっと声をあげて泣いていた――なんてさっきの私は思っていたけれど、そんなの嘘だった。一度決壊した涙腺はもう簡単には戻ってくれなくて、私はよりにもよってこれまで一度も話したことのなかった蟻生くんの前でめちゃくちゃ声をあげて泣いたし、それは全然止まる気配がなかった。
 爪の間には今も絵の具がこびりついていた。汗で首にはりついた髪は、手入れをサボっているせいか枝毛が散見されていた。夏休みの、私たちの他に誰も姿の見えない昇降口は、窓から差し込む日差しばっかりが強くて、痛いくらいだった。
 突然の、ほぼ関わりの無いクラスメイトの号泣に彼は狼狽したろうに、蟻生くんは逃げ出すことなく、私が落ち着くまでの間、言葉少なにじっと隣に立ってくれていた。その表情を見る余裕は私にはなかったけれど、私はそうして見守ってくれる蟻生くんのことを、なんて優しい男の子なんだろうと思った。








 私たちの通う後光高校には昇降口のすぐ傍に自動販売機コーナーがあって、外よりも十円、二十円ばかり安い価格で飲み物が買える。いつもは生徒の姿がちらほら見られるのに、夏休みの今、そこには誰もいなかった。
 蟻生くんは、ベンチに座った私にそこで買ったお茶を差し出す。結露で湿った表面が指先に触れて、心臓が跳ねた。「あ、ありがとう。その、お金……」って財布を出そうとしたのに、蟻生くんは「この状況で受け取るのは俺のオシャ道に反する」って言って、首を振った。オシャ道。たまに蟻生くんの口から聞くその言葉に、こんなときなのに、笑ってしまいそうになる。あと、俺、って言った後、ちょっとだけ独特なタメを作るのにも。



「じゃあ、いただきます。……ありがとう。なんか、今度お礼、するね」

「気にするな。あのまま帰すわけにもいかなかったし、当たり前のことをしたまでだ」



 蟻生くんはそう短く答えると、私の隣に腰を下ろした。長い足が視界に入り込む。突然狂ったように泣き出した女子に飲み物を奢ることが当たり前――そう言える彼は、やっぱり優しい人だ。
 くさくさしていた、ささくれどころか棘だらけだった私の心が、少しずつ丸くなっていく。申し訳なさとありがたさと、ちょっとの後悔らしきものが胸の中でぽつぽつ浮かんで、消えずに残る。緑茶の苦みが舌に残るのを紛らわすように、ここからは見えない美術室の窓を思い浮かべた。私が飛び出した部室で、あの子の絵は今も燦然と輝いている。それが、羨ましい。



「さっき、ごめんね、泣いちゃって。びっくりさせたよね、ほんとに、ごめんなさい」



 蟻生くんは緩く首を振る。私の物とは違う艶やかな長い髪が、冗談みたいにさらさらと肩の上を流れていた。綺麗だった。画面越しにいる人だったら、ずっとそれだけを目で追いかけていたかもしれなかった。言葉を探す。少し迷うように視線を彷徨わせて、だけど、すぐに口にしてしまう。



「実は私、もう部活、辞めようと思ってて」



 きついくらいにペットボトルの蓋を閉め直しながら、なるべく何てことの無いように口にしたのは、感情が昂ぶらないようにするためだった。
 誓って言うけれど、別に蟻生くんが私にどうして泣いたのかを尋ねたわけではない。気にするそぶりを見せたわけでもない。私はただ自分にそうする義務があると思ったのだ。もしもそんなの、全く興味がないって蟻生くんが思っていたとしたら、それはとても申し訳ないことだけど。
 でも、蟻生くんは私の隣で、じっと話を聞いていてくれた。「どうして」ってその目が問いかけるように動いた気がしたから、「才能なくて」って、どうにか笑った。こんな風に絵と何の関係もない人の前だったら、私はいくらでも自分を貶められた。



「ほんとは美大、行きたかったの。でも全然だめ。後輩の方がずっと上手いし、才能ある。私が描きたかったもの、それ以上の絵、なんでも描けちゃう。――尊敬してるのに、一緒に居ると、息苦しくてたまらない」



 蟻生くんは何も言わない。仏様みたいに。



「人の才能に嫉妬する私は、多分絵を描くのに向いてないんだよ。だったらもうここで辞めた方がいい。……それでもう辞めますって、部室飛び出してきちゃった。蟻生くんに会ったの、その直後だったから、イライラしてて、悲しくて、それで……泣いちゃった。――ごめんね、蟻生くんのこと、巻き込んじゃって」

「――放下着」

「? ほうげじゃく?」



 不意に蟻生くんの口から零れた言葉に、思わず彼を見て首を傾げる。蟻生くんは真っ直ぐ私を見つめていたから、思わず胸が鳴った。



「放下着。――仏教の教えの一つだ。執着を捨て、心を整えることで自分を救う」

「……蟻生くんのおうちって、お寺?」

「いや。……ただ中学のときに仏の道を目指したことはある」

「えっそうなんだ、すごい」

「過去の自分と向き合おうとしたとき、仏は俺に道を示してくれた。……だが仏の教えでは、今のはきっと救えないな」

「え?」



 蟻生くんは、サッカー部。
 背が高くて、髪が長くて、どこにいても目を引く人。同じ教室にいても、彼だけが別の世界の人みたいに見えていた。県内でも強豪のサッカー部を全国大会に導く立役者で、生徒からも先生からも信頼が厚くて、才能に恵まれて。たまたま同じクラスになった今が、私と蟻生くんを結ぶ唯一の点だった。
 制服のポケットからスマホを取り出した蟻生くんは、画面をスクロールしていく。何かを探しているみたいだった。視界の端を流れていくそれが、やがて止まる。私の前に向けられる。俺のオシャフォルダ。そこに入っていたそれを、私は良く知っている。



の絵はオシャだ」



 去年の文化祭で飾られた私の絵が、そこにあった。
 コンクールにも出したけれど、掠りもしなかった油絵。それでも全力で描いた。命を削るみたいに描いた青。隣に飾られた後輩の絵の方が、だけどずっと美しく、人の目を引いたのに。



「お前の描く絵が、好きだよ」



 だから辞めないでほしいというのは、俺のエゴだろうが。
 暑い夏の日だった。真っ青な空には雲一つ浮かんではいなかったし、蝉は叫ぶみたいに鳴いていた。私の爪の間は絵の具で汚れていて、指にはタコができていた。首や胸に伝う汗が煩わしくて、蟻生くんの前じゃなかったら、だらしなく服を捲って汗をぬぐったはずだった。だけどそんなの全然「オシャ」じゃないね。――なんてことない日だったのだ。私の心がポッキリ折れてしまうまでは。
 好きだ。
 蟻生くん。私と蟻生くんは、全く違う星に住んでいるようなものだった。長い人生の一瞬でたまたま今交わっただけの人だった。でも蟻生くんの今の言葉は、私に大きな傷を作った。だって私、誰かから自分の絵を好きだって言われたことなんか、一度もなかった。オシャフォルダ、なんて名前をつけられた場所に、自分の絵が存在するなんて、考えてもなかった。誰かの記憶に残る絵が描きたかった。いつまでも、いつまでも褪せることない線を誰かに引きたかった。
 たったそれだけで、辞めない、って思ったなんて言ったら、蟻生くんは、笑う?
 まって。絞り出すように吐き出した声が、分かりやすく震える。慌てて顔を隠した手の中にあった、蟻生くんがくれた緑茶が、微かに波打って音を立てる。



「そんなのずるいよ、蟻生くん」



 顔が熱い。痛くてたまらない。かさかさだった胸の内側も。嫉妬と諦念で焼き切れそうだった心も。
 蟻生くんの顔を見ていられなくて俯いたら、代わりにびっくりするくらい長い足が目に入った。私のとは全然違う、美しい皺の入った革靴。滑らかなそれは私たちよりきっとずっと老齢だった。蟻生くんに相応しい靴だった。優しい風合いをしていた。気がつけば心の棘は抜け落ちていた。絵が描きたいと思った。蟻生くんにもう一度、きちんとお礼を言ったら、靴を履き替えて、もう一度美術室に戻ろうと思った。後輩からのメッセージにスマホが震えるよりも早く、私はちゃんと、そう思っていたのだ。